長谷川テル(読み)はせがわてる

改訂新版 世界大百科事典 「長谷川テル」の意味・わかりやすい解説

長谷川テル (はせがわてる)
生没年:1912-47(大正1-昭和22)

日本のエスペランチスト反戦活動家。筆名緑川英子,またはVerda Majo(ベルダ・マーヨ。エスペラントで〈緑の五月〉の意)。土木技師の娘として父の出張先の山梨県に生まれた。東京で育ち,奈良女子高等師範学校在学中の1932年ごろ,エスペラントを学ぶ。プロレタリア文化運動と関係したため検挙され,退学。東京へもどってエスペラントによる文学活動中に,エスペランチストの中国人留学生,劉仁(劉鏡寰)と結婚,日中戦争直前の37年4月,上海に渡る。戦争開始後,広州,香港を経て38年7月,武漢にたどりつき,国民党中央宣伝部国際宣伝処で日本兵むけの反戦放送を開始,内外に大反響をまねいた。日本軍の侵攻とともに重慶へ移り,放送をつづけたが,国共の対立激化でしだいに共産党にひかれてゆく。のち郭沫若のもとで対敵文化工作委員会に移り,エスペラント活動をつづける。46年,夫の故郷東北地方へもどり,共産党支配地域にはいったが,47年,妊娠中絶手術が原因でチャムス(佳木斯)で死去。35歳。まもなく劉仁も死去したため晩年消息は長らく不明であったが,近年遺児の劉星・劉暁蘭兄妹によって事情が明らかにされた。著書に《嵐の中のささやき》(1941),《戦う中国で》(1945)があり,いずれもエスペラント,重慶刊。宮本正男編《長谷川テル作品集》(1979)がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「長谷川テル」の意味・わかりやすい解説

長谷川テル
はせがわてる
(1912―1947)

エスペランティスト。山梨県生まれ。東京府立第三高女を経て1929年(昭和4)奈良女子高等師範学校(現、奈良女子大学)に進学。在学中エスペラントを学び始め、1932年には左翼文化運動に関与したかどで検挙され女高師を中退。帰京後エスペランティストたちと交流し、その一人中国人の劉仁(りゅうじん)(1912?―1947)と結婚した。1937年4月劉仁を追って上海(シャンハイ)に渡り、日中戦争開始後さらに香港(ホンコン)、広東(カントン)、漢口を転々し、1938年末から1945年まで重慶に滞在、この間、抗日宣伝活動に従事、日本向けの反戦放送を担当し、日本の新聞紙上では「売国奴」として非難された。また、反戦・国際平和の立場から数々のエスペラントの作品を残した。1947年佳木斯(チャムス)で死去。

[北河賢三 2018年10月19日]

『宮本正男編『長谷川テル作品集』(1979・亜紀書房)』『利根光一著『テルの生涯』(1969・要文社)』『高杉一郎著『中国の緑の星 長谷川テル反戦の生涯』(1980・朝日新聞社)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長谷川テル」の解説

長谷川テル はせがわ-テル

1912-1947 昭和時代のエスペラント運動家。
明治45年3月7日生まれ。左翼運動にかかわり奈良女高師を退学。東京でエスペランチストの中国人留学生劉仁(りゅう-じん)と結婚。昭和12年中国にわたり,対日反戦放送に従事,民族解放をうったえた。昭和22年1月14日佳木斯(チヤムス)で死去。36歳。山梨県出身。筆名は緑川英子,ベルダ=マーヨ。著作に「たたかう中国にて」など。

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