インド映画(読み)いんどえいが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド映画」の意味・わかりやすい解説

インド映画
いんどえいが

インドへの映画の渡来は1896年とされている。その年リュミエール兄弟の助手マリウス・セスターがボンベイ(現、ムンバイ)にシネマトグラフを持ち込み、7月7日同市のワトソンズ・ホテルで上映した。インドで初の映画公開である。翌1897年から記録映画の製作が始まったが、最初の劇映画は1913年公開の『ハリシュチャンドラ王』Raja Harishchandraであった。これを監督したファールケーDhundiraj Govind Phalke(通称Dadasaheb Phalke、1870―1944)は印刷業者だったが、イギリスに赴いて映画製作を学び、帰国してこれを手始めに製作を重ね「インド映画の父」とよばれた。

 1920年代に入ると、ボンベイの年間製作43本をトップに、マドラス(現、チェンナイ)、カルカッタ(現、コルカタ)、バンガロール(現、ベンガルール)など言語地域ごとに撮影所が設けられ製作が始まった。映画館も急増し、1925年には全国で251館に達した。1931年トーキー時代に入ると多言語問題に直面した。地域ごとに異なる10以上の言語のために、映画はそれぞれの言語で上映地域が限られてしまったからである。以後インドでは、言語別に映画が製作されるようになる。

 インド映画は大別して2種類のタイプに分けられる。一つは劇中に6回ないし8回ほど歌や踊りのシーンが挿入され、そのつどドラマの進行が中断される。古くから今日でも地方でみられる伝統演劇の型を踏むもので、最初のトーキー『アーラム・アーラー』Alam Ara(1931)も、初のカラー映画『アーン』Aan(1952)もそうであったように、娯楽映画の基本的なスタイルである。ほかの一つは歌も踊りもなく、リアルに物語を語るもので、主義主張をもって社会問題を扱うような場合が多い。

 イギリスの広告会社に勤めていたサタジット・ライ(英語読みでレイとも)は、『河』(1951)のインド・ロケにきたジャン・ルノワール監督に会い、励まされて映画製作を志し、『大地のうた』Pather Panchali(1955)を第一部とする「オプー」三部作Apu Trilogyをつくった。この第一部はカンヌ国際映画祭特別賞などを、第二部『大河のうた』Aparajito(1956)はベネチア国際映画祭グランプリなどを受賞し、一躍第一線に躍り出た。彼の映画には詩的リアリズムともいうべき独特の美的様式があった。ライはその後も『大都会』Mahanagar(1963)、『遠い雷鳴Ashani Sanket(1973)、『チェスをする人』Shatranj Ke Khilari(1977)などで新しいインド映画をリードしたが、『見知らぬ人』Agantuk(1991)を最後に1992年に没した。また、ライ監督と並ぶ詩的作家とみなされたケララ地方のアラビンダンG. Aravindan(1935―1991)も『サーカスThampu(1978)、『魔法使いのおじいさん』Kummatty(1979)、『追われた人々』Vasthuhara(1990)などを残して1991年没した。インド映画にとってこの時期は、まるで世代交代期のようにみえた。

[登川直樹・松岡環]

インド映画における言語問題と地域別特徴

地域によって通用する言語が異なるインドの場合、映画の言語の問題は大きい。使われる地域が広いほど、その言語の映画は広い上映地域をもつが、言語によって使われる地域の広さに極端な差があり、映画の製作本数も大きく異なる。1999年の統計によれば、その年製作されたインド映画全体の764本のうち、もっとも多いヒンディー語映画が166本、タミル語153本、テルグ語132本、カンナダ語87本、マラヤーラム語76本、ベンガル語51本と、以上6言語の映画で全体の87%を占めていて、残りの13%がマラーティー語グジャラート語、オーリヤー語など十数言語の映画であり、年によって製作1本またはゼロという言語も少なくない。このうち最多のヒンディー語映画は、ムンバイ(旧称ボンベイから、ハリウッドをもじった「ボリウッド」の名でもよばれる)に拠点を置く多くの撮影所でつくられ、歌と踊りを取り混ぜた娯楽映画が大部分で、上映される地域もインド全土に及んでいる。またコルカタを拠点とするベンガル語映画は、映画監督サタジット・ライの地元でもあり、リアルに物語を語る映画が多い。一方、南部4言語(タミル、テルグ、カンナダ、マラヤーラム)の地域の製作本数が多いのは、1970年代後半、タミル語やテルグ語地域で映画スター出身の州首相が誕生し、映画振興に力を注いだ結果、製作本数が一挙に増加したことによる。言語相互間で吹き替え版がつくられるのも製作本数の増加につながっており、現在はヒンディー語映画と肩を並べ、ダイナミックな歌と踊りのシーンを盛り込んだ娯楽映画を量産している。

