長原孝太郎(読み)ながはら・こうたろう

朝日日本歴史人物事典 「長原孝太郎」の解説

長原孝太郎

没年:昭和5.12.1(1930)
生年:元治1.2.16(1864.3.23)
明治期の洋画家。美濃国(岐阜県)大垣生まれ。号止水。英学を学んだのち,明治13(1880)年医師を志し東京大学予備門へ入るが15年に中退小山正太郎の下で洋画を学ぶ。20年からは原田直次郎の影響を受け,28年には黒田清輝に師事し,翌年の白馬会結成に参加した。この間,21年から帝国大学(東大)で助手として動物標本類の写生などに従事,また,坪内逍遥当世書生気質』の挿絵を描いたりした。31年東京美術学校(東京芸大)助教授。40年東京府勧業博覧会に出品し3等賞を受賞したほか,文展出品作に「入道雲」(第3回,東京芸大蔵),「残雪」(第8回)などがある。

(三輪英夫)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長原孝太郎」の解説

長原孝太郎 ながはら-こうたろう

1864-1930 明治-昭和時代前期の洋画家。
文久4年2月16日生まれ。小山正太郎の不同舎でまなび,原田直次郎,黒田清輝にも師事した。挿絵,漫画でも知られ,明治26年雑誌「とばゑ」を発行した。東京美術学校(現東京芸大)教授。昭和5年12月1日死去。67歳。美濃(みの)(岐阜県)出身。東京大学予備門中退。号は止水。作品に「停車場の夜」「残雪」「入道雲」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の長原孝太郎の言及

【イラストレーション】より

…年方門下の清方は泉鏡花とのコンビが謳われ,年英門下の英朋は柳川春葉の《生さぬ仲》で人気を集めた。 洋画家の挿絵への進出は,1885年に坪内逍遥の《当世書生気質》を描いた長原孝太郎(止水)(1864‐1930)がいるが,当時としては新しすぎ,受け入れられなかった。洋画家が多く挿絵界に進出するのは96年の白馬会結成,東京美術学校西洋画科新設のころからである。…

【明治・大正時代美術】より

…また明治美術会を脱し,フランスの明るく自由な画家社会を理想とする新しい絵画団体白馬会を結成,主宰する。黒田は美術学校と白馬会に拠って,藤島,岡田をはじめ,和田英作(1874‐1959),湯浅一郎(1868‐1931),白滝幾之助(1873‐1959),長原孝太郎(止水。1864‐1930),中沢弘光(1874‐1964),北蓮蔵(きたれんぞう)(1876‐1949),小林万吾(1870‐1947)ら,明治後期の洋画壇を築いた多くの新人を育てた。…

※「長原孝太郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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