長岡護美(読み)ながおか・もりよし

朝日日本歴史人物事典 「長岡護美」の解説

長岡護美

没年:明治39.4.8(1906)
生年天保13.9.7(1842.10.10)
肥後(熊本)藩主細川斉護の第6子。勤王派として明治維新に活躍。雲海と号し詩をよくした。明治期は中国通として活躍。明治1(1868)年3月参与。3年熊本藩大参事。5年米国を経て英国ケンブリッジ大に留学。12年帰国。子爵賜り,外務省御用掛となる。13年興亜会会長。同年オランダ駐箚特命全権公使となり,ベルギー,デンマーク両公使も兼務。15年元老院議官。16年高等法院陪席裁判官となり福島事件を裁判。31年東亜同文会副会長。34年清国に渡り,劉坤一,張之洞らと内政改革とロシア対策を会談。<参考文献>対支功労者伝記編纂会編『対支回顧録』

(佐々博雄)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長岡護美」の解説

長岡護美 ながおか-もりよし

1842-1906 幕末-明治時代の武士,外交官
天保(てんぽう)13年9月7日生まれ。肥後熊本藩主細川斉護(なりもり)の6男。分家して長岡姓を名のる。明治新政府の参与や熊本藩大参事をつとめたあと米英に留学。明治13年オランダ公使となった。のち元老院議官,貴族院議員。子爵。明治39年4月8日死去。65歳。通称は良之助,左京亮。号は雲海。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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