東アジア、朝鮮半島の北緯38度(軍事境界線)以南を占める国。正式には大韓民国(テハンミンクク)。また、李朝(りちょう)末の1897年から、日本に併合される1910年まで存在した大韓帝国の略称でもある。
東は日本海、西は黄海に臨む。1910年から45年にかけての36年間にわたって朝鮮を植民地支配した日本の無条件降伏を、米ソ両軍が南北に分かれて受け入れるため、「一時的かつ便宜的措置」(トルーマン米大統領)として設定された38度線が、そのまま南北分断線となり、南側に「大韓民国」政府が樹立をみたのは、1948年8月15日であった。
面積9万9460.74平方キロメートル、人口4613万6101(2000年国勢調査。2005年国連年央推計では4781万7000)。首都ソウル。
[林 建彦]
日本支配から解放後50年にわたる韓国の現代史を区分するなら、(1)米軍政の3年(1945~48)、(2)徹底した「反日教育」をよりどころとした李承晩(りしょうばん/イスンマン)独裁の12年(1948~60)、(3)五・一六軍事革命以来「日本語世代」を主体に、18年の長期執権となった朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)政権時代(1961~79)、(4)旧世代を全面否定する「ハングル世代」の全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)・盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)政権(1980~93)、(5)文民政治の金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)(1993~98)・金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)(1998~2003)政権時代と、5時代に区分することができる。ここでは全斗煥・盧泰愚政権時代までを扱い、金泳三・金大中政権時代および現在の盧武鉉(ノムヒョン)政権時代は「政治」で扱うこととする。
[林 建彦]
1945年12月モスクワでの米英ソ3国外相会議が決めた朝鮮信託統治実現のため、46年3月と47年5月ソウルで二次にわたって開かれた米ソ共同委員会は決裂に終わった。朝鮮問題の処理を47年秋の国連総会にゆだねたアメリカは、国連決議に基づき、48年5月10日、38度線の南だけの単独総選挙を実施、軍政を終了して李承晩(りしょうばん/イスンマン)を初代大統領とする韓国政府に統治を引き渡した。
1950年6月25日の開戦から、53年7月27日の休戦協定成立まで、3年に及んだ朝鮮戦争は、1948年9月朝鮮半島北部に成立した北朝鮮の首相(のち主席)金日成(きんにっせい/キムイルソン)が祖国解放7周年記念演説で述べたように、「勝利者も敗者もない」戦争に終わり、38度線にかわって現在の軍事境界線を残した。朝鮮戦争は「南半部武力解放統一」の金日成の意図に反し、米軍と国連軍の韓国駐留を半永久的とし、38度線を「民族の分断線」から「民族の絞首線」へと一変させるところとなった。悲惨を極めた戦禍と、共産主義の強制体験で、開戦前、金日成が「南に行けば挙族的歓迎を受ける」とした韓国の民衆の感情は、完全に逆転した。そして朝鮮戦争は韓国側に李承晩独裁を生み落として終わった。
[林 建彦]
李承晩(りしょうばん/イスンマン)政権の12年間は、「抜粋憲法」(1951)、「四捨五入憲法」(1954)など憲法私物化の限りを尽くすなかで、独裁的に維持された。その間、李承晩政治に対抗して、大統領選に出馬した野党民主党の候補申翼煕(しんよくき/シンイッキ)(1956)、趙炳玉(ちょうへいぎょく/チョビョンオク)(1960)の2人が選挙直前に急死し、もう1人、進歩党党首曺奉岩(そうほうがん/チョボンアム)が「北傀(ほっかい)(共和国)と野合して、政府転覆を図った」との口実で電撃的に刑死(1959)させられた事件は、韓国民衆に深い挫折(ざせつ)感と同時に反独裁に向けた政治的爆発力を堆積(たいせき)させていった。
[林 建彦]
1960年4月19日、首都ソウルはじめ韓国全土を覆った学生・市民のデモは、大統領公邸景武台に殺到、警官隊の発砲で183人の学生・市民が殺され、6200人が傷つき、さしもの李承晩(りしょうばん/イスンマン)も4月27日、ラジオを通じ辞任を声明した。四・一九革命である。四・一九革命を「大衆的人民蜂起(ほうき)」と位置づけた北朝鮮首相金日成(きんにっせい/キムイルソン)は、8月15日の解放15周年演説を通じ「南北連邦制」を提唱するとともに、祖国平和統一委員会の名で、ソウル大学など韓国の「民族統一学生連盟」が呼びかけた「南北学生会談」を積極的に支持した。韓国側の学生・革新団体による南北交流運動は、1961年5月20日板門店での「南北学生会議」にまさにこぎ着けようとした16日未明、軍事クーデター発生でたちまち息の根を止められた。朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)少将とともに決起した革命の主体勢力は、金鍾泌(きんしょうひつ/キムジョンピル)、吉在号ら陸士8期生の青年将校たちである。四・一九革命後の張勉(ちょうべん/チャンミョン)政権の政治を「デモ、ストライキだけがひとり印象に残る“檀君(だんくん)以来4000年の最大の自由ぶり”はもはや座視できない」と受け止め、議会を解散、政党・社会団体の政治活動、すべての労働争議を禁じ、国家機関はすべて軍事革命委員会が掌握、いかなる流血行為も禁止すると布告した。五・一六軍事革命である。アメリカ政府が軍事革命政権をようやく承認したのは、2か月余が過ぎた7月29日だった。朴正煕を最高会議議長とする軍事政権は、62年を起点に7.6%の平均経済成長率を目ざす「第一次五か年計画」を発表した。韓国に経済五か年計画が初めて導入され、韓国経済の高度成長が始まった。
このとき、韓国経済は窮迫して「95万の絶糧農家が山野に、草の根、木の実、松の皮を求めてさまよう“春窮”の悲惨」(1960年農林部発表)のさなかにあり、経済成長率は1960年、62年ともに2.3%と低迷し、人口増加率2.88%にも及ばなかった。1960年の1人当り国民総生産(GNP)はかろうじて94.6ドル、輸出はわずかに3280万ドル(韓国銀行資料)という絶対的窮乏化のなかにあった。韓国経済が73、74年の第一次石油危機を乗り切り「アジアでもっとも活力ある国」(ル・モンド紙、1975年12月20日)を確実にしたのは、輸出104億ドル、1人当りGNP1028ドルの大台にのった77年だった。その間、14年にわたる交渉にピリオドを打ち実現をみた1965年12月18日の日韓国交正常化と、その後10年間の対日請求権資金5億ドルの有効活用は、韓国政府の『請求権白書』も認めるように、韓国経済の高度成長に貢献した。
しかし、軍事革命以来の朴正煕政治の強権的体質は、1972年10月の南北対話発展への準備を理由とした「維新体制」の強行で加速され、国民1人当りGNP1000ドルにふさわしい政治の民主化は後れた。73年8月8日金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)事件の発生と北朝鮮側による南北対話の一方的中断は、国内野党、反朴在野勢力の民主化要求運動に油を注ぐ結果となった。朴正煕は維新憲法第35条に定める大統領緊急措置の前後9回に上る発動で、政権の危機乗り切りを図ったが、76年1月、アメリカ的民主主義と人権外交、在韓米地上軍撤退を公約したカーター民主党政権の登場は決定的だった。78年12月第9代大統領に就任、任期6年をあわせ24年に及ぶ長期執権体制を手中にした朴正煕だったが、執権18年目にして朴政権の衰えは急速だった。そして79年10月26日、人の死に深く反応する韓国人が、側近中の側近である中央情報部長金載圭(きんさいけい/キムチェギュ)によって射殺された朴正煕の衝撃的な死を、驚くべき平静さで迎え入れたのは、それがだれの目にも「一つの時代の終わり」と映る死であったからである。
[林 建彦]
朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)以後の韓国の政治は、崔圭夏(さいけいか/チェギュハ)暫定政権による宥和(ゆうわ)政策と、金鍾泌(きんしょうひつ/キムジョンピル)、金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)、金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)の三金氏の次期政権抗争を軸に、大きく回転するかにみえた。しかしいわゆる「ソウルの春」は短かった。朴以後の国内情勢を「第二のベトナム化」の危機ととらえた全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)国軍保安司令官ら軍部が、正面きって政治介入に乗り出したからである。非常戒厳令を全土に拡大、議会を解散し、金鍾泌、李厚洛(りこうらく/イフラク)、金大中ら朴時代の政治家を拘束した。
全斗煥保安司令官は中途から地域反乱の様相となった光州事件(1980年5月18日~27日)の鎮圧に軍を投入、それまで市民には直接、銃を向けたことのなかった軍の伝統を破り、市民、兵士双方あわせて191人(公式発表)の死者を出す非常事態となった。軍の発砲は8月27日、統一主体国民会議で第11代大統領に選出され、「新世代」「新政治」の名の下に第五共和国体制を発足させた大統領全斗煥の「権力の正統性」をめぐり、大きな負い目を残した。
