高利貸(読み)こうりかし

精選版 日本国語大辞典 「高利貸」の意味・読み・例文・類語

こうり‐かし カウリ‥【高利貸】

〘名〙 高い利息を取って金を貸すこと。また、その人。高利取。
※俳諧・新撰武蔵曲(1753)「恋をせぬ人もある世歟高利かし〈全史〉 師走の廿日過の分別〈暁翁〉」

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改訂新版 世界大百科事典 「高利貸」の意味・わかりやすい解説

高利貸 (こうりがし)

日本における高利貸は,古代後期よりしだいに成育した貨幣流通に密着して成長し,中世都市で盛んとなり,近世には全国的にその隆盛期を迎えたが,近代社会にあっては庶民金融として副次的な位置に大きく後退した。そのさい留意すべきことは,例えば19世紀前半に成立した《世事見聞録》における武士感覚や儒教倫理にもとづく攻撃にみられるように,道義的気分や政策的観点からの非難(〈高利貸退治〉)を受けやすく,必ずしも実態にそぐわない非難の言葉として乱用されたことである。元本がおのずから利息を生む力と冷厳で機能的な貨幣の性質は,人間関係を分解し腐食させる面をもつから,利子生み資本は一般に嫌悪された。一部にはたしかに近代に至っても高利が行われ,また利息天引きあるいは実質的には利息なのに手数料,礼金等の名目で金を別にとるなどの悪習があったので,利息制限法(1877公布,1954新法公布)や貸金業法(1949公布)が定められた。1954年には貸金業法に代わって出資法が定められた。そして近年のサラ金禍のなかで,83年出資法が改正されるとともに,貸金業規制法(いわゆるサラ金規制法)が制定,施行された(〈貸金業〉〈サラリーマン金融〉の項参照)わけで,取締り対象となるべき悪質業者が横行したのは事実であるが,歴史的には時代的制約の中で生業補完のために有効な働きをしたといえる。借金返済,薬代,商売元手,博打(ばくち)の負債,奢侈の手当てなどの面で貴賤の要用と余暇を支えた。

 日本での生成は,6世紀以来の大陸文化の摂取に付随する。出挙(すいこ)によるひじょうに高利な米銭貸付けはその古例である。《日本霊異記》(9世紀前半)や《今昔物語集》(12世紀前半)が描くように寺院財政の確保の必要もあった。鎌倉期には校倉造の倉をもつ御家人相手の借上(かしあげ)も生まれた。14世紀には堅牢な土蔵をもつ土倉(どそう)が土地担保金融のほかに群生し,貴賤急用や貧乏活計を支え〈諸人安堵之基〉となった。とくに京都は地方荘園経済や日中貿易などの海内財貨の集散地であり座の本拠であったから,貨幣への欲求は大きく,室町幕府財政への浸透を含め,高利貸資本の活躍はめざましかった。農地担保金融への進出は土一揆の原因にもなった。

 近世社会では西鶴の作品にみられるように金貸や質屋は,封建制下の貨幣経済の進展とともにまず上方の都市で旺盛となり,しだいに全国の城下町や農村に拡散し,本百姓層,都市職人・小商人・下級武士層などに浸透した。礼金や利息を天引きし即日返済や日ごとに割賦返済する烏金(からすがね)や日済金(ひなしがね)などは近世後期から明治期に全盛となる。盲人保護に付随した座頭金は,先祖供養の寄付金を元本とする祠堂金や寺社修復料積立てや宮家の高名を利用する資本などとともに名目金として三都(江戸,京都,大坂)や城下町に浸透した。これらは公権力の名の下に元利保護が徹底し,したがって貸金が豊富に集まった。高利貸業者の大名貸とならんで,大坂の蔵元・掛屋は江戸の札差とともに米を引当てとして大名や旗本・御家人に対し金融を行った。両替商も金融を兼務した。各宿駅に蓄積された幕府助成金も地域の金融にまわされていた。なお明治末・大正期に軍人恩給,金鵄(きんし)勲章などの証書を担保にした高利の貸金業が銃後の零細家庭を対象にはびこり,当時の識者をして寒心させたことがある。高利貸はたえず形をかえて再生している。
執筆者:

