目次 自然 地形,地質 気候 植物 動物 住民 歴史 入植から六大植民地設立まで ゴールドラッシュ から連邦結成まで 独立から第2次大戦まで 冷戦構造の中での対アジア政策 ホイットラム政権の輝きと70年代 労働党の長期政権から保守政権へ 政治・外交 政治 外交,軍事 経済 アジア化への道 進むニュージーランド との自由貿易体制 農業,鉱業 製造業 日本との貿易 社会,教育 社会 教育 文化 文学 美術 映画 演劇 音楽 日本との関係 基本情報 正式名称 =オーストラリア連邦Commonwealth of Australia 面積 =769万2024km2 人口 (2010)=2234万人 首都 =キャンベラCanberra(日本との時差=+1時間) 主要言語 =英語 通貨 =オーストラリア・ドルAustralian Dollar
南太平洋にある世界最小の大陸オーストラリアを占める国。国名はラテン語のテラ・アウストラリスterra australis(南の大陸)に由来する。豪州とも略称する。イギリス連邦の一員。
自然 地形,地質 オーストラリア大陸 は,ユーラシア大陸などの六大陸の中で,面積(761万km2 )が最も小さく,平均高度(330m)が最も低く,標高200m未満の低地の占める割合(39%)が最も大きく,標高1000m以上の高地の占める割合(2%)が最も小さいという,著しく低平で起伏に乏しい特色をもっている。海岸線も単調で,その延長はタスマニア島を含めても3万6700kmで,日本のおよそ1.1倍にすぎない。最北端は南緯10°41′(ヨーク岬),最南端は南緯43°39′(タスマニア島サウス岬),最西端は東経113°09′(スティープ岬),最東端は東経153°39′(バイロン岬)である。
オーストラリア大陸は,西部台地,中央低地,東部高地の三つの大地形区に分けられ,ほぼ地質区分に対応している。西部台地は一般に著しく平たんで,局部的に残丘状の山地が見られるにすぎない。基盤はオーストラリア楯状地あるいは西部楯状地と呼ばれる先カンブリア層で,にその上に古生代以後の堆積層がのっている。先カンブリア層は,金属鉱物資源の宝庫で,金属鉱床区の分布は,上記の堆積層を除く先カンブリア層の分布にほぼ一致する。その代表はウェスタン・オーストラリア 州北西部の鉄鉱石鉱床であるが,マウント・アイザ およびブロークン・ヒル の非鉄金属鉱床もこの地帯の東端にあたる。中央低地(中央東部低地あるいは内陸低地とも呼ばれる)の北部は中生代の堆積層で,地下水利用で知られる大鑽井盆地 にあたる。南部は主として第三紀の堆積層であるが,一部は地質的には東部高地の古生層の延長である。東部高地は,タスマン地向斜に堆積した古生層が中生代以降,とくに第三紀に隆起して形成されたものである。西部台地との比較から高地と呼ばれ,また大分水嶺山脈 とほぼ一致するが,高地の名に値するのは第三紀末のコジアスコ変動により隆起したオーストラリア・アルプスなど一部のみで,その他は台地が断続的に連なったものにすぎない。西斜面はとくにゆるやかで,中央低地に連続する。東部高地の古生層にも西部台地の先カンブリア層に次いで金属鉱床の発達が見られ,またクイーンズランド 中部およびニュー・サウス・ウェールズ中部の堆積層には主として古生代末期(二畳紀)に形成されたボーエン炭層およびシドニー炭層が見られる。さらにビクトリア東部の第三紀層では褐炭の埋蔵が知られている。
気候 オーストラリア大陸は最も乾燥した大陸で,乾燥気候地域(砂漠,ステップ)の占める割合(57%)は六大陸中で最大である。降水量は海岸から内陸に向かって同心円状に減少する。年降水量が500mm以上の地域は国土の29%,800mm以上は11%にすぎない。さらに,水の利用の点からは,二つの制約を考慮しなければならない。第1は,変動度が内陸ほど大きく,年平均値の信頼度が低下することである。したがって干ばつおよび洪水がこの国の主要な災害である。第2は,降水量の多くが蒸発によって失われることである。年降水量に代えて,蒸発を考慮した作物生育期間の分布が,しばしば用いられる。これは,P-4E0 ・ 7 5 >0(ただしPは月降水量,Eは水面からの蒸発量,したがって4E0 ・ 7 5 は土壌からの蒸発量)の月,すなわち土壌からの蒸発量を上回る〈有効な〉降水量のある月が年間何ヵ月あるかを示すものである。一般に5ヵ月以上なら農業が可能,1~5ヵ月では粗放な牧畜のみ可能とされている。これに土壌条件などを加えると,農業の可能な地域はさらに限定される。
地形,降水,蒸発の条件から,恒常的に地表水の見られる地域は海岸地帯に限られ,内陸では間欠河川あるいは地下水のみが利用可能な水資源である。なお,内陸の湖のほとんどは,干上がった湖床(プラヤ )である。 執筆者:谷内 達
植物 オーストラリア大陸は,古く中生代白亜紀の末にアジア大陸と分かれ,長い間孤立してきた大陸なので,多くの固有種を生み出している。その筆頭はフトモモ科(オーストラリア産は45属1200種)のユーカリ 属(約500種)とマメ科(同大陸産だけで約110属1000種)に属するアカシア属(約600種,ワットルwattleともいう)である。その他,前者に属するブラッシノキ属(約30種)やネズミモドキ属,ヤマモガシ科(世界で61属1200種,その半数はオーストラリア産)のバンクシア属(50種),ドリアンドラ属(56種)およびワラタwaratah(テロペア属)なども特産の植物である。オーストラリアの植物分布は主として降水量に支配され,中央部の砂漠ではワジ沿いに葉のまばらな,やせた低木やイネ科ツキイゲ属の叢生が見られる。降水量の増加に伴って,砂漠はマルガmulga(アカシア属)やマレーmallee(丈の低いユーカリ属数種の総称)の灌木林,次いでサバンナへと移行し,ついにはマウンテン・アッシュmountain ashやカリーkarri(いずれもユーカリ属)などの巨木が優占する森林帯となる。