1981年2月25日、全斗煥は一期7年、再任を禁じた新憲法に基づいて、大統領選挙人団による投票で第12代大統領に選ばれた。3月2日の大統領就任演説を通じて、(1)戦争の脅威、(2)貧困、(3)政治弾圧と権力の乱用――など三大苦痛からの解放を公約、7年一期の任期を守り、88年には平和裏に政権交代を果たす、と約束した。3月25日に行われた国会総選挙は与党民主正義党151、野党民主韓国党81、同韓国国民党25、その他19となり、新議員が80%、40歳代議員が過半数を超えた。全政権が目ざす新世代、新政治の実現の跡は著しかった。
しかし全斗煥政権はすべり出しから順調とはいえなかった。大統領夫人の叔父を巻き込んだ巨額手形詐欺事件、交通相の辞任の原因となった明星グループ不正融資、朝興銀行不正融資など、公約の「社会正義の実現」「国民精神の改造」に反する事件の連続に加え、1983年9月1日には、旧ソ連軍機によるサハリン沖の大韓航空機撃墜事件、さらに10月9日には北朝鮮工作員の関与が疑われる副首相、外相ら主要4閣僚が爆殺されたラングーン(現ヤンゴン)事件が続発した。1981年3月の第12代大統領就任以来わずか2年半の間に、全大統領は4人の首相更迭(こうてつ)と13回の内閣改造を余儀なくされた。
1985年2月11日の国会総選挙は、議会政治の活性化を求める民意を反映して、「戦う野党」を掲げた金泳三系の新韓民主党(新民党)の躍進をもたらし、選挙直後の野党再編成を誘発した。5月特別国会招集時の議席分野は、与党民正党148議席、新民党103、国民、民韓両党と無所属あわせて25となり、与・野党二大政党対決時代を招来した。全斗煥は同年3月、いわゆる三金氏ら大物14人の政治追放を解除した。88年の大統領選挙に向け、市民、在野勢力の大統領直接選挙制への改憲要求の高まりは、「戦う野党」と合流し、87年6月29日、全斗煥、民正党代表委員盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)合作の「六・二九民主化宣言」を呼び出す原動力となった。「国民の大同団結と偉大な国家への前進」をうたった特別宣言は、(1)大統領直接選挙制への合意改憲の実現、(2)金大中の赦免、復権――の2点において、意表をついたものであり、政局の主導権は一転、政府与党の手中に戻ることになる。
1972年の維新憲法以来16年ぶりに、盧泰愚(民正党)、金泳三(民主党)、金大中(平民党)、金鍾泌(共和党)の4候補の争いとなった87年12月16日の大統領直接選挙は、「安定のなかの民主的発展」を公約した盧泰愚候補に勝利をもたらした。しかしその得票率は36.6%、国民の3分の1の支持しかえられなかった。加えて続く4月26日の国会選挙は、与党民正党125議席、3野党あわせて165議席、「与小野大」の国会の出現となり、前途多難を思わせる第六共和国、第13代大統領盧泰愚の出帆だった。第六共和国憲法は大統領任期を5年と定め、再任を禁じていた。1948年8月15日の韓国政府樹立以来、初の平和裏での政権交代であった。
「与小野大」の国会は大統領直選制改憲と同時に全面復活した国政監査権を発動し、全斗煥前大統領一族の不正疑惑と腐敗ぶりを「五共非理」追及の名で浮き彫りにした。実兄全基煥(ぜんきかん/チョンギファン)をはじめ全氏一族7人の逮捕は、全前大統領の国民への謝罪と、江原道の山中百潭寺(ひゃくたんじ)への落郷(1988年11月23日)、隠棲(いんせい)を余儀なくさせた。
盧泰愚(民正党)、金泳三(民主党)、金鍾泌(共和党)の3党総裁は、1990年1月2日、青瓦台(せいがだい)で会談、3党が合同して新党、民主自由党を発足させると宣言した。5月9日の第1回民自党大会は総裁に盧泰愚大統領、代表最高委員に金泳三最高委員を選出、金泳三主導体制の発足となった。3党合同によって218議席をもつ巨大与党が出現したが、唐突(とうとつ)な与野党合同に、国民の支持率はわずか14%であった。
これより先、1988年秋のソウル五輪は史上最多の160か国・地域の参加を得て、中国の各紙が「空前の盛会、偉大な成功」とまで激賞するところとなった。主催国の面目は金、銀、銅メダル、総合第4位の成績に発揮された。ソウル五輪の大成功は全斗煥政権以来の北方外交にはずみをつけ、1990年9月30日の電撃的な韓ソ国交と、92年8月24日の韓中国交を導き出していく。盧泰愚は90年12月ソ連を、92年9月中国を公式訪問し、1983年に打ち出した社会主義国との関係正常化を目ざす北方外交の結実をうたった。
1991年9月17日開幕した第46回国連総会は、同日午後、韓国と北朝鮮の同時国連加盟を表決なしの全会一致で承認した。前年の9月以来ソウル、平壌(ピョンヤン)で交互に開かれてきた南北首相会談は、91年12月12日ソウルでの第5回会談で「南北和解と不可侵および交流・協力に関する合意書」を採択した。さらに韓国と北朝鮮は12月31日「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」に合意し、92年2月19日平壌での第6回南北首相会談で発効させた。盧泰愚は「南北合意書」と「非核化宣言」をバックに、任期が切れる93年2月まで、北朝鮮主席金日成との南北首脳会談の実現を目ざしたが果たせなかった。
[林 建彦]
金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)(民自党)、金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)(民主党)、鄭周永(ていしゅうえい/チョンジュヨン)(国民党)の3候補が争った1992年12月18日の大統領選挙は、1990年に3党合同した巨大与党・民自党を基盤に戦った金泳三候補が、2位の金大中候補に200万票に近い大差をつけ当選した。93年2月25日、第14代大統領に就任した金泳三は、(1)不正腐敗の追放、(2)経済の再生、(3)法秩序の確立を強調、国民に「韓国病」克服の努力を促した。自らの資産公開、閣僚・与党議員に続く高級官僚の資産公開、資産形成過程に問題があった5人の高級官僚の解任、朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)政権以来、「ハナエ(一会)」の名で知られた政治軍人グループの一掃など「上流浄化運動」の実践は、32年ぶりの文民政権出現の名とともに支持率79.2%(8月22日、韓国ギャラップ調査)の出帆であった。おりからの円高、ウォン安の順風を背に高度成長を続ける韓国経済は、1995年には成長率9%、1人当り国民総生産(GNP)が1万0076ドルに達し、世界32位を記録した。96年10月23日、経済協力開発機構(OECD)に加盟し、アジアでは日本に次いで2番目に先進国クラブの仲間入りを果たした。
金泳三が大統領就任演説のなかで述べた「不正腐敗の追放」の公約は、1995年12月12日の「粛軍クーデター16周年記念日」の「国民向け談話」となり、「歴史立て直し」と「法と正義の法治主義」の名の下に、前・元大統領の逮捕、裁判という前代未聞の事態に発展していく。そして一度は「成功したクーデターに刑事責任を問わない」と結論した検察の決定を覆し、さかのぼって全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)、盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)の元・前大統領の逮捕、裁判を可能にしたのは、95年12月19日、金泳三主導の下に韓国国会が議決した「5・18民主化運動等に関する特別法」と「憲政秩序破壊犯罪の公訴時効等に関する特別法」だった。この2法は遡及(そきゅう)立法で、違憲の素地が強いばかりか、「後任大統領の政治的思惑と一存で、大統領経験者を逮捕、裁判できるという悪例を残した」との批判があった。韓国最高裁は97年4月17日、「粛軍クーデター」(1979年12月12日)および「光州事件」(1980年5月17日)に関連して、元大統領全斗煥には一、二審判決の死刑を減じて無期刑を、前大統領盧泰愚には17年の刑を確定した。
1996年末になると、任期1年余を残すばかりとなった金泳三の大統領としての指導力の衰えが急激に表れた。まず、OECD加盟の新事態に備えて、韓国企業の国際競争力を高めるため、従業員の解雇や合理化が容易にできることをねらった「整理解雇制度の導入」を核とする労働法改正をめぐり、韓国労総(約120万人)、民主労総(約50万人)あげての反撃、抗議の波状ストライキに遭遇する。ついで財閥韓宝グループへの巨額不正融資事件をめぐり大統領側近の国会議員が逮捕、起訴された。しかし、金泳三にとって極めつけの最悪の事件は、韓宝グループ不正融資事件にからんで、斡旋(あっせん)収賄容疑が浮上した次男金賢哲(きんけんてつ/キムヒョンチョル)の逮捕、起訴だった。一度は「息子の過ちは親の過ち」と国民向け談話での謝罪で、窮地の切り抜けを図った金泳三であったが、次男の逮捕、起訴による裁判という最悪の事態を防ぐことはできなかった。起訴状は金泳三の大統領就任以降、賢哲が受け取っていた66億ウォン(8億6000万円)は斡旋収賄罪と脱税行為の罪にあたるとし、大統領選挙資金の残額120億ウォン(15億6000万円)についても、賢哲が管理しているのではないかという疑惑を指摘、賢哲は一、二審で実刑の判決を受けた。ついに大統領金泳三の支持率は1997年1月段階で、13.9%(韓国ギャラップ調査)に急落、「権力の空洞化現象」が進行するなか、12月の次期大統領選挙に向けた与党候補の人選では側近グループの造反にあい、金泳三の指導力はいよいよ地に落ちた。
