高橋貞樹 (たかはしさだき)
生没年:1905-35(明治38-昭和10)
大正・昭和期の社会運動家。大分県庁職員の長男として出生。1922年教授福田徳三への幻滅から東京商科大学(現,一橋大学)予科2年で中退し,山川均のもとへ走り,共産党に入党。全国水平社第2回大会では陸海相あて抗議文起草,24年春に《特殊部落一千年史》を脱稿し,山川の尽力で刊行。全国水平社青年同盟結成と無産青年同盟への解消を指導。26年5月から28年11月まで滞ソ,マルクス=エンゲルス研究所レーニン課程に学ぶ。〈27年テーゼ〉およびコミンテルン第6回大会民族植民地問題テーゼ作成に協力。帰国後は検挙までの4ヵ月余,政治的自由獲得労農同盟の左旋回に腐心する。〈32年テーゼ〉反対を理由に獄中転向。妻の小見山富恵も左翼の活動家だった。
執筆者:岩村 登志夫
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高橋貞樹
たかはしさだき
(1905―1935)
大正・昭和戦前期の社会運動家。明治38年3月8日大分県に生まれる。1921年(大正10)大分中学4年修了で東京商科大学(一橋大学の前身)予科に入学するが2年で中退。22年山川均(ひとし)の主宰する水曜会に入り、同年7月創立の共産党にも参加、翌23年6月の第一次共産党事件では検挙を免れた。同年9月の関東大震災で関西に逃れ、初期水平運動の理論的指導にあたり、12月全国水平社青年同盟を組織した。早熟な理論家で、24年に刊行した名著『特殊部落一千年史』は19歳のときの作。26年5月訪ソし、レーニン講習所に学び、党再建のため28年(昭和3)末帰国。『マルクス主義』誌上に多くの指導的論文を発表したが、翌29年の四・一六事件で検挙され、懲役15年の刑を受けた。33年獄中で転向を表明、35年6月結核で執行停止となり、出獄したが、11月20日に死去した。
[渡辺悦次]
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高橋貞樹 たかはし-さだき
1905-1935 大正-昭和時代前期の社会運動家。
明治38年3月8日生まれ。山川均(ひとし)門下。大正11年共産党創立に参加,同年水平社にくわわる。ソ連のレーニン大にまなぶ。帰国後の昭和4年四・一六事件で検挙され,獄中で転向。昭和10年11月2日死去。31歳。大分県出身。東京商大(現一橋大)予科中退。著作に「特殊部落一千年史」など。
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世界大百科事典(旧版)内の高橋貞樹の言及
【アイルランド問題】より
…特に矢内原はアイルランド問題を民族独立と社会主義の問題として認識している。また,この時期に日本での解放運動の思想的確立をめざす立場から,アイルランド独立運動をとらえた高橋貞樹の論文《愛蘭の民族解放運動》(1924‐25)が,水平社青年同盟の機関紙《選民》に発表されたのも注目に値する。(4)自作農創設,小作制度改革の方策を探る手がかりとしてのアイルランド問題で,農業と土地法が研究された。…
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