風本浦・勝本浦(読み)かざもとうら・かつもとうら

日本歴史地名大系 「風本浦・勝本浦」の解説

風本浦・勝本浦
かざもとうら・かつもとうら

[現在地名]勝本町 勝本浦

壱岐島壱岐郡にみえる浦。「和名抄」に記される壱岐郡風早かざはや(風本郷とも)の郷名を継承するとみられ、現勝本浦の一帯に比定される。近世は可須かす村のうちで、壱岐八浦の一つ。平戸藩浦掛の支配で、在方の本村とは別に扱われる。史料上は風元(島津家高麗軍秘録)・風本ノ湊(「日向記」巻一一)など多様で、勝本は浦をいう場合に風本と称するともいう(海游録)。弘仁六年(八一五)壱岐に異賊が襲来したため風本など一四ヵ所の崎に要害が設けられたという(壱岐名勝図誌)。承和二年(八三五)新羅の商人が頻繁に「壱伎島」の周辺に現れるとして、島の徭人三三〇人に兵仗を帯びさせ、島内一四ヵ所の要害の崎に配するよう大宰府が上申し、認められているので(「続日本後紀」同年三月一四日条)、当地にも配備されたと考えられる(壱岐名勝図誌)名烏ながらす島と串山くしやま半島の間の博多瀬戸は帆船の時代には筑前博多との航路であったとされる。

〔中世〕

弘安の役に際して東路軍は弘安四年(一二八一)五月二一日対馬に上陸、二六日に諸軍が「一岐島忽魯勿塔」に向かって出航、途中大風に遭って将兵一一三人・舵取三六人が行方不明になったという(「高麗史」忠烈王七年五月癸亥条)。永楽一八年(一四二〇)三月二日、朝鮮王朝の回礼使の宋希の一行は「一岐島の干沙毛梁」に到着、博多商人の平方吉久(陳外郎の子)が送った船に迎えられている。西手の島に石で作った窟があり、聞いたところ、丁丑年(一三九七)の回礼使崔公(崔云嗣、ただし崔の派遣は翌々年)の祠が祀られているといい、さらに悪風で波が荒れ、船が沈没した際、船内で酔って臥していた崔公を、その厳格さを恨んでいた乗員はだれも救わず彼だけが死んだので、倭人が石を築いて祀ったものだと答えている(老松堂日本行録)。「海東諸国紀」では壱岐一四浦の一つとして風本浦とみえ、倭訓は間沙毛都于羅と記し、同書の一岐島之図に対馬の小船越こふなこし(現美津島町)から当浦まで四八里とあり、東の世渡浦(現芦辺町)や南の毛都伊浦(現郷ノ浦町)と結ぶ航路もみえる。元亀元年(一五七〇)博多商人の島井宗室が「壱岐カサモト」から諸品を積送っている(「島井氏年録」同年五月二一日条)。天正一五年(一五八七)一一月日の筑後国肥前国肥後国郡之帳大方小名(橋村肥前大夫文書)に「風はへミなと」「かつもの風はへ」とあり、平戸を通じて伊勢の御祓大麻の配札が行われていたことがうかがえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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