鳴尾村
なるおむら
[現在地名]西宮市鳴尾町一―五丁目・上鳴尾町・甲子園一番町・甲子園二番町・甲子園三番町・甲子園四番町・甲子園五番町・甲子園六番町・甲子園七番町・甲子園八番町・甲子園九番町・甲子園町・南甲子園一―三丁目・浜甲子園一―四丁目・枝川町・古川町・戸崎町・花園町・学文殿町一―二丁目・里中町一―三丁目・池開町・武庫川町・笠屋町・東鳴尾一―二丁目・上田西町・上田中町・上田東町・高須町一―二丁目、尼崎市平左衛門町
武庫川河口右岸、武庫川とその分流鳴尾川・枝川・申川がつくる三角洲上に位置し、武庫郡に属する。寛弘二年(一〇〇五)大宰大弐として赴任した藤原高遠は、その途中「なるを」で「おもふことなるをにとまるふな人は人なみなみにあらさらめやも」と詠じており(大弐高遠集)、さらに承徳元年(一〇九七)源俊頼は「なるをゝ過てはへりけるに松のみえけれはよめる」として「うらやましなるをにたてる松ならはなみかけぬ間もあらまし物を」と詠むなど(散木奇歌集)、平安時代後期には景勝地として知られ、歌枕ともなった。治承四年(一一八〇)の「高倉院厳島御幸記」に「をとにききつるなるおのまつ」とあるように、鳴尾の松はとくに名高かった。元永二年(一一一九)九月四日、広田社参詣に赴いた源師時は神崎(現尼崎市)より船で当地に回ろうとしたが、風雨のため波が高いとの報告をうけ、衆議の結果、陸路に変更している(長秋記)。また長承三年(一一三四)九月一三日には師時が鳴尾に「塩湯」のために下向しており(同書)、鳴尾は湯浴の名所としても知られていた。
貞応二年(一二二三)三月日の蔵人所牒案(国立歴史民俗博物館蔵弁官補任紙背文書)によると、摂津国の諸市や小松などの庄園とともに、鳴尾において地頭・神人らが檜物の交易を妨害することを禁じており、商業の発展がうかがわれる。翌元仁元年(一二二四)神祇伯に任ぜられた資宗王は広田社参詣に際し、先例に従って鳴尾随行の神祇官役人らとともに饗に応じている(「神祇官年中行事」貞応三年一一月七日条)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報