江戸後期の豪商、廻船(かいせん)業者。明和(めいわ)6年1月1日淡路(あわじ)国津名(つな)郡都志(つし)本村(兵庫県洲本(すもと)市都志)に生まれる。1500石積みの辰悦丸(しんえつまる)を所有し、兵庫を根拠に北海産物の交易に従事し、1798年(寛政10)には箱館(はこだて)に支店を開設。1799年東蝦夷(ひがしえぞ)地の仮上知(かりあげち)に伴い、幕命を受けて択捉(えとろふ)島への渡海路の調査にあたる。翌年辰悦丸で択捉島に渡り、大船通路の基礎を築くとともに、同島の漁場の開発に努めた。この功により1801年(享和1)に「蝦夷地御用定雇船頭(じょうやといせんどう)」に任じられて幕府の蝦夷地直営に参画し、官船の製造や官用船の運営にあたった。直営廃止後も、択捉場所、ネモロ(根室(ねむろ))場所などの場所請負を行い、箱館大町に本店を移し、大坂、兵庫に支店を置き、巨万の富を築いた。この間、ゴロウニン幽囚事件の報復として、1812年(文化9)国後(くなしり)沖でリコルド指揮下のロシア軍艦ディアナ号に捕らえられてカムチャツカに連行されたが、その剛胆で沈着な態度に感服したリコルドをして、嘉兵衛を頼りゴロウニンらの釈放を求める決意を固めさせた。翌1813年ディアナ号で国後島に送還された嘉兵衛の尽力により、同年9月、事件は円満に解決した。晩年は弟金兵衛に跡目を継がせて郷里に退隠し、文政(ぶんせい)10年4月5日自宅に没した。
[小林真人]
(上村雅洋)
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江戸後期の商人。淡路の人。本姓高田で姓を屋号とした。兵庫を根拠に日本海・松前方面との廻船業を始め,1798年(寛政10)には箱館にも出店,幕府の北方政策に密着して1800年には択捉(えとろふ)島に至る航路や同島の漁場を開発し,01年(享和1)には幕府から蝦夷地定雇(じようやとい)船頭を命じられた。続いて蝦夷地東部にも場所請負の漁場をも経営,やがて箱館に本店,兵庫・大坂に支店を設けて手船数十艘を動かす有力商人となった。12年(文化9),前年におきたゴロブニン逮捕の報復として国後(くなしり)島付近の海上でロシア船に捕らえられたが,翌13年にはロシア船長リコルドに伴われて国後に至り,ゴロブニンの釈放に尽力,その実現により嘉兵衛も帰国,晩年は家業を弟にまかせて淡路に隠退。
執筆者:村井 益男
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1769.1.1~1827.4.5
近世後期の廻船業者・場所請負人。淡路国津名郡都志本村生れ。1795年(寛政7)辰悦丸を建造し,翌年から船持船頭として箱館―上方間の物資輸送を開始。98年箱館に支店を開設。翌年幕府の東蝦夷地仮上知にともない,官船宜温丸で択捉(えとろふ)に渡り航路を開く。1801年(享和元)蝦夷地御用定雇船頭,06年(文化3)蝦夷地産物売捌方,10年択捉場所請負人になるなど,幕府の蝦夷地政策に深く食いこみ豪商となる。12年国後(くなしり)島沖合でロシア人リコルドに拿捕され,カムチャツカに連行された。翌年国後に送還され,ゴロブニン事件の平和的解決に尽力した。
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…国後(くなしり)島の北東にあり,択捉海峡を挟んでウルップ島に相対する。1798年(寛政10)近藤重蔵,最上徳内が探検して〈大日本恵登呂府〉の標柱を立て,翌年高田屋嘉兵衛によって航路が開かれた。1855年(安政2)の日露和親条約によって日本領とされた。…
…1806‐07年に一部のロシア軍人がサハリン(樺太),択捉(えとろふ)島などで日本の番所を襲撃する事件があり,幕府は蝦夷地の防備を固めていたのである。ディアナ号の副艦長リコルドや彼が人質とした箱館の商人高田屋嘉兵衛の尽力もあって,13年に釈放される。この間,足立左内,馬場佐十郎,間宮林蔵らにロシア語やロシアの国情を伝え,帰国後は,日本人のもとでの抑留生活の詳細な記録と卓抜な観察からなる《日本幽囚記》(1816)を著す。…
…その後,89年(寛政1)国後・目梨地方(メナシはアイヌ語で〈東〉の意で,現在の目梨・標津(しべつ)両郡の沿岸地区)のアイヌが蜂起したこともあって(国後・目梨の戦),98年幕府は再度千島を調査し,近藤重蔵が択捉島に〈大日本恵登呂府〉の標柱を建てた。翌99年東蝦夷地とともに千島を幕府直轄領とし,1800年高田屋嘉兵衛に命じて択捉島に漁場を開かせるとともに,同島に郷村制を実施してアイヌの同化策を進めた。 同地は21年(文政4)再度松前藩領となったが,この間,1807年(文化4)フボストフNikolai KhvostovやダビドフGavriil I.Davydovらの択捉島攻撃,11年千島海域の測量に来たゴロブニンの捕縛と翌年のリコルドPyotr I.Rikordによる高田屋嘉兵衛の連行など,千島を介して日本と交易関係を結ぼうとするロシアとの間にしばしば紛争が生じた。…
※「高田屋嘉兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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