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明治・大正の医学者。安政6年5月15日美濃(みの)国(岐阜県)苗木藩士青山景通(あおやまかげみち)(1819―1891)の第3子として生まれる。1869年(明治2)国学者平田信胤(ひらたのぶたね)の養子となって、幼名の助松を胤通と改めたが、2年後に家庭の事情で青山家に復した。1882年東京大学医学部を卒業、翌1883年ドイツに留学を命ぜられ、ベルリン大学で内科学を専攻し、1887年に帰国、帝国大学医科大学(現、東京大学医学部)教授となった。1894年香港(ホンコン)にペストが流行したとき、調査研究のため北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)とともに政府から派遣されたが、このときペストに感染して九死に一生を得た。1897年大学付属病院長を兼ね、内科主任教授としてドイツ医学の輸入と、日本の医学の初期の発展に力を尽くした。おもな研究業績には、ペストをはじめとする感染症や脚気(かっけ)があるが、学問的業績よりもむしろ医学者として多くの人材を育て上げた功績が大きい。帝国学士院会員、癌(がん)研究会(現、がん研究会)会長、宮内省御用掛、伝染病研究所(現、東京大学医科学研究所)所長などを歴任した。大正6年12月23日食道癌で死去。
[深瀬泰旦]
『鵜崎熊吉編『青山胤通』(1930・青山内科同窓会)』▽『熊谷謙二編『思い出の青山胤通先生』(1959・青山先生生誕壱百年祭準備委員会)』
内科学者。岐阜県出身。東大卒。欧州留学,主としてベルリン大学において内科学を専攻,1887年東大教授となり,青山内科を主宰し,全国にその名が知られた。付属医院長,医科大学(東大医学部)長を歴任。94年香港(ホンコン)でのペスト流行に際し,北里柴三郎らとともに調査に赴いたが,同症に感染,一時は危うかったが回復して帰国した。このペストに関する研究は彼の代表的な業績であるが,当時問題となっていた脚気についての仕事も多い。1906年癌研究会会頭,14年伝染病研究所長,宮内省御用掛,帝国学士院会員などを歴任。嗣子徹蔵も東大教授となった。
執筆者:長門谷 洋治
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(高安伸子)
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