戦国時代の大名。国親(くにちか)の子として土佐国長岡郡岡豊(おこう)(高知県南国(なんこく)市)に生まれる。幼名弥三郎。宮内少輔(くないのしょう)、羽柴(はしば)土佐侍従、従四位下(じゅしいのげ)少将。1560年(永禄3)家督相続後土佐の豪族を従え、1574年(天正2)一条兼定(いちじょうかねさだ)を追い、翌年7月土佐を統一した。同年末ごろ阿波(あわ)(徳島県)に出兵、ついで伊予(いよ)(愛媛県)、讃岐(さぬき)(香川県)へ侵入した。1582年の織田信長との対戦は本能寺(ほんのうじ)の変で危機を免れ、8月十河存保(そごうまさやす)を中富川(なかとみがわ)に破り阿波を制圧し、ついで讃岐の十河城を陥れ、1585年の春伊予の河野通直(こうのみちなお)を降(くだ)して四国を制覇した。だが同年夏豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れ、土佐一国を安堵(あんど)された。1586年冬九州に出兵し島津の軍と豊後(ぶんご)(大分県)戸次川(へつぎがわ)で戦って敗れ、長男信親(のぶちか)は戦死した。そのため以後の元親の性格は一変した。
1587年9月より検地を始め、1588年冬居城を大高坂(おおたかさ)(高知市)に移し後嗣(こうし)を四男盛親(もりちか)と定め、反対者を処刑した。1590年小田原征伐に参加し、翌年浦戸城(うらどじょう)(高知市)に移転した。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に出兵し、1596年(慶長1)にはサン・フェリペ号の処理を行い、1597年3月掟書(おきてがき)(百箇条)を定め発布した。1599年3月三男親忠(ちかただ)を幽閉したのち上洛(じょうらく)したが、5月19日伏見(ふしみ)で死去。遺骨は吾川(あがわ)郡長浜村天甫寺(てんぽじ)山(高知市)に葬られた。法号は雪蹊恕三(せっけいにょさん)大禅定門。元親は政治、軍事上の活動だけでなく、仏教、儒学を重んじ和歌、連歌、茶道の心得もあった。国分寺金堂、土佐神社、豊楽寺(ぶらくじ)薬師堂は元親の修築したもので、現存の長宗我部地検帳は文化遺産として有名である。
[山本 大]
『山本大著『長宗我部元親』(1960・吉川弘文館)』▽『平尾道雄著『長宗我部元親』(1966・人物往来社)』▽『山本大著『土佐長宗我部氏』(1974・新人物往来社)』
戦国・織豊期の大名。初名弥三郎。宮内少輔。国親の子。1560年(永禄3)家を継ぎ長岡郡岡豊(おこう)城を根拠とし,国内の有力国人本山,津野,安芸氏などを従えて領地を拡大,70年(元亀1)にはほぼ土佐6郡を領するに至る。ついで74年(天正2)残る幡多郡の土佐国司一条兼定を豊後に追い,兼定の子内政を擁立,これを岡豊に近い大津城に移し,娘を配した。翌年には安芸郡東部を征して土佐一国の統一をなし遂げた。この間,永禄末より元亀にわたる土佐一宮神社再建事業は土佐中央部を制圧した戦国大名としての宣言とみてよい。以後,阿波の三好,伊予の西園寺・宇都宮,讃岐の香川・羽床などの諸氏を下し,四国併呑の勢いを示した。そこでこれを非とする織田信長の先鋒軍を82年阿波へ迎えるが,本能寺の変で危機を脱し,以後,豊臣秀吉と敵対しながら四国統一戦争を展開,85年,四国全土を統一する。しかし同年,秀吉の四国征伐を受けて降伏,土佐一国7万8000石を安堵され,翌年九州に出陣,豊後戸次(へつぎ)川の戦で長男信親を失う。侍従土佐守,羽柴の姓を受ける。87年より一国惣検地を始め,88年には岡豊より大高坂(おおだかさ)に移城,四男盛親を後嗣と定めた。90年小田原出陣,帰国後浦戸に移城。文禄・慶長の役に従軍し,従四位下,少将に任ぜられる。その間サン・フェリペ号事件を処理し,96年(慶長1)《長宗我部元親百箇条》を定めている。伏見で死去。
