鴨島町(読み)かもじまちよう

日本歴史地名大系 「鴨島町」の解説

鴨島町
かもじまちよう

面積:三三・七六平方キロ

郡の東部にあり、東流する吉野川を隔てて北は板野いたの郡吉野町・土成どなり町、東は名西みようざい石井いしい町、南は高越こうつ山系の山地を隔てて名西郡神山かみやま町、美郷みさと村に、西は川島かわしま町に接する。吉野川の南を川、さらにその南を飯尾いのお川がほぼ東流し、沖積平野を形成している。町の南部は高越山系の山地と、それに続く洪積台地で、寺谷てらだに川・三谷みたに川・藤井谷ふじいだに川などが南流して飯尾川に合流している。東西にJR徳島線・国道一九二号・主要地方道徳島―鴨島線が走り、香川県へつながる国道三一八号や神山町へつながる主要地方道鴨島―神山線が国道一九二号と合流している。

縄文時代の遺跡は長原ながはら遺跡・東禅寺とうぜんじ遺跡、弥生時代の遺跡は敷地しきじ遺跡・三谷遺跡などが確認されている。銅鐸も上浦かみうら(牛島)銅鐸・森藤もりとう銅鐸の二個が出土し、南部の山地には吐気山ほけやま西宮にしみや・東禅寺などの古墳群がある。律令制下では麻殖おえ呉島くれしま(和名抄)の郷域であったと考えられる。飯尾字唐人かろうとに祀られていた呉羽くれは神社は、大陸から渡来した呉服部にまつわる伝承があり、阿波忌部氏が大嘗祭に荒妙を貢進していたことも併せて、町域では古代から織物が生産されていたとも考えられる。飯尾の藤井ふじい寺の本尊には久安四年(一一四八)の銘があり、敷地では平安時代後期と推定される河辺こうべ寺跡が発掘されていることなどから、古代末期には仏教の教線が一定の広がりをみせていたことが推定される。中世には麻殖保(麻殖庄)に含まれていたと思われる。

鴨島町
かもじままち

[現在地名]高岡市鴨島町・白金町はつきんちよう

博労畳ばくろうたたみ町の北端から東に延びる両側町で、西は旅籠はたご町が続き、東は白銀しろがね町に直交する。本町端にあたるため大木戸が設けられ、筆屋又右衛門ふでやまたえもん小路にも木戸があった(不歩記)。本町で、町名は鴨島(賀茂島)七郎の屋敷があったことによるという(高岡町由緒聞書)。鴨島七郎は寿永年間(一一八二―八四)関野せきのの南部台地に住んでいたなどと伝え、越中旧記(博労小学校史)には「加茂島七郎ハ、礪波郡福光の城主石黒太郎ノ別レニシテ、此ノ所地名トナリテ在住ス。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報