長連竜(読み)ちょう・つらたつ

朝日日本歴史人物事典 「長連竜」の解説

長連竜

没年:元和5.2.3(1619.3.18)
生年天文15(1546)
安土桃山・江戸時代前期の武将。続連の子。鎌倉時代に能登大屋荘(石川県輪島市)の地頭となって土着した長谷部氏を略して長氏という。天正5(1577)年,主家畠山氏の拠城七尾城(七尾市)が上杉謙信に囲まれた際,重臣遊佐続光らは降伏に反対した父続連,兄綱連を謀殺し開城したが,連竜はこれより先織田信長援軍を請うため城を脱出していた。援軍はすぐにはこなかったが,同8年信長の家臣柴田勝家が加賀(石川県)に侵攻すると,連竜は七尾城に仇敵温井景隆を攻めて降伏させ,信長から能登国鹿島半郡をあてがわれた。また翌年6月には続光を捜し出して父と兄の仇をとり,同年8月,前田利家が能登一国を与えられるとその与力となった。利家は連竜を「我等一人を守り律義人」と評し,信頼を寄せている。江戸時代,長氏は代々,加賀藩第2位の禄高3万3000石を誇った。<参考文献>『加賀藩史料』1編

(河村昭一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「長連竜」の解説

長連竜 ちょう-つらたつ

1546-1619 織豊-江戸時代前期の武将。
天文(てんぶん)15年生まれ。上杉謙信に攻められたとき,父続連(つぐつら)と兄綱連(つなつら)が重臣に謀殺されたため家督をつぐ。織田信長に属し能登鹿島半郡をあたえられる。のち加賀金沢藩の前田利家(としいえ)の与力となり,大坂の陣などで活躍し,3万3000石を領した。元和(げんな)5年2月3日死去。74歳。通称九郎左衛門

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の長連竜の言及

【長氏】より

…能登の中・近世武家。始祖は長谷部信連(はせべのぶつら)。長の姓は信連の出生地遠江国長邑にちなむといい,また一説には長谷部の略称ともいう。信連ははじめ以仁(もちひと)王に仕えたが,後に源頼朝の御家人となり,能登国大屋荘(現,石川県輪島市)地頭となった。その没後,一族は同荘を中心に能登の各地に発展した。南北朝・室町期には守護の吉見氏,畠山氏の支配からは独立した立場を保持し,足利将軍家の奉公衆であった。能登畠山氏の戦国大名化につれて麾下に属し,続連・綱連らは重臣となり,穴水(あなみず)(現,石川県鳳至(ふげし)郡穴水町)を本拠とした。…

※「長連竜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

黄砂

中国のゴビ砂漠などの砂がジェット気流に乗って日本へ飛来したとみられる黄色の砂。西日本に多く,九州西岸では年間 10日ぐらい,東岸では2日ぐらい降る。大陸砂漠の砂嵐の盛んな春に多いが,まれに冬にも起る。...

黄砂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android