[登川直樹・松岡環]

言語別のおもな映画作品

言語別に映画製作地域のめぼしい監督、作品を展望すると、以下のようなものがあげられる。

(1)もっとも活発なムンバイを拠点とするヒンディー語映画では、シャーム・ベネガルShyam Benegal(1934― )の『芽ばえ』Ankur(1973)、『ミュージカル女優』Bhumika(1976)、シェーカル・カプールShekhar Kapur(1945― )の『女盗賊プーラン』Bandit Queen(1994)、ラーム・ゴーパール・バルマーRam Gopal Varma(1962― )の『サティヤ』Satya(1998)、サンジャイ・リーラー・バンサーリーSanjay Leela Bhansali(1964― )の『ミモラ』Hum Dil De Chuke Sanam(1999)など。

(2)チェンナイを拠点とするタミル語映画では、マニ・ラトナムMani Ratnam(1956― )の『ロージャ』Roja(1992)、『ボンベイ』Bombay(1995)、サントーシュ・シバンSantosh Sivan(1964― )の『マッリの種』The Terrorist(1998)、K・S・ラビクマールRavikumar(1958― )の『ムトゥ 踊るマハラジャMuthu(1995)、シャンカルShankarの『ジーンズ 世界は2人のために』Jeans(1998)など。

(3)トリバンドラム(現、ティルバナンタプラム)を拠点とするマラヤーラム語映画では、アドゥール・ゴーパーラクリシュナンAdoor Gopalakrishnan(1941― )の『マン・オブ・ザ・ストーリー』Kathapurushan(1995)、ジャヤラージJayaraj(1960― )の『神の戯れ』Kaliyattam(1997)、ムラリ・ナイールMurali Nair(1966― )の『マラナ・シムハサナム』Marana Simhasanam(1999)など。

(4)ハイデラバードのテルグ語映画では、ダサリ・ナーラーヤナラーオDasari Narayana Rao(1947―2017)の『おーい、ラームランマ』Osey Ramulamma(1997)など。

(5)ベンガルールのカンナダ語映画では、ギリーシュ・カサラバッリGirish Kasaravalli(1950― )の『家』Mane(1989)など。

(6)コルカタのベンガル語映画では、ムリナール・セーンMrinal Sen(1923―2018)の『内なる世界 外なる世界』Antareen(1993)、ブッダデーブ・ダスグプタBuddhadeb Dasgupta(1944― )の『レスラー』Uttara(2000)、アパルナ・セーンAparna Sen(1945― )の『パロミタ』Paromitar Ek Din(1999)などがあげられる。

[登川直樹・松岡環]

インド映画の現状

1998年(平成10)、日本に突然上陸といった感じで公開された『ムトゥ 踊るマハラジャ』はタミル語映画で、インド娯楽映画の典型だが、『大地のうた』以来サタジット・ライの映画に馴れた日本人の目には、伝統的なミュージカル・タイプのインド映画が新鮮に映り、好評で迎えられた。貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)をベースにした、大地主の御者の活躍と恋の物語、といってしまえばそれまでだが、歌と踊りでつづられたエキゾチックなミュージカルとして関心を集めた。東京の封切で148日のロングランを記録、400万米ドルの興行収入をあげたとインドでは報じている。これをきっかけに日本では第二第三のインド・ミュージカル映画が封切られ、インド映画の海外収益に貢献したが、すでにアジアからアラブ、アフリカに広大な市場を有するインド映画界では、今後日本ばかりでなく韓国などでの市場開拓にも望みをかけている。