また,低地の大河沿いには,うっそうとしたレッド・ガムred gum(ユーカリ属)の河辺林が成立する。大陸の南東部にある高山地帯では,特産のオーストラリアン・ヒースAustralian heath(エパクリス科,旧大陸のヒースはツツジ科),叢生草本類,スノー・ガムsnow gum(ユーカリ属)などのアルプス要素が出現する。他方,北東部~北部には,林床につる植物や着生植物がよく繁茂した亜熱帯林~熱帯雨林が出現する。また,西部の内陸ではスタート・デザート・ピーSturt's desert pea(クリアンツス属),紙細工のような花を咲かせるムギワラギク(ヘリクリスム属),カイザイク(アムモビウム属),ヒロハハナカンザシ (ハナカンザシ属,ローダンセまたはロダンテともいう)など乾燥に適応した一年草が自生している。1科1属1種の食虫植物フクロユキノシタ はオーストラリア南西端の湿地だけに野生する珍しい植物である。
動物 オーストラリアを代表する動物の筆頭は,世界唯一の,卵を生む哺乳類の単孔類(カモノハシとハリモグラ)および育児囊をもつ有袋類 である。すでに述べたように,この大陸は早くに隔離されたために,有袋類は新興の真獣類(有胎盤類)との激しい競争を経験することなく生き長らえられたものの子孫である。これらは海と空を除くすべての環境に適応放散し,多種にわたっている。現存する同大陸の哺乳類(約240種)の種数の半ばを有袋類が占めている。つまり,地下生活に適応したフクロモグラ,樹上性で滑空するフクロモモンガ やチビフクロモモンガ,ユーカリの葉だけを食物とするコアラ ,草食性で半砂漠にすむアカカンガルー ,林縁性のハイイロカンガルー ,食肉性のフクロオオカミ やフクロネコ ,アリを専門に食べるフクロアリクイ などさまざまなものが生息する。残りの半分は比較的新しく入って来た真獣類のネズミとコウモリの仲間,先住のアボリジニーが連れて来た野犬(ディンゴ ),および植民後に白人がヨーロッパなどから導入したウサギ類,キツネ,シカ,ラクダなどである。オウム科(オーストラリア産52種)の原産地である同大陸からは,733種の鳥類が記録されている。エミュー,ヒクイドリ,ツカツクリ,ワライカワセミ ,コトドリ,ニワシドリおよびツチスドリなどユニークな習性をもつものが多い。また,ミツスイ 科の種類が多いこと(16属69種)でも有名である。爬虫類(約400種)のうちでは,エリマキトカゲ,マツカサトカゲ,モロコトカゲ,ナガクビガメなどが珍しい。両生類(約70種)はすべてカエルの仲間(無尾類)で,サンショウウオ やイモリの仲間(有尾類)は生息しない。淡水魚(約180種)のうち,とくに有名なのは〈生きた化石〉ネオセラトダス (肺魚)である。無脊椎動物のうちで最も種類が多いのは昆虫類で約5万種。猛毒を持つジョウゴグモ,体長が3.6mもあるオオミミズなど珍奇な動物も少なくない。その他,クイーンズランド州 の州都ブリズベーンのちょうど北からニューギニアにまで延びる長さ2000kmの大サンゴ礁(グレート・バリア・リーフ )は,世界最長,最大のサンゴ礁であるが,色とりどりの多数の熱帯魚とともに美しい海の花園をつくり出している。 執筆者:白石 哲
住民 総人口約1800万のうち,先住民のアボリジニー は35万にすぎない(1996)。第2次大戦終了時までは圧倒的にイギリス系住民が多く,非イギリス系との比率は10対1であった。1947年に始まる大規模な移民受入れ計画の結果,89年までに約420万の移民,約50万の難民があったが,イタリア,ギリシア,西ドイツをはじめ,非イギリス系の移民が増加し,さらにインドシナ難民 の受入れなどで,アメリカ型の多民族社会に変貌,イギリス系・非イギリス系の比率は3対1となった。
先住民の言語は膠着語系で,28の語族,約260の部族語がさらにその倍の方言に分かれていたが,不明の部分も多く(オーストラリア諸語 ),また今日ではほとんど使われていない。したがっておもにイギリス都市部の方言を核として1830年ころに成立していたオーストラリア英語が国語となっている。英語の母音変化という英語史上の大事件の延長線上に出現したオーストラリア英語は,大陸全土にわたって均一性を保ち,方言はほとんどなく,野卑と洗練の相違だけが見られる。しかもたいていのオーストラリア人が時と場所に応じて双方を使い分ける傾向がある。第2次大戦以降,イギリス本国の英語に対する劣等意識が克服され,近年では学校教育でもクイーンズ・イングリッシュ志向は排除され,オーストラリア英語が国語として確立した。
全国民の74%がキリスト教徒で,信仰をもつと表明する者の99%を占める。そのうちアングリカン・チャーチ24%,カトリック27%,プロテスタント20%で,ギリシアおよび東ヨーロッパ系移民の急増で正教会は3%を占める。その他,約15万人ともいわれるイスラム,約5万人のユダヤ教徒をはじめ,仏教徒も少数ながら存在する。1960年代から無信仰を表明する者が増え,今日では全国民の13%に達する(1991)。これは60年代以前と比べて40倍以上の増加である。 執筆者:越智 道雄
歴史 入植から六大植民地設立まで 約4万年前,海面が今日より90m以上低かったころ,アボリジニー は小舟で東南アジアからこの島大陸に渡来し,狩猟採集生活を営んでいた。15世紀初頭,中国人の船隊が大陸北岸に上陸したのを皮切りに,17世紀初めから後半にかけてタスマンほかの海洋探検家による局地的上陸が行われた。1770年4月28日のJ.クックのシドニー郊外ボタニー湾上陸,同年8月のポゼション島での大陸東部イギリス領宣言(全大陸のイギリス領宣言は1829年)によって,先住民の大陸占拠は終りを告げた。