また、1997年10月には、それまで韓国経済の成長を支えてきた「財閥」があいついで経営破綻(はたん)に追い込まれたのに加え、10月のタイの通貨危機を引き金とするアジア市場の混乱と縮小が、おりからアジアに進出して事業を軌道に乗せようとした韓国企業を痛打した。たちまちウォンが暴落し、ソウル外為市場は一時、取引停止の非常事態にまで追い込まれた。韓国は深刻な経済危機に陥り、12月の大統領選挙では「経済再生」策が最大の争点となった。
[林 建彦]
こうした深刻な経済危機と政局の混乱のなかで、1997年12月、与党批判・安定政権を訴えた野党国民会議の金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)が大統領となり、韓国史上初の選挙による与野党政権交代が実現した。
大統領選四度目の挑戦で大統領となった金大中は、1998年2月25日の大統領就任式での演説で、大胆な改革による経済の建て直しの必要性を強調、経済破綻(はたん)の責任を国民の前に明らかにするとして、国会聴聞会の実現を示唆した。
また北朝鮮に対しては、特使の交換を提案、1991年の南北首相会談で締結した、和解と交流協力、不可侵をうたった基本合意書の実践を訴えるなど、いわゆる対北朝鮮包容政策(太陽政策)を打ち出した。それは結果として、2000年4月、朝鮮半島分断後初の南北首脳会談を6月に北朝鮮の平壌で開催するという合意の成立に結びついた。6月13~15日、平壌を訪れた金大中は、朝鮮労働党総書記金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)との首脳会談で、南北統一への取り組みに合意、共同宣言に署名した。
金大中政権の最大の懸案である経済改革の実現については、金融監督委員会を通じて韓国経済の基盤をなす五大財閥に系列企業の整理を促進するよう指示を出す(1998年6月)など積極的な動きをみせ、その決意を内外に示した。
しかし、金大中政権は長年の宿敵、ライバルだった金鍾泌(きんしょうひつ/キムジョンピル)率いる自民連と連立政権を組むにあたって、合意、公約した大統領中心制から議院内閣制に移行するための憲法改正については国民会議、自民連の両党をあわせても改憲発議に必要な3分の2議席の確保には至らなかった。なお国民会議は、4月の総選挙直前の2000年1月20日、同党を発展的に解消させる形の新党を結成した。新しい党名は「新千年民主党(民主党)」。同年4月に行われた総選挙で、民主党は議席数を増やし115議席となったが、野党第一党のハンナラ党(金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)・前政権時代の与党)の133議席には及ばなかった。
前述のとおり、2000年6月に北朝鮮を訪問し南北首脳会談を実現させた金大中は、同年ノーベル平和賞に輝いた。しかし、危機を脱出したはずの経済が悪化し、また政府高官や大統領周辺の政治家の汚職が摘発され、金大中大統領への支持率は急速に低下した。政府間による南北対話も、その後は中断と再開を繰り返した。
2002年12月に行われた大統領選挙は、金大中の後継者とされる新千年民主党の盧武鉉(ノムヒョン)と、ハンナラ党の李会昌(イフェチャン)との間で争われた。当初、保守勢力を背景に李候補優勢とみられていたが、世代交代を求める若年層の積極的な選挙運動と、在韓米軍の装甲車が女子中学生をひき殺した事件による反米感情の高まりを受けて、57万票(投票数の2.3%)というわずかの差で盧候補が勝利をおさめた。盧武鉉は独立後世代の初めての大統領として、2003年2月に就任した。
盧武鉉政権は、大統領選挙時の不正資金疑惑と側近の汚職事件などにより、発足直後から支持率の低下に直面した。そのため、改めて大統領の信任を問う国民投票を計画したが実現しなかった。盧大統領は2003年9月に新千年民主党を離党し、「開かれたウリ党(ウリ党)」を創設したが、これは新千年民主党が金大中の政党とみられていたためであった。2004年に入ると、与野党の対立は激しさを増し、3月に野党は大統領弾劾案を国会に提出、これが採択されたため、大統領権限は一時停止された。これに対し世論は逆に大統領に同情を示した。そのため、4月に行われた総選挙では、大統領の与党であるウリ党が152議席を獲得、過半数をおさえた。この結果、憲法裁判所は大統領の弾劾を棄却し、問題は結着した。しかしその後、長びく景気の低迷、閣僚の不正疑惑の続出などの影響で、2005年4月に行われた国会議員の補欠選挙(6議席)においてウリ党は全敗、国会での過半数獲得に失敗、議会運営は苦しくなっている。
[林 建彦]
1987年の「六・二九民主化宣言」に基づいて、同年10月29日制定、公布された第六共和国憲法は、1972年10月の維新憲法以来、全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)が大統領であった第五共和国憲法まで、「大統領は選挙人団によって選出される」としてきた大統領間接選挙制を改め、「大統領は国民の普通・平等・直接・秘密選挙によって選出される」(67条)とする大統領直接選挙制を復帰させた。大統領の任期は5年、「重任(再任)はできない」(70条)。大統領は「国家元首として、外国に対し国家を代表する」(66条)と同時に、「政府の首班として政府の行政権を行使する」(同条)と明記されている。また大統領は「国会の同意を得て国務総理を任命」(86条)し、「国務総理の要請で、国務委員(閣僚)を任命する」(87条)。一方、「国務会議(内閣)議長」(88条)として国政にあたることになっている。
憲法の条文上は、第3章・国会、第4章・政府、第5章・法院の順に三権分立が明記されているが、第五共和国憲法と同様、大統領は依然として「憲法と法律の定めるところによって、国軍を統帥する」(74条)、「大法院長(最高裁長官)は国会の同意を得て大統領が任命する」(104条)のをはじめ、「内憂、外患、天災、地変に際して」は、国会を待たず「法律的効力をもつ命令を出す権限」(76条)を保有し、「国家非常事態にあたって戒厳を宣言する」(77条)など、三権を超越して集中した権限をもち、大統領中心制となっている。
行政府は、大統領と国務総理および15人以上30人以下で構成される国務委員(閣僚)からなり、「政府の権限に属する重要な政策を審議する国務会議」(88条)は「大統領、国務総理と15人以上、30人以下の国務委員で構成」(同条)され、「大統領は同会議の議長、国務総理は副議長となる」(同条)と明記されている。
「立法権は国会に属す」(40条)とされた国会は、「国民の普通・平等・直接・秘密選挙で選出された国会議員によって構成」(41条)され、「任期は4年」(42条)、「国会議員の数は法律の定めるところによって200人以上とする」「国会議員は選挙区選出議員と比例代表制」(41条)の二本立てとし、これとは別に、選挙法が議員定数を選挙区253、比例代表全国区46、あわせて299議席と定めている。2000年2月9日、韓国国会は選挙区議席を26議席削減、議員定数を273議席とする選挙法改正を行った。
司法権は、「法官(裁判官)によって構成される法院(裁判所)に属する」(101条)と明記され、「法院は最高法院である大法院(最高裁)と各級法院(高等・地方)で組織される」(同条)。「国会の同意を得て大統領が任命する大法院長」(104条)の「任期は6年、重任はできない」(105条)。大法官(最高裁判事)の「任期は6年、法律の定めるところによって、連任することができる」(同条)となっている。「裁判の審理と判決は公開」(109条)が原則とされている。
[林 建彦]
1961年の「五・一六軍事革命」以来中断されていた地方自治制度が、91年3月16日に行われた区・市・郡の議会選挙(基礎選挙とよばれる)と、6月20日の主要都市と道の議会選挙(広域選挙とよばれる)、および95年6月27日に実施されたソウルなど6大都市と九つの道の首長選挙を通じて、制度的には完全に復活した。憲法第8章の「地方自治」によれば、「地方自治団体に議会をおく。地方議会の組織・権限・議員選挙と地方自治団体の長の選出方法と地方自治団体の組織と運営に関する事項は、法律で定める」(118条)となっている。区・市・郡の基礎選挙の議員定数4304人、選挙法によって党籍は明らかにできず、全員無所属議員である。主要都市・道議会は一選挙区一人制。議席定数は866人、基礎選挙と異なり広域選挙の候補者は党籍を明らかにすることができ、徹底した中央直結の政党選挙となる。1991年の広域選挙では与党民自党が61%の議席を確保、民政、民主両野党の21%を圧倒した(残り18%は無所属)。95年6月27日、ソウルなどの6大都市と九つの道の首長選挙が35年ぶりに、基礎・広域選挙とあわせて行われた。この地方選挙は与党民自党・金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)総裁、民主党・金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)総裁、自民連(自由民主連合)・金鍾泌(きんしょうひつ/キムジョンピル)総裁の「三金代理戦争」と位置づけられたが、民自党5、民主党4、自民連4、無所属2という首長当選者の色分けからもわかるように、15の首長のなかでかろうじて3分の1、5人の首長の確保にとどまった金泳三与党の惨敗は明らかであった。
