長崎代官所跡(読み)ながさきだいかんしよあと

日本歴史地名大系 「長崎代官所跡」の解説

長崎代官所跡
ながさきだいかんしよあと

[現在地名]長崎市勝山

江戸時代、勝山かつやま町に置かれた代官所の跡。勘定奉行に属し、長崎および周辺の肥前・肥後豊前・豊後諸国などの幕府領を管轄した。その機能は天正一六年(一五八八)豊臣秀吉が龍造寺氏の家臣鍋島直茂に長崎などを預けて代官とした当時までさかのぼるが(同年四月二日「豊臣秀吉朱印状写」神戸市立博物館蔵)、文禄の役に出陣した直茂に代わって肥前唐津城主寺沢広高が奉行に命じられ(長崎奉行歴代略譜)、文禄元年(一五九二)長崎の町衆の代表として秀吉に面談した長崎町人の村山等安が慶長三年(一五九八)より代官に任じられた。等安は町年寄支配のうち町と別に、地子銀二五貫目を納める代りに内町以外の地を管轄することを許されたという(「長崎拾芥」「長崎根元記」「長崎志」など)。同九年等安は耶蘇会宣教師ロドリゲスとともに伏見ふしみ(現京都市伏見区)徳川家康を訪ね、長崎の管理を命じられ(長崎県史)、この体制は家康によっても継承されたことがうかがえる。また朱印船貿易家としても活動、呂宋のつぼの取引で資産を得て(アビラ・ヒロン「日本王国記」)、慶長一一年鍋島勝茂の要請に応じて銀二〇貫を、同一九年に島津氏に銀二〇貫を貸付け、元和二年(一六一六)に兵船一三艘を高砂国に派遣して日中貿易市場の確保に努めている(「鍋島勝茂覚書」鍋島家文書、「旧記雑録」など)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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