執筆者:下村 效
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(下村效)
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1538~99.5.19
織豊期の武将。土佐国岡豊(おこう)城主国親の長男。土佐を統一し,1585年(天正13)春伊予国の河野通直を破り四国平定をほぼ終えた。しかし,同年豊臣秀吉の四国攻めで降伏し,土佐一国を与えられ,のち浦戸城主。86年九州攻めに参陣し,豊後国戸次(へつぎ)川の戦で島津軍に敗れ,長男信親は戦死。小田原攻め,文禄・慶長の役に参陣。96年(慶長元)サン・フェリペ号事件の処理にあたった。子の盛親とともに法度「長宗我部元親百箇条」を制定。
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…御師(おし)―檀那という形で一族単位,一郷一村単位の師檀関係が結ばれる熊野信仰も,室町時代には阿波一国に広範に広がっている。1575年(天正3)土佐の長宗我部元親は海部郡に侵入し,82年には勝瑞城を攻略し,三好氏は3代にして滅んだ。元親はその後,白地城(三好郡)を根拠地に四国全体の制覇をなしとげていくのである。…
…【大脇 保彦】
[高知城下]
土佐国の城下町。古代の高坂郷,中世の大高坂郷に属するこの地は,南北両党が激突するなど早くから土佐中部の要衝として注目されていたが,浦戸湾奥の低湿地で治水に難があり,1588年(天正16)ころ大高坂城下町経営に着手した長宗我部元親も失敗,放棄して浦戸へ移転している。関ヶ原の戦後新領主となった山内一豊は,入国直後より大高坂の故地に新城を築き1603年(慶長8)浦戸より入城,以後高知は土佐一国を管する山内氏の城下町として幕末に至る。…
…豊臣政権による天下統一の過程で,重要な一段階となる1585年(天正13)の四国制圧戦争をいう。1575年に土佐一国を統一した長宗我部元親は,引き続いて伊予,阿波,讃岐に進攻,各地を席巻した。当初,織田信長はこれを黙認していたが,82年5月,三好三人衆の康長(笑岩)を先鋒軍として阿波に入れ,三男の織田信孝と丹羽長秀を将とする四国討伐動員令を下した。…
…その後,盛親は大坂の陣に再起を図るが敗走して捕らえられ,刑死した。織豊期大名として知られるが,現存する《長宗我部地検帳》《長宗我部元親百箇条》などには戦国期的後進性が顕著にみられる。また,戦国・織豊期大名としての文芸事跡も徴される。…
…当初は家領回復に追われたが,細川氏の守護領国制崩壊後はその抜群の家格をもって諸国人間の紛争を調停,房基のころには東進して高岡郡南部をもその版図に収め,豊後の大友氏と結びしばしば伊予南部へ侵入した。しかしこのような戦国大名化は,東土佐を平定し1569年(永禄12)西進をはじめた長宗我部元親により阻止された。元親は74年(天正2)一条兼定を豊後に追い旧一条領を平定,その子内政を長岡郡大津城(現,高知市)に移し娘を配したが,波川玄蕃の謀反に荷担したため伊予へ追放。…
…いわゆる土佐の〈七守護〉〈七大名〉である。このうち国親の後を継いだ長宗我部元親は次々と七守護を倒し,74年(天正2)には土佐一条氏をも下して土佐一国を統一,さらに85年(天正13)四国全土を併呑する。ただこのとき,豊臣秀吉の討伐を受けて降伏,土佐一国を安堵されて豊臣政権の一大名となり,土佐は中央政権の一地域に組みこまれる。…
※「長宗我部元親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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