阿倍小足媛(読み)あべのおたらしひめ

朝日日本歴史人物事典 「阿倍小足媛」の解説

阿倍小足媛

生年生没年不詳
7世紀,孝徳天皇の妃。阿倍倉梯麻呂の娘。男足媛とも書かれ,読みは「おたりひめ」かもしれない。舒明12(640)年,孝徳天皇がまだ軽皇子と呼ばれていたころ,同行先の有間温湯(兵庫県有馬温泉)で有間皇子を生む。孝徳即位後,臣下の娘である小足媛は妃のひとりにすぎなかったが,有間皇子は天皇にとって唯一の皇子だった。その皇子が謀反の疑いで絞殺刑にされたとき(658),彼女はすでにこの世になかったようである。皇極3(644)年に軽皇子が,宮を訪れた中臣鎌足を丁重に接待させたと『日本書紀』に記されている「寵妃阿倍氏」とは,幼い有間皇子と夫と暮らす小足媛のことであろう。

(児島恭子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「阿倍小足媛」の解説

阿倍小足媛 あべの-おたらしひめ

?-? 飛鳥(あすか)時代,孝徳天皇の妃。
阿倍倉梯(くらはしの)麻呂の娘。舒明(じょめい)天皇12年(640)有間皇子を生む。皇極天皇3年藤原鎌足が軽(かるの)皇子(孝徳天皇)の宮をたずねたとき,皇子の命で丁重に接待をした人とみられる。「帝王編年記」では男足媛。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の阿倍小足媛の言及

【孝徳天皇】より

…645年(大化1)6月に甥の中大兄皇子(天智天皇)らが蘇我氏権力を打倒すると,皇極女帝の譲位をうけて即位し,中大兄皇子を皇太子とし,年号を大化と定め,同年末に都を難波の長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)に移した。また中大兄皇子の妹の間人(はしひと)皇女を皇后としたが,即位以前にすでに妃の阿倍小足媛(おたらしひめ)との間に有間皇子を生んでいた。天皇の治世は改新政治の発足期で,中大兄皇子が実権を握って政治を推進したとみられるが,653年(白雉4)に至って,皇子は天皇が同意しなかったにもかかわらず,皇極上皇,間人皇后以下公卿百官人を率いて大和の飛鳥に戻った。…

※「阿倍小足媛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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