1788年1月18日,フィリップArthur Phillipの第1次船団(11隻。総員1473名。そのうち囚人778名,うち女囚192名。子ども12名)がボタニー湾に到着,8日後の26日,よりよい入植地を数マイル北にあるポート・ジャクソン湾内のシドニー・コーブ に見いだし,入植を開始した(1月26日は現在オーストラリア・デーと呼ばれる祝日になっている)。入植のおもな理由は,アメリカ植民地の独立(1776)で流刑入植地を失ったためであった。当時の刑法は極端に厳しく,ハンカチを盗んで流刑7年,1シリング以上の盗品をもらったかどで14年というものであった。このニュー・サウス・ウェールズ植民地は,1809年以後5代総督マックオーリー の統治によって軌道に乗った。入植はほかにバン・ディーメンズ・ランド(のちのタスマニア)のホバート(1804),のちのクイーンズランドのブリズベーン(1824),ウェスタン・オーストラリアのスワン・リバー(のちのパース。1829),ビクトリアのポート・フィリップ(のちのメルボルン。1835),サウス・オーストラリアのアデレード(1836)に順次行われた。またフリンダーズMatthew Flindersの大陸一周航海(1802-03),そしてブラックスランドGregory Blaxlandらによるシドニー西方のブルー山脈越え(1813)をはじめとする内陸探検ラッシュによって,広大な農牧地発見が相次いだ。一方,有力入植者マッカーサーJohn Macarthurが19世紀初めスペイン原産メリノー種羊を大陸の風土に合うよう改良し,羊毛産業の基礎を築いた。
初期のニュー・サウス・ウェールズ入植地ではエマンシピスト Emancipist(満期出獄した元流刑囚)とエクスクルージョニストExclusionistの対立が目だった。1840年代に入って元流刑囚とカレンシー・ラッドcurrency lad(イギリス本国生れをスターリングsterlingと呼んだのに対して,植民地生れをこう呼んだ。流刑囚の子弟が多い)の数が自由移民を上回ると,この対立はスクオッター (大牧場主)と小農場主および毛刈職人などの移動労働者との対立に転化し,51年に始まるゴールドラッシュによる人口急増でいっそう拍車がかかった。イギリス本国はスクオッターの土地占有を抑えるべく,初期には株式組織の土地開発会社,61年には新たな土地政策によってセレクターselectorと呼ばれる小農場主を創出した。
スクオッターによる植民地内のイギリス国有地解放要求が強まるにつれて,1840年代後半にはイギリス本国から大幅な自治権を得て土地を自由に手に入れたいという欲求が高まった。1823年ニュー・サウス・ウェールズに制限つき自治が認められて以来,59年までに他の4植民地も大幅な自治権を獲得した(ウェスタン・オーストラリアのみ1890年)。各植民地議会はスクオッターに牛耳られていたが,各植民地間関税,中国人移民問題など,相互に調整すべき問題を討議すべく,63年以来各植民地の首相による会議がもたれ,1901年の対英独立に向かう実務母体となった。
1838年の人民憲章発布を頂点として,イギリス本国に人道主義が広まり,流刑反対の気運が高まった。同時に刑法が緩められた分だけ,従来よりは流刑囚の質も悪化した。オーストラリアの羊毛産業が隆盛を極め(1850年の対英羊毛輸出はイギリスが輸入した全羊毛の43%に達した),熟練した農村労働者を必要としたので(流刑囚は都市貧民が多かった),40年には流刑制廃止が実現した。ただし重罪人用のタスマニアほかの島嶼流刑地では53年,労働力不足のウェスタン・オーストラリアでは68年に廃止された。流刑制の下に大陸に送られた囚人は16万~17万といわれる。
ゴールドラッシュから連邦結成まで 1851年から61年ころまで続いた第1次ゴールドラッシュ (第2次は1890年代ウェスタン・オーストラリアで)は,その総産金額(2億1100万ドル)よりも,植民地総人口が1850年の40万5000から60年に114万に,さらに70年までにもう50万増えたことに意義があった。1848年のカリフォルニアのゴールドラッシュは,ほとんど国家体制を確立していたアメリカにはそれほど影響しなかったが,オーストラリアのそれは比較にならないほど影響が大きかった。経済面以外での影響には,明がユリーカ砦の反乱 に象徴されるアメリカ式共和主義と反英主義の高揚であり,暗が金鉱地への中国人鉱夫大量流入を契機とする中国人排斥運動(金鉱地では中国人鉱夫の方がはるかに多い所が続出し,同胞人女性を伴わない点でも中国人鉱夫は警戒された)であった。暗にあたる後者は,1855年のビクトリア植民地での中国人移民制限法決定以後,各植民地間首相会議の重要議題となり続け,ついに1901年のオーストラリア連邦結成,白豪主義政策の国是化(実務的には移民制限法で処理)を惹起した。明にあたる前者は,その後の歴史潮流では逆に陰にまわり,連邦結成の契機としてははるかに弱かった。ただオーストラリアの伝統的辺境エートスであるメートシップ mateshipを強化し,労働運動に結びつけた功績は大きい。
初期の労働運動は,熟練工組合による8時間労働制の確保(1856)が頂点となる。ゴールドラッシュの後半にいたって人口急増による経済不況が起こり,賃金カットと労働時間延長が常態化したことへの反動として,争議が頻発した。とくにナショナリズム の高揚,羊毛価格の下落と干ばつによる不況というまったく異質な現象に分裂した1890年代には,クローズド・ショップ制を要求する海員スト,毛刈職人組合ストなどの四大争議が勃発し,結果的に労資調停仲裁制度の設立(1904)をみた。
