頼政神社(読み)よりまさじんじや

日本歴史地名大系 「頼政神社」の解説

頼政神社
よりまさじんじや

[現在地名]高崎市宮元町

宮元みやもと町の南西部、からす川に面した崖上にある古墳上に祀られる。祭神は高崎藩主大河内(松平)氏の祖源三位頼政。旧村社。大河内輝貞は元禄八年(一六九五)下野国壬生みぶ(現栃木県下都賀郡壬生町)より高崎に入封し、当町北端の城主代代の祈願所石上せきじよう寺境内に同一一年社を建立した。宝永七年(一七一〇)越後村上むらかみ(現新潟県村上市)へ転封になるにつき、神体は江戸霊雲れいうん(現東京都文京区)へ遷座された。

頼政神社
よりまさじんじや

[現在地名]古河市錦町

渡良瀬わたらせ川の東岸、古河城跡の土塁上に鎮座。祭神は源三位頼政とその従者猪早太・渡辺競。旧村社。もとは古河城立崎たつさき(頼政郭)内、頼政の首塚と伝わる古墳上に所在したが、河川改修工事のため現在地へ移った。移転の際、社殿床下の石郭から高さ一尺五寸の沈牡丹模様の朝鮮青磁の甕に納めた遺骨が出土したという(古河の今と昔)

由来は「永享記」に「城南東方に竜崎と云所に、有源三位頼政之廟、一説伊豆守仲綱尋其由来、三位入道於平等院自害之後、郎等下河辺三郎行吉と云人、此地之住人也けるか、頼政の首を討て、衰老の頸を獄門にさらされん事を、無念なりと宣しとて、不違遺言、作山伏之姿、彼首を入桶納笈裡、諸国修業して、後帰本国に、此処に笈を置けるに、此笈少も不動、大石のことく、是は不思議なり、此地に住せ給ふへき験にやとて、此館の鎮守に奉祝」とあり、「古河志」の引く享保元年(一七一六)の縁起も同様のことを記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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