[林 建彦]
全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)政権が、それまでの対米、対日など対自由陣営外交を広げ、対中、対ソなど社会主義諸国との関係改善を目ざす「北方外交」を打ち出したのは、1983年6月、李範錫(りはんしゃく/イポムソク)外務部長官が国防大学院で行った「先進祖国創造のための外交関係」と題する講演であった。ソ連は85年3月、ゴルバチョフ体制の出現とともにスポーツ関係者を相次いでソウルに送り込み、中国もまた86年9月、ソウルでのアジア競技大会に大量の選手団を送ることで、ともに88年のソウル五輪参加を確実にしていった。韓国が打ち出した北方外交シグナルに対するソ連、中国の具体的反応だった。「空前の盛会、偉大な成功」と、同盟国である北朝鮮の目の前で中国がソウル五輪の成果を口をきわめて激賞したことは、韓国の北方外交にはずみをつけた。90年9月、おりから国連総会にオブザーバー参加していた韓国の崔浩中(さいこうちゅう/チェホジュン)外相とソ連のシェワルナゼ外相は30日、電撃的に国交正常化に合意、国交樹立の共同コミュニケに調印した。これより先の6月4日、盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)大統領とゴルバチョフ大統領がサンフランシスコで会談、国交正常化が近いことを予告していた。一方韓・中両国は91年9月の韓国、北朝鮮の同時国連加盟を受け、1年後の8月24日、北京(ペキン)に赴いた韓国の李相玉(りそうぎょく/イサンオク)外相と中国の銭其琛(せんきしん/チェンチーツン)外相との間で、国交樹立のための共同声明に調印、即日国交を開いた。先に韓ソ国交、今また韓中国交の開設を受け、盧大統領はまず1990年12月にモスクワを、92年9月には北京を公式訪問した。これを受けて、92年11月、ゴルバチョフにかわったエリツィン・ロシア大統領が訪韓、93年より国家主席に就任した中国の江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)もまた、95年10月韓国を公式訪問した。このような動きに対し、北朝鮮は「核兵器の独自開発」発言(金永南(きんえいなん/キムヨンナム)・シェワルナゼ外相会談)をもって反発し、金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)書記は中国を「修正主義」と批判、1993年3月には核不拡散条約(NPT)からの脱退声明という強硬路線を打ち出した。
1997年12月、金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)の大統領時代に、朝鮮半島の永続的和平確立を目ざして開催された「四者協議」は、朝鮮戦争(1950~53)の当事者である韓国、北朝鮮、アメリカ、中国によって99年8月までに6回開催された。このうち、金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)政権下の第3回(98年10月)にして初めて、「朝鮮半島の平和体制構築」と「朝鮮半島の緊急緩和」を論議する二つの分科委員会を設置することで合意、金大中大統領時代の4回目に開催が実現した。
金大中は大統領就任(1998年2月)以来一貫して、北朝鮮には柔軟に対応する包容政策(太陽政策)をかかげたが、そんななかで発生した98年8月の弾道ミサイル「テポドン」1号(射程距離1700~2000キロメートル)の発射実験や99年6月の韓国仁川(じんせん/インチョン)沖で発生した南北艦艇の砲撃戦は太陽政策に暗影を投げかけるところとなった。そしてさらに、99年8、9月中にも発射実験が予測された「テポドン」2号(射程距離4000~6000キロメートル)をめぐる問題は日韓米3国共同歩調をとる日韓両政権はもちろん、北朝鮮に対し「抑止と対話」政策をもって臨むアメリカ政府にとっても、とりわけ重大試練の場面となった。そんななかで2000年4月、韓国と北朝鮮は、同年6月大統領金大中が平壌(ピョンヤン)を訪問し、総書記の金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)と会談することで合意した。2000年6月13日、分断55年にして初の南北朝鮮首脳会談が実現した。会談2日目の14日、金大中と金正日は「南北共同宣言」に署名、以下の5項目に合意した。
(1)南北の統一問題を民族の力で自主的に解決する。
(2)南側の連合提案と北側の連邦提案に共通性を認め、この方向で統一を目ざす。
(3)離散家族訪問団を交換し、人道問題を早期に解決する。
(4)経済協力を通じて経済を発展させ、あらゆる分野の協力と交流を活性化する。
(5)早期に当局間の対話をもつ。
アメリカと北朝鮮の交渉も進められた。1999年9月7日から12日までベルリンで開かれた米朝高官協議は、「さらに協議を継続する」との共同声明を通じ、協議が継続する間は「テポドン」2号の発射は回避されることを確認した。これを受けアメリカ政府は、1950年の朝鮮戦争以来北朝鮮に対しとり続けてきた経済制裁の大幅緩和を発表、北朝鮮の核開発と弾道ミサイル開発の2分野でその阻止に向けた米朝間の本格交渉を目ざすこととなった。
韓国と北朝鮮の対話は、その後も閣僚級会談などによって継続された。一方、2001年アメリカにブッシュ政権が誕生すると、北朝鮮に対する評価の違いが、韓国とアメリカの間でいっそう鮮明になってきた。2003年に新大統領となった盧武鉉(ノムヒョン)は金大中が進めた包容政策(太陽政策)の継続を表明、南北対話に積極的に取り組む姿勢をみせた。この時期に北朝鮮の核兵器開発疑惑が明るみに出たため、同年8月にこの問題を協議する六者協議(六か国協議。日本、韓国、北朝鮮、アメリカ、中国、ロシア)が北京(ペキン)で開催された。韓国は北朝鮮への支援、交流を拡大しており、北朝鮮に対して厳しい態度で臨んだ日本やアメリカとの間で、会議での対応に違いが目だった。六者協議はその後も休会、再開を繰り返し、核問題解決の糸口はつかめていない。
[林 建彦]
韓国の軍備は、「南朝鮮の武力解放統一路線」に立つ北朝鮮による朝鮮半島有事の抑止に向けられている。北朝鮮は核兵器開発疑惑をカードに、韓国の頭越しに米朝関係の進展を図る一方、弾道ミサイル発射強化で日本を牽制(けんせい)し、化学兵器・ロケット弾で韓国を「火の海」にできるほどの能力を開発している。これに対し韓国の総兵力は68万7000人(北朝鮮110万6000人、2005)。その内訳は、(1)陸軍22個師団56万人、(2)海軍潜水艦20隻、駆逐艦・フリゲート艦15隻など、6万3000人、(3)空軍F4・130機、F16・153機、F5・210機、6万4000人である。さらに「米韓相互防衛条約」に基づく在韓米軍は、歩兵1個師団2万3000人、F16・40機を擁し、朝鮮半島での戦争抑止力となっている。在韓米軍司令官が行使していた韓国軍に対する平時の作戦統制権は、1994年12月、韓国軍合同参謀議長に返還された。しかし、有時の作戦統制権は米軍に残されているため、その移管協議が進められている。
1976年以来実施されてきた米韓合同演習「チーム・スピリット」は、「北朝鮮が米朝核協定の枠組を履行している」との判断から、1994年以降中止されている。96年9月18日未明、韓国東海岸で発生した北朝鮮人民軍武力部偵察局所属の潜水艦による武装工作員侵入事件(北朝鮮潜水艦侵入事件)は、韓国軍の脆弱(ぜいじゃく)性を内外にさらけ出す結果となった。事件から3週間、韓国国防部が行った中間報告によれば、逃亡した3人の武装工作員の追跡のために投入された兵力は7個師団6万人、のべ120万人という兵員の大量動員となり、そのために必要とした新たな兵員食糧だけでも1トントラック1069台分。なお逃亡する武装工作員1人を残したまま、50日余にわたる捜索作戦は終了となった。その間韓国側が強いられた人的犠牲は、民間人4人、兵士12人のあわせて16人。事件で受けた地元経済の打撃だけでも2000億ウォン(270億円)に上った。北朝鮮がこの種の武装工作員潜入という「不正規戦」戦術を同時多発させた場合、69万人の韓国軍では足りず、郷土予備軍を大動員しても追いつかないという、韓国にとってお手あげの非常事態さえありうることを、明らかにした事件であった。2002年6月には、北朝鮮の警備艇が韓国海軍の高速艇を攻撃し、韓国側に6人の死者が出た事件が発生している。
[林 建彦]
1979年に暗殺された大統領朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)がその生命と引換えに残した置き土産(みやげ)は、閣内からも出た反対を押し切って強行した、売上税10%の導入であった。売上税は韓国の国家財政の黒字化を半永久的に保証するところとなった。その朴正煕は大統領時代、「1人当り国民総生産(GNP)が4000ドル時代になれば、本格的な民主主義を行うことができる」を口ぐせとした。韓国に4000ドル時代が到来したのは1988年、ソウル五輪の年であった。この年、1人当りGNP4040ドルを記録した。これより1年前の87年6月29日のいわゆる「六・二九民主化宣言」は、韓国に本格的な民主主義の時代の到来を告げるものであった。