大陸中央部に馬蹄形の大内海が存在するという幻想が,内陸探検の大きな動機となっていたが,1860-62年のバーク=ウィルズ隊(R.バーク ),61-62年のスチュアートJohn Stuart隊による〈大オーストラリア探検レース〉の結果,中央部は最も乾燥した荒野と判明し,アメリカ開拓の西進運動に似たオーストラリア開拓の求心運動は挫折した。しかし72年アデレード~ダーウィン間にスチュアート隊の探検ルート沿いに大陸縦断電信線が敷設され,さらにダーウィンからジャワ島へ連結され,ジャワ島を経てイギリスや世界各国との交信が可能となった。イギリスから2万2400km離れ,快速蒸気船でも46日かかっていた〈距離の暴虐tirany of distance〉の克服であった。なおスチュアート隊の探検ルートは,現在ハイウェーとなっている。一方,鉄道建設は早くも1854年にメルボルンで始まったが,各植民地で軌間が異なるなど問題を残したまま,やっと1917年に東西横断鉄道が完成した(軌間統一は1970年)。南北縦貫鉄道は1886年に着工されたものの,まだ全通していない。
1879年には,ニコルEugene Nicolleが開発し,後継者たちが完成した食肉冷凍装置を備えた最初の船がロンドンに肉を運び,風土に適したブラーマン牛の導入もあって,食肉は羊毛に次いで中心的な輸出商品になった。またファラーWilliam Farrerがこの大陸に適した,銹病と干ばつに強い小麦の品種改良に着手し,1902年に新種を開発,新独立国家の国威発揚の象徴として〈連邦小麦〉と名づけた。1879年のシドニー国際博を皮切りに,90年代まで国内各都市で国際博が開かれ,ナショナリズムの高揚を裏づけた。1890年には兼松商店がシドニーに支店を開設,日豪通商の嚆矢となった。
前述したスクオッターとセレクターおよび移動労働者の対立は,1890年アメリカ国勢調査局がフロンティア(辺境)の消滅を発表したのと時期を同じくして消滅した。すべての土地が台帳に登録された結果,対立も終息に向かったのである。しかしそれまでは,開拓初期から官憲に抵抗してきた伝統的な無法者ブッシュレンジャーbushrangerが後者のグループから輩出し,ネッド・ケリー の逮捕・処刑(1880)によって対立はクライマックスを迎えた。1891,94年の毛刈職人組合の大争議もスクオッターへの抵抗であり(以後スクオッターの斜陽化が始まる),争議の場にはユリーカ砦の反乱の南十字星旗がひるがえった。以後,南十字星旗とネッド・ケリーは反英主義のシンボルとなった。1890年代は最初の文化興隆期であったが,ローソン ,ジョセフ・ファーフィーらの作家が踏まえたのもこのような気風であった。
1899年から1902年にかけて,オーストラリアは南アフリカのボーア戦争 にイギリス側に立って義勇軍を派遣したが,これは初めての海外参戦であった。
独立から第2次大戦まで 1901年各植民地が連邦を結成してイギリスの自治領となってのち,労働党(1891結成)の支持もとりつけたりリベラルな保守派政治家ディーキン の3度にわたる内閣によって,保護貿易主義と白豪主義 政策の下に国家の礎が築かれていった。首都はやっと1927年にメルボルンからキャンベラに移った。
第1次大戦勃発をめぐるオーストラリアの熱狂は,前述ユリーカ砦の反乱に象徴される反英主義の底流を色あせたものにし,〈共和国に向かうのは健全だが,それだとイギリスの庇護を失ってアジアの強国の脅威にもろにさらされる。やはりイギリスとの絆を太くするしかない〉というこの国の本質的な保守性を際だたせた。イギリス防衛の名の下に,総人口500万未満のうち40万の壮丁が中東および欧州戦線に赴き,8万が戦死した。イギリス軍参謀本部と時の海相W.チャーチルの無謀な作戦によって,ANZAC (アンザツク)(オーストラリア・ニュージーランド連合軍)が戦死1万,負傷2万4000の被害を出した,ダーダネルス海峡内のガリポリ湾での戦闘(1915年4~12月)は,オーストラリア,ニュージーランド両国内で聖戦視され,あらゆる悪しき保守性の結節点となっている。1926年イギリスは自治領の内政・外交の自治権を認め,31年ウェストミンスター憲章 として法制化したが,カナダとアイルランド自由国は即座にそれを批准したのに,オーストラリアは42年,ニュージーランドは47年まで批准しなかった。対英依存はこの点にも強く現れている。
第2次大戦ではオーストラリアの掲げる白豪主義に反対し続けてきたアジアの強国日本と戦う羽目になったが,総人口743万中,ヨーロッパ,中東,東南アジア全域での死者・行方不明者3万4000弱,負傷者4万弱の被害ですんだ。また小規模の空襲を除いて,日本軍による本土侵攻はなかった。1941年労働党内閣首相カーティンJohn Curtinはイギリスとの絆を断って対米依存に踏み切り,翌年のシンガポール失陥後,チャーチル首相の反対を押し切ってヨーロッパ戦線からビルマ戦線へ転送中の自国軍を本国に回収した。42年太平洋方面連合軍最高司令官マッカーサーはマニラを退去し,メルボルンにGHQを移した。この戦争は結果的にオーストラリア人をアジアに向かって強く目覚めさせることになった。
冷戦構造の中での対アジア政策 1945年に北の隣国インドネシアで発生したオランダ支配廃絶を目ざす民族独立戦争が契機となって,白豪主義による国家存続政策はゆらぎ始めた。またイギリス系や西ヨーロッパ系以外に東ヨーロッパ系移民が増え,小型の多民族社会に移行し始めた。その東ヨーロッパの社会主義化,そして社会主義中国の誕生によって,国民の恐怖の対象はアジアから共産主義へと徐々にすり変えられていった。しかし交戦国日本への恐怖は潜在し続け,対日講和条約には連合国中で最後まで反対した。50年に勃発した朝鮮戦争は,アジアと共産主義という二大恐怖が合体したものと受けとられ,オーストラリアは直ちに派兵した。戦死・行方不明者281名を出す一方,羊毛の特需で牧羊業者は大もうけした。
