須田泰嶺(読み)すだたいれい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「須田泰嶺」の意味・わかりやすい解説

須田泰嶺
すだたいれい
(1825―1908)

幕末・明治の外科医。信州(長野県伊那(いな)に高遠(たかとお)藩医須田経徳(けいとく)の三男として生まれる。幼名は安吉、名は経石、のちに経哲、号は泰嶺。1844年(弘化1)伊勢(いせ)の松崎文誼(ぶんぎ)がネズミやネコを用いて実験・解剖し、講義するのを見て感銘を受けその門下に入った。1846年江戸に出て林洞海師事、1848年(嘉永1)佐倉の佐藤泰然門人となり、蘭方(らんぽう)の外科・産科を修めた。1861年(文久1)伊東玄朴(げんぼく)の下で、玄朴を助けてクロロホルム麻酔を用いて脱疽(だっそ)の足(下腿(かたい))切断術を施した。これは日本で最初のクロロホルム麻酔である。

 明治になって大学東校、文部省中助教、神奈川県病院長、小田原病院長などを歴任佐藤尚中(しょうちゅう)らと博愛社日本赤十字社前身)を創設した。

[澤野啓一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「須田泰嶺」の解説

須田泰嶺

没年:明治41.9.5(1908)
生年:文政8.5.5(1825.6.20)
幕末明治期の外科医。信濃国(長野県)伊那生まれ。須田経徳の3男。天保9(1838)年松尾京庵について漢学漢方医学を修め,弘化1(1844)年江戸に出て林洞海に蘭学と蘭医学を学んだ。嘉永1(1848)年佐倉の佐藤泰然の門(順天堂)に入り,外科産科を修めた。同4年帰郷して開業したが,安政4(1857)年再び江戸に出て,さらに蘭医学を学んだ。明治2(1869)年5月大学中助教に任じられたが,5年官を辞した。10年5月佐藤尚中,佐々木東洋らと共に博愛社(日本赤十字社)を創設した。文久1(1861)年6月江戸吉原の幇間・桜川某の脱疽に,クロロホルム麻酔による下腿切断術を行った。わが国におけるクロロホルム麻酔の最初である。<参考文献>馬詰嘉吉『恩師須田卓爾先生』

(深瀬泰旦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「須田泰嶺」の解説

須田泰嶺 すだ-たいれい

1825-1908 幕末-明治時代の医師。
文政8年5月5日生まれ。江戸で林洞海に師事し,のち佐倉の佐藤泰然に蘭方外科・産科をまなぶ。文久元年日本ではじめてクロロホルム麻酔による外科手術をおこなった。維新後,大学中助教などをつとめた。明治41年9月5日死去。84歳。信濃(しなの)(長野県)出身。名は経哲。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

今日のキーワード

ビャンビャン麺

小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...

ビャンビャン麺の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android