中国における高利貸の歴史は古い。儒教の経典は高利貸を禁じておらず,すでに先秦時代に高利貸は大きな勢力であった。漢代の高利貸はほとんど無制約的で,年10割の利息も珍しくはなかった。利息は元本と同じもので支払うのが原則とされ,唐・宋時代の利息法によれば,銭を借りた場合,利息は月利すなわち月ごとの単利で,複利計算は認められず,法定利率は月6分ないし4分(年利7割2分ないし4割8分)であった。米麦を借りた場合には,期間は1年,複利は許さず,利息は年5分を超えてはならないとされた。また利息の額は元本の額を超えてはならないとする原則があり,元・明・清時代には,これを一本一利と称した。このように,法定利率もけっして低くはなかったが,現実に行われた高利貸の利率はさらに高く,月利6分以上から1割(年12割)に達するものもあった。南宋時代の記録によると,担保付貸借の場合,月利1割,年利12割を取る者があったという。こうした状況は宋代以後も同様で,元代には,10割の年利を取り,期限内に支払われなければ,利息を元本に繰り入れ,次年にさらに利息を取りたてる習慣も存在した。高利貸を営むのは地主や商人が多く,彼らは農民を搾取して,農村を疲弊させた。1920年代以降,中国共産党によって指導された減租減息運動は,高利貸の支配から農民を解放し,彼らのエネルギーを革命闘争に吸収するのを目的とするものであった。
執筆者:

一般にイスラム法では利子の取得を禁止しているといわれるが,10世紀後半のアッバース朝治下にあって政府は,とくに軍隊への給料支払いにもとづく国家の赤字財政をまかなうため,金融御用商(ジャフバズjahbadh)から高利貸付けをうけるのがつねであった。その担保となったのは各州で徴収される税金であった。公定利率は月に1ディーナールにつき1ディルハムで,月利約6分7厘,年利約8割であったが,時代の推移と借入条件によって大きく変動している。それはコーランで禁止している不労所得にもとづく〈リバー(利子)〉ではなく,資本委託によって得られる〈利潤(ムガーバナ)〉であるとする解釈によって許容されたものである。しかし民間流通市場における利率は,公定利率とは異なり,複利計算によって利息が加速度的に増大し,借入元金1ディーナールが9年目には500ディーナールを超過するに至る事例がある。また貸付業者にはイスラム教徒は少なく,ユダヤ教徒やキリスト教徒など異教徒が多かったといわれる。
執筆者:

中世のヨーロッパでは教会の教儀によって原則として利子の徴収が禁止されていた。旧約聖書《申命記》における〈兄弟からはどんな利子もとってはならぬ〉という教えは,4世紀の聖アンブロシウスによって〈資本を超えたものを受け取ってはならない〉という形に一般化され,グラティアヌスによって教会法に組みこまれた。キリスト教徒の間で利子付きの貸借を行うことは高利貸usuraとして神の教えに背くことと考えられた。違反した者は破門され,秘跡を受けることも正規の墓地に埋葬されることも許されず,場合によっては世俗の裁判所へ引き渡されることもあった。

 このような教義が確立する一方で,11世紀以降都市の経済活動が活発化するにつれて信用の供与が重要な問題となり,利子についてもさまざまな便法が考案された。例えば借り手が所定の期日に返済できず延納した場合,貸し手はその損害を請求できるとされ,トマス・アクイナスもそれを認めている。また一人が土地を他方に売り渡し,一定期間の後に買いもどすという方法も多用された。土地の売買価格の差が利子に相当することになる。貨幣の両替の際に換算率の差を利用して利子をとる方法もあった。これは小口の金融から国際的な大商業にいたるまで広く利用された。とくに13,14世紀のイタリア商人はこのような為替業務を中心に大活躍した。教会は高利貸を禁止する立場であったが,その膨大な機構を維持していくうえでイタリア商人の為替業務や前貸しに依存しなければならなかった。彼らは教会や君主への奉仕(貸付け)の見返りにつねに謝礼(利子)を要求した。その結果,教会は事実上高利貸を是認することになった。このように高利貸についての考え方はたてまえと現実の間で分裂していた。14世紀のイタリアでは5~15%の利子が普通であり,20%を超えると高利と非難された。都市国家の公債も同程度の利子を保証していた。しかし実際にはより高い利子が徴収されていたらしい。庶民を悪質な金融業者の手から救う目的で15世紀にフランシスコ会の主唱の下に設立された公益質屋mons pietatisにおいてすら10~15%の利子が要求されていたのである。ユダヤ人金融業者も20%程度の利子をとっていたらしい。

