(1)中国の地名。Guān dōng。函谷関(河南省の北西部)または潼関以東の地を指し,現在の河南省,山東省などの地をいう。別称は関左。なお,山海関(河北省臨楡県)以東の地も関東といい,かつての遼寧,吉林,黒竜江の三省を関東三省と称した。
執筆者:永田 英正(2)朝鮮の地名。現在の江原道地方さし,関東八景など山水の名勝に富み,鄭澈の〈関東別曲〉など多くの詩文に詠まれた。
(3)日本の地名。奈良時代は,伊勢国の鈴鹿,美濃国の不破,越前国の愛発(あらち)という三関の東の地方を関東(西の地方を関西)と称した。今日の東日本から北陸地方を除いた地域に,ほぼ相当する。しかし徳川家康の江戸入府以降は箱根の関の重要度が高まり,関東といえばこの関の東,すなわち現在の関東地方を指すようになった。
執筆者:大場 正敏
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…その後1609年(慶長14)松平正綱が会計の総括を命じられ,15年(元和1)奉書連署,諸士支配とともに勘定奉行兼務を命じられた。30年(寛永7)曾根吉次は関東勘定頭,ついで36年惣勘定頭となった。1635年幕府は年寄(老中)以下主要役職の管掌事項を制定したが,関東幕領と農民の訴訟は松平正綱,伊丹康勝,伊奈忠治,大河内久綱,曾根吉次の5人に月番による勤務を命じ,これがのちの勘定奉行の職掌とされる。…
…京畿道,江原道,忠清道を中部地方とし,全羅道,慶尚道,済州島(現在は済州道をなす)を南部地方とする。また京畿・忠清両道をさして畿湖,江原道を関東,全羅道を湖南,慶尚道を嶺南とよぶ場合もある。李朝初期の15世紀から行われた咸鏡,平安,黄海,江原,京畿,忠清,慶尚,全羅の8道制は自然地理を加味したすぐれたものであったが,日本の植民地時代には,行政的に咸鏡,平安,忠清,慶尚,全羅の5道をそれぞれ南北2道に分けた13道制をしき,現在は南北の両国家において,9道ずつの行政区画を行っている。…
…そして縄文晩期,西北九州に稲作の技術が伝播したのを契機に始まる弥生文化が西日本に急速に広がったのに対し,東日本がしばらく縄文文化にとどまったことは,この差異をさらに著しいものにした。
[〈東国〉の範囲]
西日本には水田を基礎とする国家が東日本に先んじて形成され,やがて畿内を基盤とする政権が日本列島の主要部に影響を拡大し,東北北部を除く東日本もその影響下に入るが,この政権を構成する人々は,東日本を〈あづま〉〈東国〉といっており,それはまず関東・東北地方を意味していた。しかし〈東歌(あずまうた)〉のとられた範囲,防人(さきもり)の動員された地域からみると東国はさらに広く,縄文・弥生時代の東日本とほぼ一致する越後・信濃・三河以東の地域を指すことが多く,事実この地域は言語,民俗においても西日本と異質なものをもっていた。…
…1827年(文政10)から29年にかけて,関東の農村を対象として実施された支配強化のための改革。19世紀前半の文化・文政期(1804‐30)の関東の農村は小農経営が解体し,高利貸資本としての豪農経営が展開する一方,土地を失い没落する農民が多数発生し,彼らが無宿人や渡世人として横行するようになった。…
※「関東」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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