高津原村(読み)たかつはらむら

日本歴史地名大系 「高津原村」の解説

高津原村
たかつはらむら

[現在地名]多古町高津原・大高おおたか

寺作てらさく村の北西栗山くりやま川西方の丘陵上にある。江戸時代末期に描かれた絵図(高津原区有)によると、多古と佐原を結ぶ道が村の南北を貫き、道の東西に円形に田が広がっている。中世千田ちだ庄に属し、在地領主として円城寺氏が知られる。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)に「円城寺将監入道殿分 高津原 田数七町八反三百三十(歩)」とみえ、当地の分銭(反当り二五文)が香取社の造営料に充てられている。


高津原村
たかつわらむら

[現在地名]河原町高福たかふく

北西から北へ流れを変える千代川右岸に位置し、同川に沿って村内を智頭ちず街道が通る。南東釜口かまのくち村。享保元年(一七一六)の郷村高辻帳は「タカツハラ」と訓ずる。永禄八年(一五六五)三月の山名豊儀宛行状(譜録)によると、高津原を含む七町八段の地が秋里与郎に宛行われている。藩政期の拝領高一二四石余、本免六ツ一分。野崎氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数一八。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一七二石余、竈数二四。藪役四分余・川役七斗余を課されていた(藩史)。元文一揆の際には一揆勢が当村の大庄屋宅を打毀した(「元文一揆留置」岡山大学付属図書館蔵)


高津原村
こうづはるむら

[現在地名]犬飼町高津原 高津原・はたがわ

山野田やまのた村の南にあり、南は柴北しばきた村。「豊後国志」に高津原村とみえる。旧高旧領取調帳では高二一五石余。幕末まで岡藩領。元禄一六年(一七〇三)には高津原堤が竣工している(地方温故集)。安永七年(一七七八)には柴北組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


高津原村
たかつはるむら

[現在地名]庄内町阿蘇野あその 高津原こうづはるなど

花牟礼はなむれ山の南麓、阿蘇野川に流れ込む支流の上流域にあり、狭い谷間に位置する。南東は栢木かやのき村。直入なおいり郡に属し、岡藩領阿蘇野組(農民一揆)正保郷帳に村名がみえ田高七六石余・畑高六八石余、阿蘇野郷に所属。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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