全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)が大統領であった第五共和国(1981~88)時代は、おりからの「急激な円高ドル安」「原油価格の低落」「国際金利低下」という、いわゆる「三低」時代と重なり、1986年を最終年次とする第五次五か年計画を通じて、9~10%の高度成長を実現。ソウル五輪の空前の大成功につないでいった。韓国経済の骨格は一回りも二回りも大きさを加えていく。しかし続く盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)の5年間(1988~93)は、生産性を大幅に上回る賃金のベースアップ(94年は89年の2.4倍)と、過消費が生み出したGNPの拡大の時期であった。統計上の年率8.5%という成長にもかかわらず、国民が体感した経済の実勢は「むしろ悪化している」というもので、大統領最後の記者会見での質問に、「高賃金に加えて生産性の低下、技術投資の停滞」を自認しなければならない盧泰愚であった。せっかくの三低の好条件にもかかわらず、韓国経済の構造的改革には手つかずの全斗煥・盧泰愚時代の12年間であった。
1993年2月25日、第14代大統領に就任した金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)は、「新韓国樹立」と「先進国入り」を看板に、すでに前年1月以来着手していた第七次五か年計画(1992~97)を平均成長率7%の「新五か年計画」(1993~97)に修正、大統領任期が終了する98年には、1人当りGNP1万ドルを達成することが設定された。待望の1人当りGNP1万ドル時代に到達したのは計画より3年早く、1995年のことだった。1人当りGNP1万0076ドル。しかしその実態は、対1987年比の名目賃金が3倍強という高騰ぶりからも明らかなように、国際競争力を喪失するなかでの1万ドル時代の出現であった。その後、1997年10月にはそれまでの韓国の財閥が相次いで経済破綻(はたん)に追い込まれたことに加え、タイの通貨危機をはじめとするアジアの市場の混乱を受けてウォンが暴落し、1人当りのGNPは6823ドル(1998)にまで激減した。その後は、積極的な景気回復策が功を奏し、外貨危機は回避された。
対日貿易赤字は1994年119億ドル、95年151億ドル、97年には114億9100万ドルで、部品など資本財産業が未成熟であるがために、輸出が増え、生産が拡大すればするほど、対日赤字が拡大していくという経済構造を反映していた。加えて全斗煥・盧泰愚の元前大統領の逮捕、裁判という「過去精算政局」は、2人の軍部出身政権の暗部と政財界の癒着ぶりをあぶり出し、国内的には金泳三政権の国民的人気を高めたが、対外的には逆に外国人の対韓投資意欲を減退させ、外資を調達するための資本市場の萎縮(いしゅく)につながっていった。
[林 建彦]
1996年の韓国の経常収支の赤字は過去最大、237億1600万ドルに達した。半導体の輸出価格の下落、円安による輸出不振の表れであり、経常収支赤字の内訳は、貿易収支赤字152億7780万ドル、貿易外収支赤字76億8260万ドル、移転収支赤字7億5560万ドルであった。そうしたなかで、韓国は96年10月23日、念願の経済協力開発機構(OECD)入りを果たした。29番目の加盟国であり、アジアでは日本(1964年加盟)についで2番目の加入であった。OECD加盟は確かに、いよいよ「先進国」として韓国が国際的に認められたことを意味していた。当時の大統領金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)は「誇らしい。国民に勇気と自負心を与えるものだ」と語り、「世界の重要な情報を共有し、国際経済に積極的に参加できることになる」とその抱負を表明した。しかし反面OECD加盟は、これを機に本格的な「経済開国」を迫られることも意味している。そのため、さしあたっていっそうの貿易赤字の拡大、中小企業の倒産など、経済の自由化、開放に伴う苦痛と混乱を覚悟しなければならない場面もなしとしない。96年の韓国の対先進国貿易の赤字が、貿易収支の全体の赤字152億ドルを2倍以上上回り、350億ドルに達したという現実は、文字どおり先進国入りを果たし、先進国と伍(ご)していくための国際競争力の培養を、急務として韓国に迫るものだった。「競争力の10%向上」をキャッチフレーズに、韓国政府が、公務員の1万人削減、首都圏における先端産業工場増設のための規制緩和、工業団地用地価格の引下げ、企業の義務雇用制緩和――などの対策を打ち出したのはそのためであった。成長率鈍化、貿易赤字の拡大、物価上昇など、韓国経済の先行きにいよいよ不透明感が深まるなか、12月2日青瓦台(せいがだい)の大統領府に与党幹部を集めた金泳三は、「経済をよみがえらせるためには、どんな犠牲も覚悟している。私が先頭に立って、みんなが行けば道は開ける」と、経済活性化に向けて檄(げき)をとばした。97年の経常収支の赤字は1995年の水準まで盛り返し、81億6700万ドルであった。
[林 建彦]
韓国の1997年は、政府与党が前年の12月26日強行採決した労働法改正をめぐって、騒然たる雰囲気のなかで始まった。労働法改正に反対する労組の大規模な波状ストライキはしだいに政治ストの色を濃くし、主要産業を麻痺(まひ)させかねない勢いとなっていく。有力紙の新年の社説はすべて「経済」を強調し、「OECD(経済協力開発機構)に加盟を果たしたいま、高度経済成長の持続は幻想にすぎなくなった」(『朝鮮日報』)と警告するなど、国民に対し、その姿勢と発想の一大転換を求めるものだった。1月7日の年頭記者会見で、五つの国政課題の筆頭に「経済体質の改善」をあげた大統領金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)は、とくに問題の労働法の改正について、「韓国経済の生き残りのため」「苦痛の分担と譲歩」を労働者の側にも求めたいと強調した。金泳三の「経済体質の改善」方針は、OECD加盟を機に韓国経済にとって至上命令の「国際競争力の10%向上」に向けて、「高コスト、低能率」の韓国経済の欠陥を抜本的に改善するため、金融産業と労働市場に一大変革を導入するというものであった。別名「官治金融」の名が示すように、韓国の金融産業はつねに政府の干渉と影響力下に置かれ、政治腐敗と汚職の温床となってきた。97年に入るや早々に、金泳三政権の中枢、屋台骨を揺るがすことになった韓宝グループへの不正巨額融資事件も、つまるところは、大統領の次男金賢哲(きんけんてつ/キムヒョンチョル)はじめ、大統領側近議員らを巻き込んだ乱脈な「官治金融」に端を発する事件であった。金泳三は2月25日の大統領就任4周年に際しての国民向け談話で、「息子の過ちは親の過ち」と謝罪、事態の収拾と態勢の立て直しを図ろうとしたが、ついに次男の逮捕と起訴、裁判という最悪事態を回避することはできなかった。大統領の親族を巻き込んでのネポティズム(同族登用)の弊害は、皮肉にも文民政治を看板とした金泳三政権において、前代未聞の次男の逮捕、裁判の沙汰(さた)となったのである。
[林 建彦]
OECD(経済協力開発機構)加盟と引換えに、より柔軟な労働市場の創出を意図した労働法改正は、成立を急ぐあまり、与党単独強行採決という国会での不手際も重なって、労働界の総反撃、総抵抗を招くことになった。労働者側の抗議ストは、政府不承認の戦闘的な民主労総(傘下労働者50万人)はともかく、「労資協調」路線の韓国労総(120万人)までも巻き込んで、1997年12月26日の国会での改正労働法強行採決以来、韓国労働運動史上最大規模といわれた1月15日のストライキを挟んで、1か月に及ぶものとなった。「韓国は労働法改正で再出発し、経済活力を回復しなければならない。ストは経済損失を招き、国民不安を増大させる」と強硬だった大統領金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)も、与野党間の再改正交渉によって、後退と妥協を余儀なくされていく。97年年頭の記者会見で、「韓国経済の体質改善」を最優先課題としてあげた金泳三は、残された1年余の任期を、この問題との取組みに賭(か)ける口ぶりだった。しかしたちまち明白となってくる金融、労働両市場をめぐっての二大改革の頓挫(とんざ)は、すでに金泳三政権にとって、それらが手に余る課題であることを物語るものであった。
1993年2月25日、第14代大統領就任にあたって、自ら「韓国病」と名づけた「高賃金と過消費」を克服するため、国民に「苦痛を分け合う」と呼びかけた金泳三であったが、皮肉にも金泳三文民政権の5年間は、「韓国病」の克服どころか、拡大再生産の悪循環のうちに終わった。
[林 建彦]
1997年10月以降、韓国経済は深刻な危機を迎えた。それまで韓国の経済成長を支えてきた大企業グループ「財閥」が、市場の拡大を前提に進めてきた過剰投資を背景に、相次いで経営破綻(はたん)に追い込まれた。これを発端に、通貨ウォンが暴落、ソウル外為市場では一時取引停止という事態まで引き起こした。その後、中央銀行である韓国銀行などが断続的な介入を続けたものの、改善はみられず、国際通貨基金(IMF)の緊急融資135億ドルを受け、その管理下に入るに至った。アジアの通貨危機をきっかけに、IMFの支援管理下に入ったのは、タイ、インドネシアに次いで3か国目となる。
