長州藩(萩藩)の支藩の一で,長門国豊浦(とようら)郡の大部分と厚狭(あさ)郡西部の一部を領域とする藩。府中藩ともいい,1869年(明治2)の版籍奉還時,豊浦(とよら)藩と改称した。1600年(慶長5),毛利輝元の防長2ヵ国への移封に際して,その従弟秀元(元就四男元清(もときよ)の次男)に長府(現,下関市)3万6200石を分知したのが起りとされる。藩高は4万7000余石と通称されていたが,1783年(天明3)公称5万石の城主格に列した。本藩の公称36万余石の割合では4万7000余石になるが,実高はもっと多く,慶長検地では5万8000余石,寛永検地では8万3000余石で,廃藩時には12万4000余石に達していた。下関海峡に面した重要地を領していたため,1865年(慶応1)には馬関替地論が起こり,本藩が清末藩ともども統一支配下におこうとしたが,長府藩はこれに応じなかった。
執筆者:田中 彰
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中世後期には大内氏,さらに毛利氏が支配し,九州への進出拠点として軍事上の要衝であった。【木村 忠夫】 1600年(慶長5)長州藩の支藩として長府藩が成立し,その支配地となった。赤間関は大内時代の1441年ころ(嘉吉年間)に阿弥陀寺町,外浜(とばま)町,中ノ町,西之端町,赤間町,南部(なべ)町などが成立していたが,近世に入って西部が発展して細江町ができた。…
※「長府藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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