 以上のように中世末期の都市社会で高利貸は一般的な現象であったが,教会による禁令の影響も存続した。商人たちは利子をとることに不安の念を抱き続けた。利益の一定部分を教会や慈善病院に寄進したり,死後に遺贈したりした。前者は高利であるとして教会裁判所に訴えられた場合に対抗する手段でもあった。宗教改革によってこの状態が一転した。とくにカルバンは現世の生活を重視し,貨幣制度や利子を全体の福祉を促進するものとして許容した。こうして利子をとること自体は合法的であるという考えが初めて確立した。
為替
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「高利貸」の意味・わかりやすい解説

高利貸
こうりかし

金銭貸付業者。「質物(担保)」をとらないかわりに短期間の貸付で高い金利をとる、「質貸(質屋)」と並ぶ近世民間金融の主役である。鎌倉期の「借上(かしあげ)」、室町期の「土倉(どそう/つちくら)」など貸金業の由来は久しいが、「高利貸」の名称は江戸期のもので、「高歩貸」と上方(かみがた)ではよんだ。もっぱら自己資金を短期限で貸し付け、多く「元金」から「利息」を差し引いて貸し渡した。いわゆる「天引」「天利」「踊り」の形である。そのほか「礼金・筆墨料」などの名目で余利をむさぼるものさえあった。「抵当」の要らぬ簡便な金融で、生活費にも窮迫する庶民の要望には適合したが、当然暴利に苦しむ人々も多く生じた。そのため、規制の「制令」も幾多発布されたが、その効果はさしてなかったらしい。

 江戸その他の都市ではその業態も多彩に分化し、以下のような零細な貸金の形も生じた。

(1)座頭金(ざとうがね) 盲人の金貸で特別に優先保護された。

(2)烏金(からすがね) 一昼夜限りの貸金。

(3)百一文 朝100文貸し夕刻101文返済させる「振り売り」などへの貸金。

(4)日なし貸 「日割り」で「なしくずし」に返金させる。

(5)大尽金(だいじんがね) 遊客への一時「立替え貸」。

 一方、農村では、地主・酒屋などの高利貸も広くみられ、借金の抵当に農地を収奪する形が広く生じて、「寄生地主」発生の根源の一つともなった。大商人の「大名貸(だいみょうがし)」、社寺の「祠堂銭(しどうせん)」などの大型金融に対し、「高利貸」は「質屋」とともに近世庶民金融として重要な役割をもち、明治以後も、なおその余勢を保って、近年の「サラリーマン金融」にまでその伝統は及んでいる。

[竹内利美]

 経済学上、高利貸は社会的平均利潤を超える金利での貸付と規定され、高利貸資本は前期的資本の範疇(はんちゅう)に属するものとされる。高利貸付は差し迫った金銭需要に基づくから、金利水準は社会的常識を著しく超えたものとなる。したがってしばしば社会的な反響をよぶ悲劇を生むのみならず、貸付対象の多くが小規模零細企業あるいは勤労者であるから、経済的活動に多大の悪影響をもたらす。そこで近代社会ではこのような高利貸の活動を法律でもって厳しく規制している。