12月に行われた大統領選挙では、混乱を極めた「経済の再建」が焦点となり、変化を求める国民の意思を反映するかのように、野党の金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)が当選した。金大中は政権発足後IMFの融資を受けるにあたっての交換条件でもある国内の緊縮財政に着手。当初は財閥グループに対して系列会社の削減、財務体質の改善などの自助努力を強く求めたが、財閥側の対応が遅いことから、1998年6月には金融監督委員会を通じて、現代(げんだい/ヒュンデ)、三星(さんせい/サムスン)、大宇(だいう/デウ)、LG、SKの五大財閥に対し財閥傘下の系列企業を整理することを指示すると同時に、財閥企業の系列会社を含む55社の整理対象企業を発表、9月には全国経済人連合会が7業種にわたる財閥グループの再編案を発表するなど、政府主導の財閥改革を推し進めた。さらに、同年12月7日には大統領は五大財閥との協議により、系列会社の大幅整理、財閥間の事業交換などの内容を盛り込んだ「構造調整案」を採択することで合意した。
この改革は、5財閥の系列会社を半減させ、重複投資を避ける、無駄な競争を排除する、という大リストラ策である。系列会社を整理・売却する、重複事業部門を財閥間で事業交換する、というのがその具体的な方策である。
競合業種を統廃合する事業交換では、半導体部門で1999年5月現代電子産業がLG半導体を統合することで合意、10月統合は完了した。同じく三星グループと大宇グループでは三星自動車と大宇電子との事業転換が進められた。この事業転換は三星自動車が99年6月法定管理(日本の会社更生法に相当)を申請したことで白紙に戻った。三星自動車は事実上破綻(はたん)し、2000年4月ルノー(フランス)に売却することを決めた。大宇グループも1999年8月、25の系列会社を分離売却して自動車関連の6社体制にすることを決定、大宇グループは事実上解体された。さらに2000年2月、大宇自動車の売却が決定された。
金大中政権は、財閥改革を積極的に推し進める方針であるといわれ、他の財閥にも影響が及ぶ可能性は高いとみられていたが、2000年に入って、5財閥グループのトップである現代グループにまで波及した。2000年4月、現代自動車など10社を系列分離や合併、清算などによってグループから離すことを明らかにしたのである。企業整理によるリストラは多数の失業者を生み出すことにもなり、財閥再編後の雇用の確保を求めて大規模なストライキが行われるなど、新たな社会問題ともなった。その間、IMF管理下の韓国経済は、1998年にウォンが1ドル2000ウォンにまで急落、経済成長率もマイナス5.8%と、韓国経済は1980年以来実に18年ぶりにマイナス成長となった。
このため、1996年にOECD(経済協力開発機構)入りを果たし1万ドルを実現した国民1人当りGNPも、1998年にはついに6080ドルに低落するという事態に陥った。しかし1999年を迎えると一転して急速に回復に向かい、個人消費の回復を反映して、政府系機関の予測はいずれも実質GNP成長率7%台としたが、それを上回る10.1%を達成した。1ドル2000ウォンとなったウォンも1999年9月1200ウォンに回復した。IMFからの短期緊急支援135億ドルも9月17日には全額返済、財政経済省はこれを「韓国が通貨危機を克服したことを象徴する出来事」と評価した。
こうして単年度別経済指標の推移をみる限り、V字型に回復著しい韓国経済である。金大中は8月15日の第54回光復節記念式典祝辞で「危機は克服したが、成功は半分に過ぎない」と述べ、経済構造改革が道なかばであることを認める一方、6080ドルに落ち込んだ国民1人当りGNPを2002年には1万2000ドルにまで引き上げる目標を示した。さらに11月には、金大中による「通貨危機の完全克服宣言」がなされた。しかし、2000年後半からは景気が後退、経済成長率は急落した。2003年には実質経済成長率は3.10%にとどまり、またクレジットカードの支払い不能者が360万人に達し、大きな社会問題となった。一方、三星(サムスン)、浦項(ボハン)製鉄、現代(ヒュンダイ)自動車など、特定の優良企業は順調に売上げを伸ばしていった。2004年以降、経済成長率は4%をこえて景気が回復傾向にあるが、輸出の伸びに支えられているため、輸出依存度は2004年に37.3%(日本は12.1%)と上昇している。
[林 建彦]
1970年にいち早く全線開通をみたソウル・釜山(ふざん/プサン)を結ぶ全長428キロメートルの道路建設に始まった高速道路網は、1998年全長1720キロメートルに達した。国内全土が一日経済圏化、一日生活圏化をみたのは1987年であった。乗用車、バス、トラックなどの登録自動車台数は2003年1459万台、乗用車の所有割合は3.3人に1台強で、1989年に100万台の大台に達した乗用車は2年後の91年には254万台、96年には689万台、2003年1028万台になるなど、猛烈なスピードで全土のモータリゼーションは進んだ。それに伴い、交通違反と交通事故による死亡者の数はうなぎのぼりで、交通違反はピークの1993年、ついに年間1076万件に達し、2003年の交通事故による死者の数は人口10万人につき15.5人(日本7.0人)と多い。ソウル、釜山、大邱(たいきゅう/テグ)の交通地獄を多少なりとも緩和しているのは地下鉄である。ソウルの地下鉄は1~4号線がソウル特別市地下鉄公社(SMSC)の運営で、営業キロは134.9キロメートル、年間輸送人員10億4400万人、5~8号はソウル特別市都市鉄道公社(SMRTC)の運営で、営業キロは152.0キロメートル、年間輸送人員8億1998万人となっている。そのほか、仁川(インチョン)、光州(クワンジュ)にも地下鉄が開通している。鉄道は韓国鉄道庁(KNR)による国営で行われていたが、2005年に公社化され、韓国鉄道公社(Korail)が運営にあたっている。営業キロは3129キロメートル、電化区間は675キロメートルで電化率22%と高くない。主要路線には京釜線(ソウル―釜山)、湖南線(大田(テジョン)―木浦(モッポ))、全羅線(益山(イクサン)―麗水(ヨス))、中央線(清涼里(チャンシャンリー)―慶州(キョンジュ))がある。2004年にソウルと釜山を結ぶ新しい幹線鉄道の韓国高速鉄道(KTX)が営業を開始した。この高速鉄道に対しては日本、ドイツ、フランスが激しい売り込み合戦を繰り広げたが、フランスのTGV(テージェーベー)システムに決定した。工事は1992年に始まり、97年の通貨危機の影響などから計画の見直しが行われた。車両はTGVをベースにフランスと韓国とで共同開発されたものを使用している。
全世界63か国と航空協定を結ぶ空の便は、1969年就航の大韓航空(KAL)と、遅れて1988年就航のアシアナ航空が、1989年以来の海外旅行の自由化に乗って、96年にはソウルの金浦(きんぽ/キムポ)国際空港から3444万人の乗客を送り出した(1994年は1300万人)。またこの年国内線を利用した乗客は約2000万人(同1800万人)、地上の高速道路網と並んで、国民の欠かせない足となった。東アジアの国際ハブ空港を目ざし、仁川(じんせん/インチョン)港外の永宗島に新たな国際空港が着工され、2001年3月仁川国際空港が開港した。これに伴い、金浦空港は国内線専用となった。
[林 建彦]
通信手段としての電話が飛躍的に普及し始めたのは、国内の遠距離通話の回線が自動化により1000万回線に達した1984年のことである。電話加入人口が同年の559万人から1000万人の大台に達したのは、ソウル五輪の88年であった。2004年には加入人口は2659万人、1世帯1電話の時代となっている。また、携帯電話の普及も著しく、契約数は2004年3658万6000人に達し、100人当りでは76.1で、日本の71.6を上回っている。1995年1月1日開局をみた韓国のケーブルテレビ(CATV)は、もっぱら難視聴対策から始まった日本のCATVとは異なり、政府の情報通信省が情報化戦略に沿って推進しているものである。97年からは衛星放送(ムグンファ)の試験放送も始まった。韓国もまた放送と通信の融合時代に突入したのである。
韓国政府は1996年10月14日、情報通信大国を目ざし、「世界一流国への飛躍のため」と銘うった情報化戦略を発表した。韓国政府の「情報化戦略」はこれまで散発的、羅列(られつ)的に政府各省と民間部門で進められてきた情報化事業を国家次元で一つにまとめ、国家競争力の培養に連結させようとするものである。この情報化戦略の目標は、おもに以下の3点を骨子としている。
(1)政府主導の情報化を通じ、韓国経済の非効率な構造を改善し、情報産業を国家の競争力強化の効果的手段として活用する。
(2)高度経済成長の影に隠れていた地域間、階層間格差と環境・福祉問題などを情報化によって解消させる。
(3)高付加価値、資源節約型の情報通信産業を国家発展の新しい基幹産業として育成する。
年平均10%以上の高度成長が見込まれる情報通信産業こそ、21世紀の主力産業として最適であるという認識を政府レベルで確認し、国家的次元でより体系的、効率的に推進しようとするものである。
1999年には国家IT戦略「Cyber Korea 21」がスタート、2003年にはブロードバンド普及で100人当り24.2と世界一になっている。
[林 建彦]
