長宗我部元親(読み)チョウソカベモトチカ

デジタル大辞泉 「長宗我部元親」の意味・読み・例文・類語

ちょうそかべ‐もとちか〔チヤウそかべ‐〕【長宗我部元親】

[1539~1599]戦国時代の武将。土佐の人。国司一条氏を追って土佐さらに四国全土を支配したが、豊臣秀吉四国征伐で降伏。九州征伐朝鮮出兵に参加。「長宗我部元親百箇条」は分国法として有名。

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精選版 日本国語大辞典 「長宗我部元親」の意味・読み・例文・類語

ちょうそかべ‐もとちか【長宗我部元親】

  1. 安土桃山時代の武将。幼名彌三郎。土佐を平定し、阿波・讚岐・伊予を攻め四国全土を制覇した。秀吉に伊・讚二国の献上を拒否して戦い、降伏。土佐の領有を許される。九州平定、文祿・慶長の役に出兵。「長宗我部元親百箇条」は、戦国大名分国法として有名。天文七~慶長四年(一五三八‐九九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長宗我部元親」の意味・わかりやすい解説

長宗我部元親
ちょうそがべもとちか
(1539―1599)

戦国時代の大名。国親(くにちか)の子として土佐国長岡郡岡豊(おこう)(高知県南国(なんこく)市)に生まれる。幼名弥三郎。宮内少輔(くないのしょう)、羽柴(はしば)土佐侍従、従四位下(じゅしいのげ)少将。1560年(永禄3)家督相続後土佐の豪族を従え、1574年(天正2)一条兼定(いちじょうかねさだ)を追い、翌年7月土佐を統一した。同年末ごろ阿波(あわ)(徳島県)に出兵、ついで伊予(いよ)(愛媛県)、讃岐(さぬき)(香川県)へ侵入した。1582年の織田信長との対戦は本能寺(ほんのうじ)の変で危機を免れ、8月十河存保(そごうまさやす)を中富川(なかとみがわ)に破り阿波を制圧し、ついで讃岐の十河城を陥れ、1585年の春伊予の河野通直(こうのみちなお)を降(くだ)して四国を制覇した。だが同年夏豊臣秀吉(とよとみひでよし)に敗れ、土佐一国を安堵(あんど)された。1586年冬九州に出兵し島津の軍と豊後(ぶんご)(大分県)戸次川(へつぎがわ)で戦って敗れ、長男信親(のぶちか)は戦死した。そのため以後の元親の性格は一変した。

 1587年9月より検地を始め、1588年冬居城を大高坂(おおたかさ)(高知市)に移し後嗣(こうし)を四男盛親(もりちか)と定め、反対者を処刑した。1590年小田原征伐に参加し、翌年浦戸城(うらどじょう)(高知市)に移転した。文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の役に出兵し、1596年(慶長1)にはサン・フェリペ号の処理を行い、1597年3月掟書(おきてがき)(百箇条)を定め発布した。1599年3月三男親忠(ちかただ)を幽閉したのち上洛(じょうらく)したが、5月19日伏見(ふしみ)で死去遺骨は吾川(あがわ)郡長浜村天甫寺(てんぽじ)山(高知市)に葬られた。法号は雪蹊恕三(せっけいにょさん)大禅定門。元親は政治、軍事上の活動だけでなく、仏教、儒学を重んじ和歌、連歌、茶道の心得もあった。国分寺金堂、土佐神社、豊楽寺(ぶらくじ)薬師堂は元親の修築したもので、現存の長宗我部地検帳は文化遺産として有名である。

[山本 大]

『山本大著『長宗我部元親』(1960・吉川弘文館)』『平尾道雄著『長宗我部元親』(1966・人物往来社)』『山本大著『土佐長宗我部氏』(1974・新人物往来社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「長宗我部元親」の意味・わかりやすい解説

長宗我部元親 (ちょうそがべもとちか)
生没年:1539-99(天文8-慶長4)

戦国・織豊期の大名。初名弥三郎。宮内少輔。国親の子。1560年(永禄3)家を継ぎ長岡郡岡豊(おこう)城を根拠とし,国内の有力国人本山,津野,安芸氏などを従えて領地を拡大,70年(元亀1)にはほぼ土佐6郡を領するに至る。ついで74年(天正2)残る幡多郡の土佐国司一条兼定を豊後に追い,兼定の子内政を擁立,これを岡豊に近い大津城に移し,娘を配した。翌年には安芸郡東部を征して土佐一国の統一をなし遂げた。この間,永禄末より元亀にわたる土佐一宮神社再建事業は土佐中央部を制圧した戦国大名としての宣言とみてよい。以後,阿波の三好,伊予の西園寺・宇都宮,讃岐の香川・羽床などの諸氏を下し,四国併呑の勢いを示した。そこでこれを非とする織田信長の先鋒軍を82年阿波へ迎えるが,本能寺の変で危機を脱し,以後,豊臣秀吉と敵対しながら四国統一戦争を展開,85年,四国全土を統一する。しかし同年,秀吉の四国征伐を受けて降伏,土佐一国7万8000石を安堵され,翌年九州に出陣,豊後戸次(へつぎ)川の戦で長男信親を失う。侍従土佐守,羽柴の姓を受ける。87年より一国惣検地を始め,88年には岡豊より大高坂(おおだかさ)に移城,四男盛親を後嗣と定めた。90年小田原出陣,帰国後浦戸に移城。文禄・慶長の役に従軍し,従四位下,少将に任ぜられる。その間サン・フェリペ号事件を処理し,96年(慶長1)《長宗我部元親百箇条》を定めている。伏見で死去。
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朝日日本歴史人物事典 「長宗我部元親」の解説

