鎌倉幕府の直轄領で将軍家家領ともいい,将軍が本所として支配した荘園や国衙(こくが)領。将軍は関東御領に対して御家人たちを預所や地頭などに任命して支配を行い,年貢・公事(くじ)などを徴収した。幕府財政にとって関東御領からの収入は相当大きな割合を占めていたと思われるが,残念ながら関東御領全体の規模や収益などを示す史料はまったく残されていない。鎌倉幕府の成立期の1184年(元暦1)初代の将軍源頼朝は,京都の朝廷から平氏一族の旧領500余ヵ所を平家没官領として与えられ,これが関東御領の主要な基礎となった。ついで1221年(承久3)承久の乱に勝利を収めた結果,幕府は京都方の貴族や武士の所領3000余ヵ所を没収したが,このうち関東御領に加えられたものも少なくなかったであろう。鎌倉時代の後期,幕府の実権が執権北条氏の手に握られてから,関東御領のかなりの部分は北条氏一族,とくに嫡流家の所領とされてしまったようである。
関東御領の推移についてわかるのは,ほぼ以上の程度であるが,その地域的分布もまた明らかではない。幕府の直接の基盤であり,ひざ元ともいうべき東国地方の,とくに国衙領が多かったろうと考えられること,若干の例からすれば,国内の交通上の要地を占めていたであろうことが推察されるくらいにすぎない。それにしても関東御領が鎌倉幕府の経済的基盤として果たした役割は重要であり,将軍が大量の荘園・国衙領を所有していた事実も幕府の政治的,経済的性格を考えるために無視できないことである。これらの問題を明らかにするためには,関東御領の研究がさらに推進されねばなるまい。その際の研究課題として,関東御領の支配の形式や内容に,他の荘園と比較してどのような特色がみとめられるか,という問題がある。また当時の文献史料には,幕府が本所の地位に立っていないのに,地頭だけを〈関東御分〉とする例が見られるが,こうした場合を関東御領としてどのように位置づけるかという問題もまだ解明されてはいない。
執筆者:石井 進
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鎌倉将軍家領。将軍家が本所(ほんじょ)・領家(りょうけ)となっている荘園(しょうえん)。東北から九州にかけて各地に分布する。御家人(ごけにん)の所領を私領というのに対して、公領ということもある。関東御領の多くは元は平家領の荘園で、いったん朝廷に没収ののち、源頼朝(よりとも)に与えられたもの(平家没官領(もっかんりょう))である。源家累代の荘園、承久(じょうきゅう)の乱(1221)による没収地などもある。関東御領の管理は、将軍家政所(まんどころ)が行い、現地には御家人が預所(あずかりどころ)として派遣されることが多かった。
[入間田宣夫]
『石井進「関東御領研究ノート」(『金沢文庫研究』267号所収・1981.9・神奈川県立金沢文庫)』▽『同「関東御領覚書」(『神奈川県史研究』50号所収・1983.3・神奈川県史編集委員会)』
鎌倉殿御領とも。鎌倉幕府の首長である鎌倉殿(将軍)が,本所として支配した荘園。幕府の直轄地で,御家人に課す関東御公事(みくうじ)とともに幕府の主要な財源であった。多くは平氏一族や承久の乱での京方貴族がもっていた本家・領家の職を継承したもの。そのほかの平家没官領(へいけもっかんりょう)や承久没収地についても,継承した権限が拡張され関東御領となったものが少なくない。その全貌は不明だが,現在200カ所近くが知られる。支配は政所(まんどころ)が統轄し,預所(あずかりどころ)と地頭(同一人が兼帯することもある)が現地の管理にあたった。鎌倉後期には,北条氏の得宗領化していく。
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