自分自身の生活水準を「普通」と答えるなど、韓国民の間に中流意識の定着を確認させたのは、1984年の高麗(こうらい)大学新聞放送研究所による「韓国人の生活意識調査」であり、85年に『中央日報』が行った「国民生活意識調査」でも確認された。高麗大調査は国民の85.2%が「中流層に属している」と考えており、『中央日報』調査は57.7%が自分自身の生活水準を「普通」と考えていることを明らかにした。87年の「六・二九民主化宣言」は民主化時代の到来を政治的に確認するできごとであり、1960年代に「1人当りGNP(国民総生産)4000ドル時代がくれば、本格的民主主義を行うことができる」とした大統領朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)の予測は、ソウル五輪の年の88年にそれが4040ドルとなることによって裏づけられることになった。民主化時代の到来は1984年4月、大学生の数が100万人の大台を超えて104万人となり、人口1000人当り25人という、アメリカの38人についで世界第2位の就学率達成にも表れていた。
韓国は1996年10月経済協力開発機構(OECD)加盟を果たし、文字どおり先進国メンバーとなったが、政府統計庁が明らかにした「1995年、都市勤労者世帯の家計支出動向」によれば、都市勤労者の平均月収は191万ウォン、消費支出123万ウォンと税金および寄付金負担の17万ウォンを差し引いても、平均51万ウォンの黒字家計となった。消費支出増は携帯電話などの情報通信機器、パソコン利用、スポーツ・趣味など余暇支出と海外研修、学習誌購入など教育費の増加に向けられる傾向にあり、中間層以上の生活パターンの高級化が定着したことを思わせる。
[林 建彦]
韓国の学校制度は無償・義務教育の初等学校6年、中学校、高校各3年、四年制大学と碩士(せきし)(修士)・博士コースの大学院、二年制の初級大学(短大)と専門大学に分かれている。中学から高校への進学率は99.4%、高校から大学への進学率は83.8%である。義務教育は初等学校の6年間のみであったが、1992年から中学校も義務制に移行した。初等学校は5688校、生徒数383万人、初等学校教師は四年制教育大学卒業が義務づけられている。中学校は2736校、生徒数201万人、高等学校は普通、実業高校あわせて1921校、生徒数233万人、四年制大学は156校、学生数148万人、初級、専門大学は158校、学生数80万人、大学院は669校の7827学科(博士、修士あわせて)、学生数18万人である(以上1998)。1987年制定の第六共和国憲法下、大学は完全な自治制を取り戻し、国、公立大学の総・学長の任用権は教授会にゆだねられ、教授の任用権をはじめとする授業料の決定など大学運営のすべては大学当局に任された。
大学の完全自治制復活より一足早く学生運動も息を吹き返している。反米色まる出しの1985年5月のソウルのアメリカ文化センター占拠籠城(ろうじょう)事件の発生に始まり、87年8月の95の大学の総学生会が参加して結成をみた「全国大学生代表者協議会(全大協)」は、93年には198の大学総学生会長ら2500人で構成する「韓国大学総学生会連合(韓総連)」に引き継がれていく。韓国大検察庁(最高検察庁)公安部は97年6月10日、韓総連を国家保安法上の利敵団体に指定し、同時に刑法上の犯罪団体構成罪を適用することを決定した。同年8月までに韓総連を脱退しない場合、中央組織に名を連ねた2000人から3000人が処罰の対象となる、とした。公然と北朝鮮の主体(チュチェ)思想を指導理念に掲げる主思派が指導権を握る韓総連は、北朝鮮の「連邦制南北統一案」に沿って先鋭化し、1996年8月の「延世大籠城事件」(検挙者5899人)では駐韓米軍の撤退、国家保安法の廃止を主張し、韓国学生運動史上最多の438人が起訴されている。97年に入り「韓宝疑惑事件」の発生を機に、政局の混乱をついて活動を活発化、連日1万人規模の過激なデモと明洞(ミョンドン)聖堂での籠城を繰り広げ、警察官と市民各1人に対する傷害致死事件を引き起こした。ソウル市警察庁は、韓総連は北朝鮮の労働党総書記金正日(きんしょうにち/キムジョンイル)の「祖国統一三大憲章」を絶対的な指針とし、「国民抗争」路線に立って金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)政権打倒を掲げている、とした。北朝鮮の『労働新聞』は連日、韓総連のデモをニュースとして伝えて連帯を表明しながら、韓国政府、警察に対して非難を繰り返した。韓国の有力紙はいっせいに韓総連ニュースを連日トップで報道、「現政権の打倒が闘争目標」(『朝鮮日報』)、「韓総連に親北朝鮮勢力が浸透。背後に左翼系運動家30人」(『東亜日報』)、「韓総連の中核分子は現役学生より卒業・中途除籍生が多い」(『中央日報』)と伝え、政府が韓総連を国家保安法上の利敵団体と指定し、刑法上の犯罪団体構成罪を適用したことに肯定的であった。
[林 建彦]
1972年の維新体制以来、引き続いて第五共和国憲法の下、中央、地方(1道1紙)あわせて27紙に制限されていた新聞は、1987年の「六・二九民主化宣言」を機にいっせい開花、1994年には101紙の盛況ぶりとなった。1919年3月の独立運動事件を受け、日本の植民統治が武断統治から文化政策に転じた証として創刊された『東亜日報』『朝鮮日報』を双璧(そうへき)に、『韓国日報』『ソウル新聞』『中央日報』『京郷新聞』の6全国紙が、1990年以降、それまで朝刊組と夕刊組に棲(す)み分けていた体制からすべて朝刊化したことで、その販売合戦は一挙戦国時代に突入。ついに大手財閥・三星グループ所有の『中央日報』販売店員が、非財閥系の最有力紙『朝鮮日報』の販売店員を殺害する事件を引き起こすまでになった。そして96年から本格的に始まった各紙の実売部数を調べるABC調査が、販売戦争に拍車をかけた。2001年には『朝鮮日報』『東亜日報』『国民日報』3社の社主らが脱税の容疑で逮捕される事件が発生した。これに対しては、金大中政権批判を展開する新聞への言論弾圧であるとして、国際的にも政府への批判の声があがった。通信社では、植民地支配から解放直後の1945年12月創立をみた合同通信社と、1953年設立の東洋通信社が統合して、1980年12月19日発足した連合通信社(現、連合ニュース)が、韓国唯一の通信社として、AP、UPI、ロイター、AFP、共同、時事、新華社、イタル・タスなど全世界47の外国通信社と提携、グローバル時代のニュースを伝えている。FM放送46局を含めた125局のラジオ放送局は、テレビの全国的普及にもかかわらず、ソウルの交通放送、公営の教育放送、ソウル・首都圏をカバーする商業放送専門のソウル・ラジオ・ステーションなどの健闘によって、聴取者の数を着実に増大させている。
テレビは、全国121を数えるテレビ放送局がカラーテレビ放送を行っており、2003年現在のカラーテレビジョンの受像機の登録台数は1638万台、全国各世帯にあまねくテレビセットが1台以上普及している。本格的なテレビ時代の開幕は1961年12月31日、公営放送のKBSが放送を開始したときであるが、このときのテレビ受像機台数は2万5000台にとどまっていた。受像機台数が100万台に達したのは、1969年8月に3番目のテレビ放送局としてスタートしたMBC(文化放送)が、全国19のローカル局と結び付き、最大の民間商業テレビ放送会社に成長していく過程の1973年であった。1991年12月にはソウル・首都圏向けの民間商業テレビSBSが、そして95年5月には2局目の地方民間テレビ局が釜山(ふざん/プサン)、大邱(たいきゅう/テグ)、光州、大田(たいでん)の主要都市で活動を開始し、テレビ全盛時代を開いていく。1998年には外国衛星放送を受信する世帯数が91万世帯に達した。放送行政担当の公報庁は96年10月3日、「NHKなど外国衛星放送の視聴自体は規制しない」と決定した。韓国政府は金大中政権の登場とともに、日本の歌謡曲、映画など大衆文化の漸進的流入を認める方向に向かっており、この公報庁の決定は、衛星放送を皮切りに日本の大衆文化の流入を認めたものと受け取られるものであった。韓国政府は1993年、ニュース、スポーツ、ドラマ、映画など11分野の番組を供給する21の放送番組供給会社と二つの設備供給会社を許可し、94年には54の放送会社を選定、95年1月1日を期して本格的なケーブルテレビ放送に乗り出した。2005年6月末現在で、ケーブルテレビの加入世帯数は1165万世帯となり、全世帯の66%を占めるまでに普及した。なお、2001年からアジアで最初に地上デジタル本放送が開始された。また、2005年からは携帯端末向けDMB(デジタル・マルチメディア放送)も行われている。
[林 建彦]
東京オリンピックから24年目、アジアで2回目の開催となった「ソウル'88オリンピック」は、史上最多の160か国・地域の選手1万3626人が参加して、空前の規模となり、1988年9月17日から10月2日まで、16日間にわたって繰り広げられた。主催国としての韓国の面目は、金メダル12、銀メダル10、銅メダル10、ソ連、東ドイツ、アメリカについで堂々総合4位という偉業ぶりで十分に保たれた。金メダル12個は1945年の日本植民地支配から解放以後、9回にわたるオリンピックに参加して得た金メダル総数7個を一度に5個も上回る収穫であった。アジアでの中国に次ぐ韓国のスポーツ強国ぶりは、1996年のアトランタ五輪での、金メダル7個、銀メダル15個、銅メダル5個、総合9位グループの実績にも遺憾なく発揮された。その後も、2000年シドニー五輪では金メダル8個、銀メダル9個、銅メダル11個の総合12位、2004年アテネ五輪では金メダル9個、銀メダル12個、銅メダル9個の総合9位に健闘している。また、2006年トリノ冬季五輪でも金メダル6個、銀メダル3個、銅メダル2個の活躍をみせている。2002年に行われたサッカーのワールドカップ韓国・日本大会では、ポルトガル、イタリア、スペインというヨーロッパの強豪を破り、ベスト4の成績を残した。
[林 建彦]