 『ムトゥ 踊るマハラジャ』に代表されるようなミュージカル娯楽映画に対して、いわゆるリアリズム映画はむしろ例外的だが、1990年代後半以降、サタジット・ライやシャーム・ベネガルなど限られた著名な監督の作品に混じって、大都市の映画館では新世代の若手監督の作品が上映される機会が増えてきた。たとえば、リトゥポルノ・ゴーシュRituparno Ghosh(1963―2013)の『クロスファイアー』Dahan(1997)や『館(やかた)の女主人』Bariwali(1999)、デーウ・ベネガルDev Benegal(1960― )の『スプリット・ワイド・オープン 褐色の町』Split Wide Open(1999)、ナーゲーシュ・ククヌールNagesh Kukunoor(1967― )の『ハイデラバード・ブルース』Hyderabad Blues(1997)などの作品である。また、2001年ベネチア国際映画祭でグランプリに選ばれたミーラー・ナイールMira Nair(1957― )の『モンスーン・ウェディング』Monsoon Wedding(2001)や、ディーパ・メータDeepa Mehta(1950― )の物議を醸した作品『炎の二人』Fire(1996)のように、海外をベースに活躍するインド人監督の作品も上映されている。

 外国映画の輸入は1995年以来緩和されたが、その影響でアメリカ映画の上陸が目だち始めた。といっても自国の映画が圧倒的に大衆に親しまれているため、外国映画のシェアはむしろ低い。インドでは外国映画の上映は字幕でなく台詞(せりふ)をヒンディー語などに吹き替える習慣だが、それでも外国語映画のヒットはまれで、興行収入ベストテンに入った洋画は1994年の『ジュラシック・パーク』1本のみという。

 統計的にみると、1990年は映画産業のピークであった。製作は948本、劇場数1万3181館、年間入場者数延べ47億9000万人を記録し、これを頂点として以後いずれの数字も下り坂であった。しかし1995年あたりから多少の好転もみられ、海外収益の増加などで安定しているという。かつてのスーパースター、アミターブ・バッチャンAmitabh Bachchan(1942― )も高齢となり、後継者はまだ見当たらないというが、若さで売る俳優は多い。男優ではシャー・ルク・カーンShah Rukh Khan(1965― )、アーミル・カーンAamir Khan(1965― )やフリティク・ローシャンHrithik Roshan(1974― )など、女優ではアイシュワリヤー・ラーイAishwarya Rai(1973― 、元ミス・ワールド)、タッブーTabu(1970/1971― )などに期待が集まっている。

 記録映画で注目されるのは、アーナンド・パトワルダンAnand Patwardhan(1950― )の活躍で、インドの現実や人々の意識を鋭くえぐった『神の名のもとに』In the Name of God(1992)などは、世界各地でも上映されて反響をよんだ。

[登川直樹・松岡環]

『サタジット・レイ著、森本素世子訳『わが映画インドに始まる――世界シネマへの旅』(1993・第三文明社)』『松岡環著『アジア・映画の都――香港-インド・ムービーロード』(1997・めこん)』『浜田努著『Cinemagic India――インド映画おもしろBOOK』(1998・アジア映画社)』『松岡環監修『インド映画娯楽玉手箱――インド映画完全ガイドブック』(2000・キネマ旬報社)』『周防正行著『インド待ち』(2001・集英社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「インド映画」の意味・わかりやすい解説

インド映画 (インドえいが)

インドの映画産業は全盛期にあった1930年代のハリウッドを思わせる繁栄ぶりで,第2次世界大戦中は,イギリスの参戦により戦争協力映画にしか生フィルムが供給されないという制約を受けたが,終戦およびそれに続く47年の独立以後は,衰えることを知らぬ成長を続け,71年以来世界最多となった製作本数は今なお増加の一途をたどっている(1971年に432本。80年には742本)。1万0813館に及ぶ映画館(うち常設館が6667で,あとは移動映画館)には毎週6500万人が詰めかけ(1980年度統計),映画産業はインドの十大産業の一つに数えられている。