 近代社会で高利を禁止した最初の法律は利息制限法で、日本では1877年(明治10)に制定され、金銭貸借上の異常な利息を規制してきた。またこれと並んでしばしば小口貸金業者の高利の貸付規制を求める試みもあった。第二次世界大戦後は、激しいインフレ下にいわゆる闇(やみ)金融が横行したので、1949年(昭和24)に「貸金業等の取締に関する法律」が制定され、貸金業の業務内容に規制が加えられることとなった。さらに1954年には利息制限法が新しい経済状勢に適合するものに改められるとともに「出資の受入れ、預り金及び金利等の取締りに関する法律」(出資法)が制定されて「貸金業等の取締に関する法律」にかわることとなり、高金利の処罰や金銭貸借媒介手数料の制限などが実施された。また1972年には、社会政策的な意図のもとに貸金業者を近代的な庶民金融として企業金融化することを意図して「貸金業者の自主規制の助長に関する法律」を制定、都道府県ごとに庶民金融業協会を設置し、同協会を通ずる指導によって高利取締りを実施した。しかし近時、小口貸金業者(通称サラ金)による貸付が、意識的な過剰融資、暴力的な取立て、暴利をもたらす超高金利として社会問題となり、その結果、1983年には新たに「貸金業の規制等に関する法律」(貸金業規制法)が制定されるとともに出資法が改正され、過剰貸付および誇大広告の禁止、上限金利の段階的な引下げ、取立て行為の規制などが行われることになった。

 しかし、1990年代のバブル経済崩壊過程は中小零細な金融に異常な状況をもたらし、法定金利と小口貸付金利の間に多様な課題を抱えることとなった。いわゆるグレーゾーン金利問題で、限度を超えたクレジットカード金融(いわゆる自己破産など)等、多様なものが含まれている。これらには超高金利から、マルチ商法まがいなものも含まれ、多重債務者を生じさせ、公序良俗を著しく損なうものと危惧(きぐ)されるに至った。そこで2007年(平成19)改正出資法および「貸金業法」(貸金業規制法の改正に伴い改称、完全施行は2010年6月)が定められ、中小金融はじめ庶民金融の浄化が図られた。さらに最高裁判所は法定外の異常金利について、元本を含めて返済履行の義務を否定した。そこで2007年中の民事訴訟では、利息制限法を超える「過払い金」の返還訴訟が急増、支払準備金の積み増し等もあって、同年中に大型の金融業者の倒産がみられた。

[岡田和喜]

『渋谷隆一著『高利貸金融の展開構造』(2000・日本図書センター)』『北原進著『江戸の高利貸――旗本・御家人と札差』(2008・吉川弘文館)』『石川貴教著『貸金業実務の手引』(2008・経済法令研究会)』

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百科事典マイペディア 「高利貸」の意味・わかりやすい解説

高利貸【こうりがし】

高利の金融を営業として行うもの。日本では,鎌倉時代の借上(かしあげ),室町時代の土倉(どそう),酒屋などを先駆とする。江戸時代には高利貸の名称が生じ,座頭金(盲人の貸金),日なし(日々返済する),烏金(からすがね)(一夜明けが期限),百一文(朝百文を借り夕に百一文を返済),名目銀(社寺の貸金)などの形態があり,幕府の禁令にもかかわらず後を絶たなかった。現在は,臨時金利調整法利息制限法,出資法の一部改正(1983年)などによる規制のほか,サラリーマン金融などのノンバンクを対象とした貸金業規制法(1983年,1991・1992年改正)によって高利の金融が制限されている。

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世界大百科事典(旧版)内の高利貸の言及

【借上】より

…平安末期から南北朝期にかけての高利貸業者の呼称。語義については2説ある。…

【貸金業】より

…手形割引,売渡し担保による金銭の交付も含まれる。江戸時代に入ると,貨幣経済の発達とともに諸侯,武士を相手とする両替商,小銭屋(大坂では掛屋,江戸では札差と呼ぶ)が生まれ,庶民を相手とする盲金(めくらがね)(座頭金),烏金(からすがね),百一文等の貸金業(高利貸)がおこった。明治・大正時代には貸金業が多く,農民は多くの被害に遭い,一般の人々は高利にあえいだ。…

【サラリーマン金融】より

…略してサラ金ともいう。〈サラリーマン金融〉という言葉は,1965年ころからマスコミによって使われだしたが(それ以前は類似のものとして高利貸という呼名が一般的だった),1960年ころ始まった団地族を主対象とする〈団地金融〉がその始まりといわれる。借入目的は生活資金の補充や不時の支出,教育費,医療費の緊急の調達から,旅行,遊興,レジャー,ギャンブル資金など広範である。…

※「高利貸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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