雑賀衆(読み)さいかしゅう

山川 日本史小辞典 改訂新版 「雑賀衆」の解説

雑賀衆
さいかしゅう

戦国期,紀伊国鷺森御坊(さぎのもりごぼう)によった本願寺門徒の集団。在地の国人層と農民からなるが,紀ノ川河口で水運に従事する者も多かった。根来(ねごろ)衆と結んで鉄砲の技術にたけ石山合戦では本願寺の中心兵力として織田信長軍に抗戦。しかし優勢な信長軍に降伏する勢力などがでて結束は徐々に崩れ,1585年(天正13)豊臣秀吉の紀州攻めをうけ壊滅した。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の雑賀衆の言及

【紀伊国】より

…なおこの時期には惣(惣村)の形成が各地でみられ,鞆淵荘,相賀荘柏原村,粉河荘東村などにその実態を示す好史料が残されている。
[畠山氏の分裂と根来・雑賀衆]
 永享年間(1429‐41)には,高野山で学侶と行人の抗争が起こり,守護畠山氏の勢力にもかげりがみえてくる。1460年(寛正1),細川勝元に支援された政長によって義就が守護を罷免されて以降,畠山氏は両派に分裂し,紀伊国は河内・大和国とともに激しい抗争の舞台となり,これが応仁・文明の乱に発展した。…

【雑賀】より

…雑賀荘の北辺には紀伊湊が接しており,また外洋から湊に通じる紀ノ川が荘内を流れていたので,荘民の多くは物資の船舶輸送に深くかかわっていたと思われる。このため,雑賀荘は北に向かって拡大する傾向が早くからみられるが,紀ノ川の河道が現状に近くなった戦国時代には,粟・土橋から梶取・狐嶋にいたる肥沃な旧河道の一帯が雑賀にとりこまれ,その開発を通じて雑賀衆の中心をなす新興の土豪地侍層が台頭した。雑賀衆の多くは一向宗に帰依し,いち早く鉄砲で武装した強力な軍事集団として石山本願寺一揆には本願寺の後方基地の役割をはたした。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」