幕末期,尊攘・倒幕運動の中心人物の一人。長州藩士。松下村塾の逸材で,奇兵隊を創設したことで有名。萩の菊屋横丁,150石の家に生まれ(父は小忠太,母は道子),名は春風,字は暢夫(ちようふ),通称は晋作,東一または和助ともいう。号は東行(とうぎよう),西海一狂生など。藩校明倫館に学び,入舎生に選ばれたりしたが飽きたらず,吉田松陰の松下村塾に入門,久坂玄瑞と双璧をうたわれた。松陰は久坂の〈才〉に対し,高杉の〈識〉を高く評価した。1858年(安政5),20歳のとき江戸に出,昌平黌(しようへいこう)に学んだ。60年(万延1)には軍艦教授所に入学,また明倫館舎長,同都講を命じられた。この年,井上方(まさ)(山口町奉行井上平右衛門次女,数え年15歳)と結婚したが,以後死ぬまでの7年余は家庭生活とはほど遠く,馬関(下関)には愛妾おうのがいた。各地を歴訪,佐久間象山,横井小楠らと会っている。61年(文久1),藩世子毛利定広の小姓役となったが,翌年,藩命で上海に行った。ここで高杉は,列強資本主義に半植民地化されつつある中国の実情を見,また,その民族的抵抗に触れた。この体験が,帰国後のイギリス公使館(品川御殿山)焼打事件や身分にかかわらない有志による奇兵隊の創設の背後にあったとみてよい。高杉はみずからの行動を〈狂挙〉と呼ぶが,いうところの〈狂挙〉には,歴史変革への鋭い直感と,伝統的枠組みに対する異端的行動の意味を読み取ることができ,また,そこには一見無謀にみえる背後に慎重な配慮もかくされていたといえる。イギリス公使館襲撃の際の退路の準備や,藩の〈正兵〉に対する〈奇兵〉という命名の案出などにそれをみることができる。奇兵隊創設時は,馬関総奉行手元役,政務座役,奇兵隊総監の役職につき,ついで奥番頭役になったが,文久3年8月18日の政変後の情勢下で脱藩。その罪により64年(元治1)投獄されたが,4国連合艦隊の下関砲撃の危機を前にして免され,和議に臨んだりした。しかし,第1次征長下に長州藩の実権は保守派に握られた。これに対し,高杉は,64年末から65年(慶応1)初めにかけて,諸隊の一部を率いて馬関に挙兵,藩の主導権を奪い返し,木戸孝允らと挙藩軍事体制をつくって第2次征長をめざす幕府と対決した(長州征伐)。このとき海軍総督になって活躍したが,肺結核にかかり,67年4月,馬関で死去した。死の枕頭で,親交のあった野村望東尼(もとに)と,〈おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり〉という合作の一首を残した。ここには満27年8ヵ月の波乱の生涯を生きぬいた高杉の人生が凝縮されているといえよう。
執筆者:田中 彰
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幕末期長州藩における討幕派の中心人物であり、奇兵隊の創設者。名は春風、字(あざな)は暢夫(ちょうふ)、号を東行(とうぎょう)。大組(おおぐみ)(馬廻組(うままわりぐみ))士、家禄(かろく)150石高杉丹治(たんじ)の嫡子として出生。少年期、藩校明倫館(めいりんかん)に入学するが、1857年(安政4)19歳のとき松下村塾(しょうかそんじゅく)に入り、吉田松陰(よしだしょういん)の教育を受ける。やがて久坂玄瑞(くさかげんずい)とともに「村下の双璧(そうへき)」と称され、将来を嘱望される。1858年江戸へ出て幕府昌平黌(しょうへいこう)に入学。1859年松陰刑死後は遺骸(いがい)引き取りに奔走する。1860年(万延1)帰国後明倫館に勤務するが、やがて世子元徳(もとのり)付きの小姓(こしょう)となる。1862年(文久2)幕府の使節とともに上海(シャンハイ)に渡り、西洋列強国侵略の実情をみる。このため帰国後藩府に対し、公武合体策を放棄し富国強兵策の採用を進言する。しかし藩府が不採用のため亡命し、攘夷(じょうい)運動を推進する。同年末、江戸御殿山(ごてんやま)のイギリス公使館を同志とともに焼打ちする。1863年剃髪(ていはつ)し東行と号して帰国するが、下関(しものせき)戦争が始まり馬関(ばかん)総奉行(そうぶぎょう)手元役に抜擢(ばってき)される。そこで武士隊の敗北を知り、奇兵隊を創設し総監となる。奇兵隊は士農工商を問わず入隊でき、階級差別のない新しい軍隊であった。この後、下関講和交渉の正使となるが、藩府と意見があわず亡命する。1864年(元治1)下関で諸隊を集め、翌1865年(慶応1)内訌(ないこう)戦に勝利し藩府の主導権を握る。1866年第二次長州征伐(四境(しきょう)戦争)では小倉口(こくらぐち)方面の指揮官および全軍の総指揮官となり、勝利するが、慶応(けいおう)3年4月14日肺結核のため下関で死去。29歳であった。
[広田暢久]
『奈良本辰也著『高杉晋作』(1965・中央公論社)』▽『高杉東行先生百年祭奉賛会編・刊『東行――高杉晋作』(1966)』
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(井上勲)
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1839.8.20~67.4.14
幕末期の志士。萩藩士。名は春風(はるかぜ),字は暢夫(ちょうふ)。号は東行(とうぎょう)。変名谷梅之助・谷潜蔵。吉田松陰に学び久坂玄瑞と並び称される。1862年(文久2)幕艦で上海に渡る。帰国後久坂らと品川御殿山のイギリス公使館を焼き打ちし,また藩論の航海遠略策を批判した。63年萩藩の下関における攘夷決行に対する米仏艦の反撃に際し,奇兵隊を組織。翌64年(元治元)の四国連合艦隊下関砲撃事件では,藩の正使として講和に応じた。幕府の征長軍組織化にともなって藩の保守派が実権を握ると一時脱藩し,同年末から翌65年(慶応元)にかけて諸隊を率いて下関で挙兵,保守派を倒す。慶応軍制改革に参与し,66年の第2次長州戦争では小倉口参謀として活躍。67年下関で病死。
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…結成は1863年(文久3)6月で,場所は下関の豪商白石家。上海で中国の半植民地化をまのあたりにした長州藩士高杉晋作が,安政期以降の長州藩軍制改革の成果に立って,藩主の信任のもとにつくったのが奇兵隊である。ときに長州藩は,攘夷期限(1863年5月10日)の外船砲撃の結果,米・仏などの反撃によって武士階級の無力さを暴露されていた。…
…優勢に立ったヨーロッパ連合軍は陸戦隊2000名を前田砲台や下関市街周辺に上陸させ,砲台を破壊し,あるいは奪い取り,3日間で戦闘が終了した。長州藩は高杉晋作を起用して14日に調停が成り,海峡通航の外国船保護,砲台の武装解除,下関市街を焼き払わなかった償金の支払,償金支払を幕府と列国の交渉に任すことが合意された。この事件によって長州藩の改革的勢力は一時後退したが,攘夷派が決定的な打撃を受け,やがて開国論が政府の主流となり,またヨーロッパとの軍事力の違い,軍艦・火砲の威力,さらに長州藩兵のなかで士気が上がったのは奇兵隊など諸隊だけであったことなどが深刻に認識され,慶応期の画期的な軍制改革の伏線となった。…
※「高杉晋作」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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