 インド映画の歴史はファールケーD.G.Phalke(1870-1944)監督に始まるといわれる。ボンベイ(現,ムンバイー)で写真の焼付けを職業としていたファールケーは,サンスクリット学者で,絵画,演劇,そして奇術の愛好家でもあったが,1910年に《キリストの生涯》というアメリカ映画を見て,クリシュナ神の映画を作ることを思いたった。ボンベイの本屋で入手したイギリス映画のパイオニア,セシル・ヘプワース著《動く写真または映画撮影のABC》(世界最初の映画製作手引書)を片手に,全財産をまとめて11年にイギリスに渡ったファールケーは,映画製作用機材一式を購入して戻り,まず12年に叙事詩《マハーバーラタ》に題材をとった3700フィート(約1時間)の《ハリシュチャンドラ王》を製作。13年にボンベイのコロネーション・シネマで公開されたこの映画は,欧米の映画の風物,物語になじめなかったインドの大衆の支持を受けて大ヒット。ファールケーは同様にインドの古典や神話に材をとった映画を次々と製作し,18年には当初の夢だった企画《クリシュナの誕生》を自分の娘を主役にして撮り上げた。奇術師でもあり,トリック撮影を駆使して神話的世界を描いたファールケーはG.メリエスと比較されもする。また彼は,第2作の《バスマスールの伝説》(1913)において,インド映画で最初に女優を使った監督でもあった。映画はけがれたものと考えられて,娼婦でさえもかかわることをきらっていた時代である。その後,ボンベイ(リュミエール兄弟の〈シネマトグラフ〉が1896年に輸入され,初めて上映されたのもこの都市)を中心に,映画の製作はしだいに盛んになり,サイレント期の終りころには毎年20本ほどが作られるようになったが,まだ(1926年の時点では)外国映画(おもにアメリカ映画)が85%を占める状態だった。

 31年に初めてのトーキー作品,アールデーシル・M.イーラーニー監督《世界の美(アーラム・アラー)》がヒンディー語で製作された。複雑な言語構成をもつインドでは,サイレント時代には公用語の英語のほかに三つも四つもの言語による字幕が同時に出されていたが,トーキー時代になると国中でもっとも広範に理解される言語,ヒンディー語の映画が多くの観客を集めることになり,外国映画を圧倒した。31年に製作されたトーキー映画の内訳はヒンディー語映画22本,ベンガル語映画3本,タミル語映画とテルグ語映画が各1本。33年にはヒンディー語映画は74本,35年には154本を数えた。

 インド映画は草創期からインドの伝統演劇のスタイルを踏襲しているため,映画の中には〈ナバ・ラサ(九つの感情)〉を土台とするあらゆる娯楽的要素が含まれている。男女の愛,親子のきずな,男の友情などを中心テーマとして,それに活劇,笑い,涙を加え,さらに歌と踊りが入るミュージカルじたてというのがふつうの形式である。映画の挿入歌は,トーキー初期には出演者自身が歌っていたが,35年以降は専門の歌手が吹き替えるシステムが定着した。歌は映画の公開とともにラジオ放送によって流行歌となっていく。歌と踊りとロマンティシズムは,とくにヒンディー語映画においては決定的な要素で,最初のトーキー作品《世界の美》からして12曲の歌が含まれていたし,〈スター1人,歌6曲,踊り3景〉はヒンディー語映画の必要条件といわれる。歌と踊りがまったくないヒンディー語映画は,55年のクワジャ・アーマッド・アッバースの《ムンナ(迷子)》が最初とされる。インドのハリウッドと呼ばれるボンベイで製作される娯楽性の強いヒンディー語映画は,国内で最大のシェアを占有するばかりでなく,中近東,アフリカ,東南アジア諸国への輸出本数も多い。