長宗我部元親

没年:慶長4.5.19(1599.7.11)
生年:天文8(1539)
戦国・安土桃山時代の大名。初名弥三郎。土佐国長岡郡岡豊(南国市岡豊)城主国親の長子。永禄3(1560)年,家を継ぎ,七守護といわれた本山,安芸,津野などの有力国人を倒し,天正2(1574)年,三国司の一家,一条兼定を豊後に追い,翌年には安芸郡東部を制圧し土佐を統一した。その年から阿波,伊予,讃岐に侵攻,ほぼ四国を掌中に収めた同13年,豊臣軍に攻められて降伏した。それ以前,元親は徳川家康と結び豊臣秀吉の後方を脅かしていたからである。土佐一国(9万8000石,通説の22万石は誤り)を安堵され,以後,豊臣氏外様大名となる。翌年には島津征討の先陣を務め,豊後戸次川の合戦で長子信親以下七百余人の戦死という痛手を被る。16年正月,叙爵,4月,任侍従,聚楽行幸に供奉。このときは秦姓,のちに羽柴の苗字,豊臣の本姓を授かる。小田原攻め,朝鮮出兵に従軍し,伏見で没。土佐浦戸の雪蹊寺に葬る。寺内に宝篋印塔が現存(天甫寺山の宝篋印塔とする通説は誤り)。法名雪蹊恕三。贈正五位,少将。この間,天正16年,居城を岡豊から大高坂(高知市),18年に浦戸(高知市)へと移した。慶長1(1596)年,サン・フェリッペ号が漂着したのはこの浦戸である。 元親の施政で注目されるのは,天正15年よりの一国総検地であり,その正本283冊が高知県立図書館に保存されている。また,慶長1年制定の「長宗我部氏掟書」は豊臣時代の法であるが,土佐の後進性から戦国の様相もうかがわれ,分国法として著名である。元親は武勇,寛容,律義の人であったが,また狭量,悪逆の人ともいわれる。しかし,五山僧の過褒とはいえ策彦周良の『雪蹊字説』が「為人不凡庸」「文韜武略全者也」,惟杏永哲の『慈容賛』が「明悳必隣」「和気靄々」とするように,力量,人格ともに優れた武将であったと思われる。

(下村效)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「長宗我部元親」の意味・わかりやすい解説

長宗我部元親
ちょうそかべもとちか

[生]天文8(1539).土佐
[没]慶長4(1599).5.19. 伏見
戦国時代の大名。国親の子,幼名,弥三郎。宮内少輔。永禄3 (1560) 年家督を継ぎ,本山氏をはじめ土佐の諸豪族を倒して勢力を得,国司家一条氏を追放して,天正3 (75) 年土佐を統一した。さらに阿波三好氏,讃岐香川氏,伊予河野氏などの土豪を次々と滅ぼし,同 11年四国全域を支配した。しかしその前年からたびたび織田信長に攻撃され,同 13年ついに豊臣秀吉四国征伐に屈服してその支配下に入り,土佐一国を安堵 (あんど) された。その後九州征伐,小田原征伐,文禄・慶長の役,朝鮮出兵に従軍して国力を疲弊させた。分国統治のための『長宗我部元親百箇条』は有名。

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百科事典マイペディア 「長宗我部元親」の意味・わかりやすい解説

長宗我部元親【ちょうそがべもとちか】

戦国大名。土佐(とさ)の豪族国親の子。1560年家督を継ぎ,1575年土佐一国を平定,さらに1585年四国を統一したが,豊臣秀吉に攻められ土佐一国を残して降伏。以後秀吉に従って九州征伐,文禄・慶長の役に出陣し戦功をあげた。子の盛親とともに分国法として《長宗我部元親百箇条》を制定。
→関連項目四国征伐

