鹿児島城跡(読み)かごしまじようあと

日本歴史地名大系 「鹿児島城跡」の解説

鹿児島城跡
かごしまじようあと

[現在地名]鹿児島市城山町など

甲突こうつき川河口近くの左岸、城山しろやま丘陵(坂元丘陵)先端部に築かれた城。鶴丸つるまる城とも称され、県指定史跡。鹿児島藩主島津氏累代の居城で、しろ山の東山麓に慶長六年(一六〇一)から築造された平城(鶴丸城)を主体とし、城山山上の山城も含む構成となっていた。鹿児島城が近世を通じて正規の名称であったが、藩内では御内みうち(略称は御内)と称された。これはそれまでの本城が御内城といわれていたのを受継ぐ名称で、当城が築かれると、もとの御内城(内城)元御内もとみうち(元御内)とよばれるようになった。島津氏の統治の中核となる内城の意で、これに対し藩内各地の館が外城であった。山城部分は上山うえやま城を含み、当初は山城部分ばかりでなく麓の部分も含めて上山城とよばれた。明和九年(一七七二)城山は鶴丸山とよばれており、近世中期には山城部分を美称で鶴山とか鶴丸山とよんでいた(列朝制度)。そこで山城部分を上山城に代わって鶴丸城とよぶようになり、その後鹿児島城全体をさして鶴丸城ともよぶようになったとみられる。

〔築城の経緯〕

上井経兼日記(玉里文庫)によると、慶長六年一月一七日に家久が「上之山」に出て侍屋敷を見学したとあり、翌一八日、上之山の普請が始まったと伝えている。見聞秘記(同文庫)には慶長七年のこととして「当御屋敷、縄張」とある。「三国名勝図会」は島津家久が明人の黄(江夏)友賢に城地を占わせたところ、屋形を巽位に構えることとなったとし、「島津国史」は同年家久が上山城(鹿児島城)を築いたとする。同五年の関ヶ原合戦で島津義弘が属した西軍が敗れたため、翌六年以降家久は義弘の意向を受けて徳川家康の攻撃に備えて肥後境・日向境を固め、そこから鹿児島の本拠である内城(現大竜町)までの主要な城を補強するなど防備を固めた。そのなかで同年当城の築城に着手した。翌七年築城を検分した義弘は上山城は城下が海に近すぎ、家臣の屋敷普請も経費がかかりすぎるとし、東福寺とうふくじ城を居城、清水しみず城を屋形、上山城を出城にするよう述べている(七月一六日「島津惟新書状」旧記雑録)。しかし家康から本領を安堵された家久は藩政の主導権を握り、新城の普請についても自説を貫いた。慶長九年には入城したが(見聞秘記)、同一一年四月段階で「上之山城普請」中とされ(同月一四日「島津惟新書状」旧記雑録)、同年五月に書院と数寄屋の材木の木作りに関する記事がみえ(五月一日「島津惟新書状」同書)、同年六月六日に楼門前の板橋渡り初めとある等普請は続き(「島津家久譜」同書)、完成したのは同一七年一〇月頃とみられる(玉里文庫蔵「旧典抜書」宝暦六年条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報