 インド映画製作の中心地としては,西のボンベイのほかに東のカルカッタ(現,コルカタ),南のマドラス(現,チェンナイ)がある。カルカッタ郊外のハリウッドをもじって〈タリウッド〉と呼ばれるタリゴンジュを中心にして作られるベンガル語映画は,感傷的で哀愁を帯びた物語や詩(主としてこの地方出身の〈詩聖〉タゴールの作品)を題材にとることが多く,イギリス帰りのインド人の虚栄を風刺したディレン・ゴンダパッダエ監督の喜劇《イギリス帰り》(1921),プラモテシュチョンドロ・ボルア監督の〈社会的抗議〉を含んだ悲恋映画《デブダシュ》(1935),1947年の分割後に東パキスタンから西ベンガルに移住してきた難民を描いたニマイ・ゴーシュ監督《根こそぎ》(1951)など,娯楽映画の中に早くから社会派的な映画が生まれていたが,サタジット・レイ監督が《大地のうた》(1955)でデビューするといっそう〈芸術映画〉はベンガル語映画を特色づけることになる。《大地のうた》《大河のうた》(1956),《大樹のうた》(1959)の〈オプー(主人公の名まえ)三部作〉でサタジット・レイは国際的にインドを代表する映画作家となったが,《都会の人》(1952)でデビューした《反機械的》(1958)のリッティク・ゴトク,《夜明け》(1956)でデビューしたムリナール・セーンの2人も,レイと並ぶベンガル語映画の代表的映画作家である。セーンは,69年に政府の映画金融公庫(FFC)の援助により低額予算で,独立直後のエリート官僚を風刺した喜劇《ブバン・ソーム氏》をヒンディー語で撮ったが,この作品の成功が意欲的な映画作家に政府援助への道を広げることとなった。

 マドラスを中心として製作されるタミル語,テルグ語,マラヤーラム語などドラビダ系諸語による映画も,市場が南インドの4州(タミル・ナードゥ州,ケーララ州,アーンドラ・プラデーシュ州,カルナータカ州)に限られているにもかかわらず,しだいに勢力をのばし,マラヤーラム語などは製作本数ではヒンディー語を超えつつある。78年の製作本数は,マラヤーラム語123本,ヒンディー語122本,タミル語105本,テルグ語94本,カンナダ語54本,ベンガル語37本,グジャラート語32本,マラーティー語15本,オリヤー語15本,パンジャービー語8本,アッサム語6本,その他8本(計619本)である。

 テレビの普及率が低く,また識字率の低いインドでは,映画は最大の大衆娯楽であり,その影響の大きさゆえに政府はきびしい検閲制度を設け,主としてセックスシーンと暴力シーンを取り締まっている。このような検閲と,製作側の大衆の嗜好に対する固定観念から,一般の映画の基底に流れる思想は古い道徳観に裏打ちされている。神を信じ,目上を敬い,母なる女性をたいせつにし,信義に厚いという人間像が,映画の中では今なお理想のヒーロー像である。したがってストーリーはたいてい勧善懲悪のハッピーエンドで,観客に満足と安心を与えるよう配慮されている。また,宗教映画(とくにヒンドゥーの神々がきらびやかに登場する映画)が大衆の信仰心に支えられて数多く製作されている。

 このような娯楽映画に対し,インドが現実にかかえている社会問題(地主制,カースト制,貧困,官僚主義等々)に取り組む低額予算(制作費は娯楽映画の数十分の1程度)の映画もしだいに数多く作られるようになった。例えば,《芽ばえ》(1974),《ミュージカル女優》(1977)のシャーム・ベネガル,《苦いひとくち》(1980)のブッダデーブ・ダスグプタなどがその代表であり,《魔法つかいのおじいさん》(1979)のG.アラビンダンも含め〈新しいインド映画〉の担い手たちといえよう。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド映画」の意味・わかりやすい解説

インド映画
インドえいが

インドの映画産業は,1913年ダンディラジ・ゴビンド・ファルケ制作の『ラジャ・ハリシュチャンドラ』に始る。 31年インド映画がトーキー化すると,音楽と舞踊の要素が取入れられ,ヒンディー語やベンガル語などの異なった言語によって細分化された。 47年のインド独立後は,大スター,ラージ・カプール制作・監督の『放浪者』 (1951) に代表されるスペクタクル映画が主流を占める。しかし,55年ミュージカル的要素を排したサタジット・レイの『大地のうた』が国際的な成功を収めてからは,ムリナール・センやリッティック・ゴトクなど作家性の強い監督が現れ,インド映画も多様化しはじめた。現在インドは世界最大の映画制作国であり,年間約 800本の映画が制作され,国民の娯楽の王座を守っている。

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世界大百科事典(旧版)内のインド映画の言及

【インド】より

…書店は数が少ないうえに雑誌を置かないところが多いので,雑誌の販路としてはほとんど機能していない。 映画の普及と人気は大きい(インド映画)。人口1万人未満の田舎町にも常設館がある。…

※「インド映画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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