このような国内状況を巧みに外交政策と結びつけ,内心は対英依存,実質は対米依存の上に確実に国家を存続させたいという国民多数の心情を基に,1949年から66年まで長期政権を築いたのが後期自由党(1944結成)のメンジーズ であった。アメリカ,ニュージーランドとのANZUS(アンザス)条約 (1951調印),東南アジア条約機構 への加盟(1955)によって反共政策を確立し,同時にアジアが共産化するのは生活水準の低さに起因するとの見地から,イギリス連邦諸国をまとめ,のちには日本,アメリカその他の国々もまじえ,東南アジア諸国への技術援助を軸としたコロンボ・プラン を主導した。しかし国内では,共産党非合法化を目的とする憲法修正が1951年の国民投票の結果否決された。56年のメルボルン・オリンピックは,南半球最初のものとしてメンジーズ政権の最盛期を彩った。
60年代に入ると,イギリスのEC加盟(実現は1973年)がオーストラリア経済に及ぼす影響が懸念され始めた。しかし同時に,鉄,ボーキサイト,ウランなどの卑金属採掘ブームが起こり,日本,アメリカが最大の顧客となった。国民の生活水準は飛躍的に上がり,70年代の労働党による福祉政策の物質的基盤が築かれ始めた。66年に通貨をポンド制からオーストラリア・ドルの十進法に変更した。65年のベトナム派兵は国内に反戦運動を引き起こし,アメリカから入ってきたカウンターカルチャー (対抗文化)的雰囲気を助長することになった。
ホイットラム政権の輝きと70年代 前述のように60年代には東ヨーロッパ,中東からの移民,難民が増え,例えばメルボルンがアテネ,ニューヨークに次ぐ世界第3位のギリシア人人口を擁するなど,オーストラリアは多民族社会化して,古い体制を打破する荒ごなしが行われた。1967年には国民投票による憲法修正で,アボリジニーに公民権が与えられた。ベトナムへの軍事介入削減,文化助成の強化などリベラルな政策を打ち出したゴートンJohn Gorton内閣が,後に首相となるフレーザーJohn Malcolm Fraser国防相の離反によって1971年に挫折すると,保守の退潮はとどめようもなく,72年12月に23年ぶりにホイットラム の労働党政権が誕生した。新内閣は最初の1ヵ月間に中国承認(翌年には貿易協定を締結),ベトナム介入撤廃を実現した。1950年代半ばから先住民の間に起こっていた土地権要求運動に,ホイットラムは歴代首相として初めて実現への手を打った(調整や実務化に手間どり,実現はフレーザー政権下の1977年になった)。また国連信託統治領ニューギニアとオーストラリア領パプアを1975年にパプア・ニューギニア として独立に導き,自国を植民地主義から脱却させた。健康保険制度(メディバンク・システム)を中核とする社会福祉制度の確立や,大学授業料の廃止を含む教育予算の拡大も行った。1890年代の第1次文化興隆期の偏狭なナショナリズムを超克した新しい独自の文化創出を目的とする大幅な文化助成政策は,十分に浸透したカウンターカルチャーのオーストラリア文化界への刺激もあって,第2次文化興隆期の基を開いた。しかしこの高福祉政治は,1974年の国際的な石油危機とともに結果的にインフレと失業を増大させ,75年10月,野党が多数を占める上院が予算案通過を阻んだ。ホイットラムが上院半数改選で対抗すると,11月11日,カーJohn Kerr総督は憲法第64条に基づいて,〈1975年の憲法危機〉として歴史に残る首相解任,議会解散を断行した。国論沸騰する中で行われた総選挙では,フレーザーの率いる自由党・地方党連合が史上最高得票で政権党となった。
フレーザーは新しいタイプの強力な現実主義的保守政治家で,メンジーズのようにイギリス王室への感傷がなく,社会をエリート層中心に見はするものの,社会全体を強力な行政機構の統括下に置き,その上で一般大衆の政府への過大な要求を巧みに拒み,1960-70年代に高まった民衆の政府への期待度を下げていく形でインフレの鎮静にある程度成功し,以後2度の選挙にも勝ち抜いた。外交面では,旧ポルトガル領ティモール問題で前政権が対決していたインドネシアと融和政策をとる一方,アパルトヘイトの南ア共和国とはスポーツ・文化面の交流も断ち,ジンバブウェ独立ではイギリス連邦内で率先してムガベ政権を支持するなど,対米一辺倒でない政策を数多く打ち出した。ただソ連の原子力潜水艦によるインド洋制圧を恐れての強烈なソ連脅威論が保守の地金を露呈した。国内的には,インドシナ難民の大量受入れ(1988年現在10万4000人。アメリカに次いで2位),先住民土地権の実務化,各民族集団の母国語で放送する〈多文化テレビ〉発足など,前政権以上にリベラルな面で実績をあげた。しかし〈1975年の憲法危機〉を経ての政権成立という,後ろ暗い事情,さらにフレーザーの傲岸さなどが新聞関係者の不評を買い続けた上に,79年の石油値上げ以降の国際経済不況に対処するため,81年ころから従来の引締策を棄て国内経済刺激政策に転じた結果,再び年間インフレ率,次いで失業率ともに10%を超えるという最悪の事態に逆戻りし,83年3月,4度目の総選挙に敗れ,メンジーズ政権に次いで2番目に長い政権の幕を閉じた。
労働党の長期政権から保守政権へ 代わって登場した労働党政権のホークRobert Hawke首相は,長く日本の総評にあたるオーストラリア労働組合評議会(ACTU)の議長を務めてきた大衆的カリスマ性の強いユダヤ系の政治家で,党議員団リーダーになってわずか1ヵ月余りで首相の座に就いた。しかし前政権が残した10億オーストラリア・ドルの財政赤字を抱え,オーストラリア・ドルの10%切下げ,政・労・資そして消費者各代表による〈経済サミット〉開催など,経済立直しに追われ,理想主義的だったホイットラム政権の轍を踏まないためにも,むしろ前保守政権より保守的な側面すら打ち出した。ホークは産業構造の改革,国際化路線を進め,84年,87年,90年の総選挙を勝ち抜き,労働党としては最長不倒政権を維持し,88年にはこの国の〈入植200年〉を祝った。しかし,91年12月の労働党党首選挙でホークはキーティングPaul Keating元蔵相に敗れ,首相の座もキーティングに譲った。93年3月の総選挙でも労働党は勝利し,キーティング政権は経済だけでなく政治においても,オーストラリアのアジア指向を推進した。96年3月の総選挙では,労働党は自由党と国民党との野党連合に大敗し,ハワードJohn Howard自由党党首を首相に13年ぶりの保守政権が誕生した。長期政権にあきた国民に嫌気されたのが労働党の敗因とみられている。