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「長宗我部元親」の解説

長宗我部元親
ちょうそかべもとちか

1538~99.5.19

織豊期の武将。土佐国岡豊(おこう)城主国親の長男。土佐を統一し,1585年(天正13)春伊予国の河野通直を破り四国平定をほぼ終えた。しかし,同年豊臣秀吉の四国攻めで降伏し,土佐一国を与えられ,のち浦戸城主。86年九州攻めに参陣し,豊後国戸次(へつぎ)川の戦で島津軍に敗れ,長男信親は戦死。小田原攻め,文禄・慶長の役に参陣。96年(慶長元)サン・フェリペ号事件の処理にあたった。子の盛親とともに法度「長宗我部元親百箇条」を制定。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長宗我部元親」の解説

長宗我部元親 ちょうそかべ-もとちか

1538-1599 戦国-織豊時代の武将。
天文(てんぶん)7年生まれ。長宗我部国親の長男。永禄(えいろく)3年家督をつぐ。天正(てんしょう)13年四国を統一。同年豊臣秀吉に攻められ土佐(高知県)だけの領有をゆるされる。秀吉の九州攻め,小田原攻め,文禄(ぶんろく)・慶長の役にも出陣。領内では惣検地をおこない,「長宗我部元親百箇条」をさだめた。慶長4年5月19日死去。62歳。通称は宮内少輔,羽柴土佐侍従。

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旺文社日本史事典 三訂版 「長宗我部元親」の解説

長宗我部元親
ちょうそかべもとちか

1538〜99
戦国時代の武将
国親の子。1571年,国司の一条氏を追い土佐(高知県)1国を統一,さらに阿波(徳島県)・伊予(愛媛県)・讃岐(香川県)を攻略し,'83年四国全土を平定した。'85年豊臣秀吉の四国征討をうけ降伏し,土佐1国を安堵された。九州征討,文禄・慶長の役に参加。また長宗我部元親百箇条を制定した。

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世界大百科事典(旧版)内の長宗我部元親の言及

【阿波国】より

…御師(おし)―檀那という形で一族単位,一郷一村単位の師檀関係が結ばれる熊野信仰も,室町時代には阿波一国に広範に広がっている。1575年(天正3)土佐の長宗我部元親は海部郡に侵入し,82年には勝瑞城を攻略し,三好氏は3代にして滅んだ。元親はその後,白地城(三好郡)を根拠地に四国全体の制覇をなしとげていくのである。…

【高知[市]】より

…【大脇 保彦】
[高知城下]
 土佐国の城下町。古代の高坂郷,中世の大高坂郷に属するこの地は,南北両党が激突するなど早くから土佐中部の要衝として注目されていたが,浦戸湾奥の低湿地で治水に難があり,1588年(天正16)ころ大高坂城下町経営に着手した長宗我部元親も失敗,放棄して浦戸へ移転している。関ヶ原の戦後新領主となった山内一豊は,入国直後より大高坂の故地に新城を築き1603年(慶長8)浦戸より入城,以後高知は土佐一国を管する山内氏の城下町として幕末に至る。…

【四国征伐】より

…豊臣政権による天下統一の過程で,重要な一段階となる1585年(天正13)の四国制圧戦争をいう。1575年に土佐一国を統一した長宗我部元親は,引き続いて伊予,阿波,讃岐に進攻,各地を席巻した。当初,織田信長はこれを黙認していたが,82年5月,三好三人衆の康長(笑岩)を先鋒軍として阿波に入れ,三男の織田信孝と丹羽長秀を将とする四国討伐動員令を下した。…

【長宗我部氏】より

…その後,盛親は大坂の陣に再起を図るが敗走して捕らえられ,刑死した。織豊期大名として知られるが,現存する《長宗我部地検帳》《長宗我部元親百箇条》などには戦国期的後進性が顕著にみられる。また,戦国・織豊期大名としての文芸事跡も徴される。…

【土佐一条氏】より

…当初は家領回復に追われたが,細川氏の守護領国制崩壊後はその抜群の家格をもって諸国人間の紛争を調停,房基のころには東進して高岡郡南部をもその版図に収め,豊後の大友氏と結びしばしば伊予南部へ侵入した。しかしこのような戦国大名化は,東土佐を平定し1569年(永禄12)西進をはじめた長宗我部元親により阻止された。元親は74年(天正2)一条兼定を豊後に追い旧一条領を平定,その子内政を長岡郡大津城(現,高知市)に移し娘を配したが,波川玄蕃の謀反に荷担したため伊予へ追放。…

【土佐国】より

…いわゆる土佐の〈七守護〉〈七大名〉である。このうち国親の後を継いだ長宗我部元親は次々と七守護を倒し,74年(天正2)には土佐一条氏をも下して土佐一国を統一,さらに85年(天正13)四国全土を併呑する。ただこのとき,豊臣秀吉の討伐を受けて降伏,土佐一国を安堵されて豊臣政権の一大名となり,土佐は中央政権の一地域に組みこまれる。…

※「長宗我部元親」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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