連合国最高司令部(GHQ)外交局長W・J・シーボルトの斡旋(あっせん)で、1951年10月に始まった日韓国交正常化会談であったが、日本の植民地支配を肯定した「久保田発言」や「対日請求権」などの難題をめぐって中断を繰り返した。そしてようやく「日韓基本条約」の批准書を交換して、両国の関係正常化を達成したのは1965年12月18日だった。韓国政府は76年12月「対日請求権白書」を発表、1966年から10年間にわたった有償・無償5億ドルの請求権資金導入が韓国経済の高度成長に果たした役割を積極的に評価した。しかし韓国のマスコミはこの発表を無視し、報道しなかった。
1979年10月26日の大統領朴正煕(ぼくせいき/パクチョンヒ)の暗殺死と、80年9月1日の大統領全斗煥(ぜんとかん/チョンドファン)の登場は、韓国指導者の「かつて強制的に日本語を教え込まれた世代」から「ハングル世代」への交代を意味した。1983年1月、中曽根(なかそね)康弘は日本人首相として初めて韓国を公式訪問、84年9月には全斗煥の韓国元首(大統領)としての初の公式日本訪問の実現となった。その際の「両国の間の不幸な過去はまことに遺憾」とした昭和天皇の宮中晩さん会発言を、全大統領は「国民とともに厳粛な気持ちで傾聴した」と評価した。全斗煥に次いで大統領として1990年9月訪日した盧泰愚(ろたいぐ/ノテウ)は、日本側のいっそう明確な歴史認識を求めた。現天皇は宮中晩さん会で、「貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」と述べ、大統領は「わが国と国民に対して友誼(ゆうぎ)に満ちたおことばを賜りましたことに謝意」を表した。93年3月韓国大統領として3人目に来日した金泳三(きんえいさん/キムヨンサム)に対し、現天皇は「友好協力、未来への道を切り開く」と述べ、大統領は「これ以上、過去が未来を束縛してはならない」と応じ、未来志向の日韓関係が打ち出された。にもかかわらず韓国側の不幸な過去に対するわだかまりは解けず、1995年12月国交30年を迎えながら両国間に公式な記念行事はなかった。しかし両国の人的交流は確実に拡大し、95年には270万人に達した。同年の高麗(こうらい)大学の「対日イメージ調査」は、植民地支配の責任をめぐり、「力のなかった韓国側にも責任」があるとした回答が55.6%(20歳代では66.2%)、「日本の戦後世代には植民地支配の責任は問わない」とするもの57.5%――など、日韓マスコミ報道の伝える、反日感情一色の韓国の対日世論とは異なる側面を浮き彫りにした。
ソウルの中心地にその威容を誇った日本の旧朝鮮総督府は1996年11月13日完全に解体され、日本植民地時代の19年および解放後51年のあわせて70年間にわたる歴史に幕を閉じた。一方、日韓両国は、1996年5月31日の国際サッカー連盟理事会の決定に沿って、2002年のサッカー・ワールドカップの日韓共催に向けて協力し、大会を成功させた。不幸だった20世紀前半の両国の過去を清算し、いよいよ未来志向の関係に進まなければならない両国をまさしく象徴する旧朝鮮総督府解体であり、サッカー・ワールドカップの共催であった。また、日本との貿易不均衡を解消する目的で1978年に導入された「輸入先多角化制度」も、最後に残っていた中・大型乗用車、携帯電話など16品目の輸入解禁が1999年6月末に実施されたことによって完全に撤廃された。対日輸入規制が約20年ぶりに撤廃されたことで、日韓貿易の拡大など、経済緊密化が加速するものとみられる。
1998年10月、日本を公式訪問した大統領金大中(きんだいちゅう/キムデジュン)は日本の首相小渕(おぶち)恵三とともに両国首脳が署名した「共同宣言」と、同宣言に基づく「21世紀に向けた日韓行動計画」を発表した。小渕首相が日本国民を代表して金大中大統領に対し、「今世紀の日韓両国関係を回顧し、わが国が過去の一時期韓国民に対し、植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受け止め、これに対し痛切な反省と心からのお詫(わ)びを述べた」ことが公式文書をもって確認された。歴代韓国大統領の訪日のなかで「共同宣言」の発表は初めてのことであった。
金大中は訪日に先だち「20世紀に起きた両国間の不幸な過去は20世紀中に清算し、21世紀に向けて新たな日韓関係を開く」としていたが、大統領が訪日を通じてあげた最大の成果は、韓国の対日外交を画期的に転換させるものだった。金大中は日本国会での演説を通じ、IMF管理下「国家破産の危機に瀕(ひん)した韓国経済」に対し、日本が示した協力支援に「心から感謝する」と述べ「苦しいときの友人が真の友人」との諺(ことわざ)を引用した。韓国歴代大統領の訪日のなかで日本に対し、率直な謝辞を表明した初の大統領であった。
1999年3月、訪韓した小渕恵三は金大中との間で、対北朝鮮政策で「抑止と対話」路線を鮮明に打ち出す一方、核・ミサイル問題をふくめた「包括的アプローチ」で日韓米が共同対処することを確認した。また両首脳は日韓投資協定の早期締結などを盛り込んだ「日韓経済アジェンダ21」に正式合意した。
ソウル市内の高麗大学で「新世紀の日韓関係、新たな歴史の創造」と題して講演した小渕恵三は、「21世紀には両国が核となって欧州連合(EU)に匹敵する自由貿易圏をつくる夢を検討してほしい」と日韓関係の今後に大きな期待をよせた。
2001年に入ると日韓友好ムードに変化がみられた。日本における「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書採用問題と、小泉純一郎首相の靖国(やすくに)神社参拝が韓国側の反発を生んだ。しかし、2002年には日韓共催によるサッカーのワールドカップが行われたことにより、一時的に和解状態が生じた。さらに、日本では韓国ドラマ『冬のソナタ』の人気をきっかけに「韓流(はんりゅう)」ブームがおこり、韓国映画が日本でもヒットするようになった。また、2003年に就任した盧武鉉(ノムヒョン)大統領も小泉首相との会談を重ね、友好関係が深まっているようにみえた。
文化面、経済面で日韓交流が続く一方で、2005年に入ると政治関係はいっきに緊張した。同年3月、島根県議会が「竹島の日」を決めたことに対し、同島の領有権を主張している韓国政府が猛反発し、対日強硬姿勢をあらわにした。また、毎年続けられる小泉首相の靖国神社参拝に対しても盧大統領は会談のなかでその中止を求めたが、小泉首相は参拝を継続し、ついに首脳会談は中止されるに至った。2006年5月には、日本側が竹島周辺の海洋調査を行うことに対し、韓国側は実力での阻止を表明、調査は中止された。このように、日韓政治関係は国交正常化以後、最悪の状態といわれ、緊張の状態が続いている。
[林 建彦]
『中川信夫著『日韓問題の歴史と構造』(1975・未来社)』▽『林建彦著『韓国現代史』(1976・至誠堂)』▽『黒田勝弘著『韓国社会をみつめて』(1983・亜紀書房)』▽『朝日新聞韓国取材班編『韓国の素顔』(1986・朝日新聞社)』▽『李泳禧他著、高崎宗司他訳『韓国現代社会叢書』全5冊(1985~86・御茶の水書房)』▽『渡辺利夫編『概説韓国経済』(1990・有斐閣)』▽『田中明著『韓国政治を透視する』(1992・亜紀書房)』▽『池明観著『韓国民主化への道』(1995・岩波書店)』▽『深川由起子著『韓国・先進国経済論』(1997・日本経済新聞社)』▽『森山茂徳著『韓国現代政治』(1998・東京大学出版会)』▽『滝沢秀樹著『アジアのなかの韓国社会』(2000・御茶の水書房)』▽『尹健次著『現代韓国の思想』(2000・岩波書店)』▽『隅谷三喜男著『韓国の経済』(岩波新書)』▽『現代朝鮮問題講座編集委員会編『朝鮮の統一問題』(1980・二月社)』▽『梶村秀樹編『朝鮮現代史の手引』(1981・勁草書房)』▽『玉城素著『朝鮮半島の政治力学』(1981・論創社)』▽『関寛治・高瀬浄編『朝鮮半島と国際政治』(1982・晃洋書房)』▽『三谷静夫編『朝鮮半島の政治経済構造』(1983・日本国際問題研究所)』▽『金学俊著、市川正明訳『朝鮮半島の分断構造』(1984・論創社)』▽『林建彦著『北朝鮮と南朝鮮』(1986・サイマル出版会)』▽『小此木政夫著『北朝鮮ハンドブック』(1997・講談社)』▽『黄義ガク著『韓国と北朝鮮の経済比較』(2005・大村書店)』
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
大韓帝国および大韓民国の略称。李氏朝鮮は第26代国王高宗のとき,1897年に国号を大韓帝国,国王も皇帝と改称。1910年(明治43)の韓国併合条約により日本の植民地となった。19年(大正8)3・1独立運動のあとには,亡命政治家たちが上海で大韓民国臨時政府を樹立した。第2次大戦後,アメリカ・ソ連の朝鮮分割占領をへて,48年(昭和23)南朝鮮が大韓民国として独立した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…正式名称=大韓民国Republic of Korea面積=9万9091km2人口(1996)=4523万人首都=ソウルSŏul(日本との時差なし)主要言語=韓国語(朝鮮語)通貨=ウォンWŏn第2次世界大戦後の米ソ両国による朝鮮の南北分割占領を背景に,1948年8月15日に南朝鮮に成立した国家。韓国と略称される。…
※「韓国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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