政治・外交 政治 オーストラリアの国体は,カナダと同じくイギリス国王を頂く点では立憲君主制であるが,独立国としての機能はアメリカ式の共和制に近く,過渡的なものといえる。イギリス国王は日本の天皇に近い象徴的存在のはずであったが,1975年に上・下両院の対立で予算案が成立をみず,労働党政府が維持できなくなりかけたとき,国王の名代である総督が憲法に基づき議会を解散させ,野党である自由党と地方党に選挙管理内閣を組織させ,保守政権への道を開いた。このため過渡的国体の憲法には〈危険領域〉の存在することが明らかになり,大いに論議を呼んだ。
労働党は91年の党大会で共和制移行を決議し,キーティング労働党政権は,建国100年の西暦2001年までの移行に向けての具体的構想を発表した。世論調査でも共和制支持の声は強い。
議会は下院(衆議院)と上院(参議院)の二院制である。下院の定数は148名,任期は3年で,人口数を基準とした小選挙区制をとる。上院の定数は各州12名,2特別地域各2名の計76名,任期は6年(特別地域からの議員は3年)で,3年ごとに半数が改選される。18歳以上に選挙権があり,国政レベルの選挙の場合,正当な理由なく棄権すると罰金を課せられる。投票は複雑な優先順位投票制によるため,接戦の選挙区では結果の判明に数日を要することもある。政党は自由党,労働党,国民党(1982年に地方党が改称)の3党が中心で,伝統的に自由・国民両党は連合し,連立政権をつくる。議席のない政党は共産党をはじめ常に数党ある。
政府は議会に対して責任を負う,いわゆるイギリス型の責任政府である。下院で過半数を占めた政党が組閣する。州も一部を除き,議会は二院制である。州の行政機能は教育,運輸,連邦法・州法の運用,保険,農業などに限られる。司法の中心は高等法院で,首席裁判官1名と6名の裁判官からなる(1977年までは終身任命,以後70歳停年)。下級の裁判機能は,一部を除いて,連邦政府の委嘱によって各州の裁判所が代行する。
外交,軍事 オーストラリアはニュージーランドとともに,カナダ,アイルランド,南ア共和国などに比べて,旧イギリス領植民地の中では自主独立の気風が乏しく,対英依存が強かった。その典型的な事実は,先述した1931年のウェストミンスター憲章を42年まで批准しなかったことや,40年ワシントンに最初の大使館を開設するまで,イギリスの各国大使館に代表してもらっていたことに見られる。この極端な対英依存が破られたのは,第2次大戦で日本軍の進攻を食いとめられなかったイギリスに代わって,アメリカの庇護を必要としたことに端を発する。戦後はSEATOに加盟し,ANZUS条約 を結ぶなど,アメリカとの軍事的結びつきを強め,ベトナムへの派兵も行った。貿易面では,70年代に入って日本が最大の通商相手国となった。一方,73年にECに加盟したイギリスおよび近隣の旧イギリス領植民地との絆は,いわゆる五ヵ国協定(オーストラリア,ニュージーランド,マレーシア,シンガポール,イギリス)に生きており,この協定に基づきオーストラリアはマレーシアに空軍の小部隊を常駐させている。対外援助では,前述したコロンボ・プランを1950年に実現させ,75年のパプア・ニューギニアの独立後は対外援助の半分以上がアジア,太平洋地域の新興国家に向けられている。援助はアドバイザー派遣,プロジェクト助成,発展途上国からの学生その他の受入れなどの形で行われている。1972年に中国を承認し,以後日本,中国,韓国だけに豪日,豪中および豪韓交流基金事務所を設立して3国との交流に力をいれている。
三軍兵力は陸軍2万6000人,海軍1万5000人,空軍1万7000人(1996)。1972年労働党政権になって,それまでの徴兵制が廃止され,志願制となった。
経済 オーストラリアは長い間,羊毛を中心とする農・牧畜業と資本・工業製品をイギリスに依存する植民地型経済がその特徴であったが,第2次世界大戦後,英米資本を中心に工業化が積極的に推進された。しかし,その究極の狙いは自らの力による自国防衛を目的としており,その意味で国内製造業保護による育成と,労働力確保のための安定した雇用制度の維持になった。こうした事情が,輸入工業製品に対するバイロー制度(国内で製造されていない品目のみを対象に関税を減免する制度)と高関税制度の併用となった。同時に国内では労働者の既得権確保を目指す強い労働組合を生み出し,世界でも有数の高賃金,高福祉国家をつくりあげた。1960年代,世界は高度経済成長の時代を迎え,一次資源に対する需要が一気に高まり,それを契機に鉄鉱石,石油,天然ガス,ニッケル,ボーキサイト,ウラニウム鉱脈などの企業化が相次ぎ,オーストラリアは未曾有の資源開発ブームを迎えることとなった。1964/65年度には鉱物資源の輸出総額に占める比率はわずか5.2%に過ぎなかったのが,75/76年度は40.6%に達する勢いであった。やがて,高度経済成長を遂げる日本が英,米とならび主要貿易相手国として台頭,オーストラリアの経済基盤は磐石になったようにさえ思われた。
しかし,70年代に襲った2次にわたる石油危機と通貨危機は,インフレによる賃金の大幅上昇,失業者の急増,オーストラリア・ドルの乱高下を招き,農産物・エネルギー資源の輸出に依存するオーストラリア経済の脆弱性を明らかにした。80年代に入ると,その脆弱性はいっそう鮮明となり,やがて経済悪化の悪循環に陥り構造的危機状況を迎える。アメリカ,ヨーロッパに端を発した農産物の生産過剰体制が国際市況における価格暴落を誘発したのである。同時に先進国で進行したハイテク産業への転換にも立ち遅れ,オーストラリアは世界有数の豊かな国からバナナ共和国(失政により第三途上国に斜陽化すること)に転落する最初の国だと揶揄されるまでになった。こうした構造的危機状態に直面し,政府は連邦政府始まって以来の歴史的転換を行う。それは,社会,政治・経済に留まらず,文化,教育面に至るまでの脱アングロ・サクソン化であった。それは経済システムの開放を世界に宣言するとともに,アジア・太平洋国家の一員を目指す,新国家宣言とも言うべきものであった。以来,政府は紀元2000年をめどに共和制への移行を明らかにするとともに,自由貿易体制を主導すべく,ウルグアイ・ラウンド の最も熱心な推進国となった。
以下,80年代以降に象徴されるオーストラリア経済の特徴を概観しておく。
アジア化への道 一次産品を輸出し,自動車,輸送機器,工作機械など工業製品を輸入する基本パターンに大幅な変化はないが,労使関係の改革,保護貿易の撤廃などにより製造業分野での競争力が飛躍的に高まっている。95/96年度統計では製造業製品に占める輸出比率は25%に達している。アジアへは天然資源の他,建築用資材,運搬・通信機器などの製品輸出も増えており,同時に直接投資も進んでいる。地域別輸出先をみると,アジアのみで55%に達している。さらにニュージーランド向け輸出(7.3%)も急増しており,60~70年代の貿易構造とは様変りの様相を示している。
進むニュージーランドとの自由貿易体制 同じような建国の歴史を持つ隣国ニュージーランドとは経済緊密化協定(CER)を結んでおり,90年以降,商品貿易における関税の撤廃,輸入クオータ制の廃止,さらにはサービス産業,労働力の移動の自由拡大策など,さまざまな取組みが実行に移され,事実上両国の間で自由貿易地域が成立したと言ってよい。さらに両国は95年以降,アジア市場への傾斜を深めるという共通の認識のもと,アセアン自由貿易地域(AFTA)との連携を進めており,今後,さらに広域化したアジアとの経済関係強化が進められるものとみられる。
農業,鉱業 農業,鉱業がオーストラリア経済を支える重要な基幹産業であることに変りはないが,長期的には産業構造の変化・多様化とともに凋落傾向にある。GDPに占める割合は農業3%,鉱業4%に過ぎない。農業および関連サービス業に従事する労働力は60年以降横ばいで40万人前後にとどまっている。羊毛,牛肉はもちろんだが,小麦,大麦,サトウキビ,トウモロコシ,ブドウ酒が主要な輸出品である。国土の6%が農地,58%が牧草地,14%が森林となっている。主要な天然資源としてはボーキサイト,鉄鉱石,石炭,銅,錫,金・銀,鉛,亜鉛,天然ガス,ダイヤモンドなど多岐に及ぶ。近年国内での加工度が高まり付加価値をつけることに成功しつつあり,製造業分野への貢献が顕著である。
製造業 新技術の移転や効率的なマネージメントを導入すべく,積極的な外資導入政策が行われている。その功もあり,アメリカ,イギリス,日本からの投資が年によって変動はあるものの長期的には順調に伸びてきている。GDPに占める割合は15%で,製造業に従事する雇用者数は全労働力の13%に及ぶ。過去10年間の業種別成長度を見ると,手厚い保護を受けてきた衣料品を中心とする繊維産業,履き物産業の衰退が著しいものの,その他は順調に伸び続けている。
日本との貿易 依然として日本は最大の輸出国であるが,相対的比重はかつての総貿易額の30%近くから21%台へと落ち着いてきている。オーストラリア政府がアジアを中心に市場の多様化をはかった成果といえる。96年の日本からの輸出は74億ドルで(輸入は142億ドル),依然として日本の大幅入超が続いている。 執筆者:堀 武昭
社会,教育 社会 大規模農業でないと成立しないやせた土地のゆえに,この国は早くから農村に無産労働者が大量に出現し,好況時には人口の少なさに起因する労働力不足,不況時には労働市場の狭さによる失業,という両極を揺れ動く過程で労働組合が強力になった。1904年には世界最初の労働党政権が成立した。労資調停制度と社会保障制度が早くから発達し,これによって経済問題を政治問題から切り離して労働者階層の資本主義体制への取込みが完了していた。一方,弱い経済機構を外資から守るため,アメリカよりも伝統的に中央政府の主導性が強く,強力な官僚体制が発達した。また労働者側は,せっかく手に入れた高賃金を維持すべく,アジアから低賃金労働者が流入することに強く反対し,白豪主義は革新的なはずの労働党のまことに前近代的な中心綱領になった。
しかし特に第2次大戦後,膨大なアジア人口の脅威に対抗すべく行われた大規模な計画移民制の実施,難民の受入れ,先住民の雇用促進などによって,労働者階層の最下層部が拡大し,この階層の分裂が進んだ。さらに戦後の経済活動の飛躍的拡大と社会的平等の貫徹傾向に即応すべく,官僚機構や生産販売機構の多面的合理化が社会全体で急速に進んで,戦前の小規模な自営農,商人を中心とする中産階層に,官庁,民間企業に働く新しい中流無産層つまりホワイトカラーが大挙して加わり,この階層でも分裂が進行した。輸出品としては戦前は農産物,1960年からはそれに鉱物資源が加わったが,製造業の大規模な発達が見られなかったため製品を輸出する力が弱く,投資や婚姻で結びついた大牧場主と事業家を中核とする上流階層はかなり固定的である(1972年の調査では人口の11%が国富の40%を保持していた)。近年はホワイトカラーの中にマネージャーとして上流階層の資産運用を代行する者が出てきた。安定した経済成長が続き,60年代の最盛期にいたると,階級(クラス)よりも地位(ステータス)が重視され始めた。この間に中国系,東ヨーロッパ系などの少数民族集団と女性集団も特定の職業の占有を進め,70年代に入ると,先住民は政府補助金を獲得して経済活動からの疎外をある程度克服した。すべての移民にイギリス化を要求する傾向が弱まり,逆に移民が母国の文化に接する機会を与えるべく,〈エスニック・ラジオ〉や〈多文化テレビ〉が発足した(多文化主義)。また高福祉政策によって平均寿命がのびた老人たち(1995年において65歳以上の老人は全人口の11.9%の215万人)は,自らのサブカルチャーを形成し始めた。
広大な国土に異常に低い人口密度のゆえに,官僚体制が早くから社会全体に浸透し,特に第2次大戦後は社会的不平等の是正に力を発揮してきたが,その一方で非人間的な官僚支配が強まって新しいタイプの不平等が生まれた。60年代にアメリカを中心に高度資本主義国に広がったカウンターカルチャーが,オーストラリアではおもに官僚制攻撃に向けられた。また経済への政府介入が増大するにつれて,経済問題の政治からの切離しに労働者が不満をつのらせ,政策決定への参加を求める傾向が出ている。
労働組合は企業の枠をこえて職能別に横断的に組織されているため,日本の春闘のような争議時期の統一がとれず,常時どこかの組合がスト中で,社会問題化している。しかし労働調停仲裁委員会(1904設立)が強力な権限をもっており(例えば委員会裁定が州法に抵触した場合は後者が無効となる),2州以上にわたる争議の処理にあたる。労働裁判所は委員会裁定の施行その他に関与する。しかし争議の大半は当事者間で解決されてきている。労働組合の全国組織の最大のものはオーストラリア労働組合評議会(ACTU。1927設立)で,全労働者の約1/3,労組加入者の約3/4を組織している。ACTUは国際自由労連加盟で,ホーク首相がその議長だったように労働党支持である。
社会保障への国民の意識がいかに高いかは,老齢年金の発足が早い州では1901年であったこと,第2次大戦の最中に児童手当,寡婦年金などが発足した点にもうかがえる。社会保障予算は連邦予算の約25%を占めている。
教育 オーストラリアの教育は,開拓期に実際の仕事に役立つ専門家の不足を解決するため,実学教育中心で発足した。ただでさえ文化の厚みのない新世界国家でのこの基調は,時代が下るにつれて文化の不毛をもたらす元凶となったが,1969年にいたってもなお政府は大学の拡張を抑え,専門学校重視の政策を打ち出した。
小学校は6~12歳(タスマニアは13歳)で,その前段階に幼稚園などのプレ・スクールがある。中学校は15歳(タスマニアは16歳)までで,ここまでが義務教育である。共学の普通科が多いが,中学の段階から専門別が現れ,農業,工業,商業,家政科専門中学が設けられ,農業科中学には全寮制もある。進学希望者は義務教育年限を2年超過して中学に在籍する。高等教育機関への入学試験は全国的に廃止され,すべて中学での内部評価によって選抜される。高等教育機関は,大学(22校,学生数18万人。1987。以下同じ),高等専門学校と工科大学(48校),技術および継続教育専門学校(200余校)に大別され,専門教育重視が歴然としている。1974年以降これらの機関の授業料は無料である(ただし,87年から大学運営費が徴収され始めた)。最も古い大学はシドニー大学(1850創立)で,メルボルン大学 は1853年創立,大学院大学のオーストラリア国立大学 は1946年創立である。高等専門学校は多種職業訓練校と単一職業訓練校に大別される。教員養成校もここに含まれ,中学教員資格取得希望者は3~4年通う。大学もこの資格を与える。技術および継続教育専門学校には工業技術科以外に商業・家政科もある。さらに大学,州教育局とともに,種々の成人教育コースを開設している。また遠隔地用の初等教育機関には,通信教育および無線通信教育がある。
先住民教育には,中学および高等教育機関への就学,海外留学などへの奨学金制度,特別カリキュラムの編成,全豪先住民教育委員会(委員は全員先住民。文部,先住民両省の諮問機関)設立,州教育局諮問機関の設立,高等教育機関への先住民学生無資格入学の検討,先住民教師養成の優先など,特別の配慮が払われている。また,移民教育は英語教育が中心になるが,同時に各民族集団の言語・文化教育も多文化教育プログラムとして具体化されている。
上記すべての教育機関は公立であるが,小・中学校レベルにはおもに宗教団体系の私立校がある。プロテスタント系中学にはイギリス風のパブリック・スクールが多く,上流階級の子弟を対象としている。有名なものにジローン・グラマー・スクール(1854創立),メルボルン・グラマー・スクール(1858創立)があり,この2校は最も多くの連邦政府首相を生んだ。カトリック系の私立校は労働者階級の子弟を対象としている。私立校もカリキュラムは州のシステムに従う。 執筆者:越智 道雄
文化 文学 詩では,オーストラリア生れのハーパーCharles Harpur(1813-68),ケンドルHenry Kendall(1839-82),ゴードンAdam Lindsay Gordon(1833-70)らが,新世界の素材をイギリス・ロマン派あるいはラファエル前派など旧世界の手法で表現し始めた。1880年文芸紙《ザ・ブレティン》の発刊とともに,これが核となって辺境開拓の苦労から生まれたエートスであるメートシップ に表現を与えようとする文化ナショナリズム(写実主体)が芽生えた。この傾向はバンジョー・パターソンBanjo Paterson(1864-1941),ローソン らの出現によって1890年代に頂点に達した。これと対立する系譜は二十数年遅れて,西欧象徴主義に依拠したブレナンChristopher Brennan(1870-1932)において開花した。二つの系譜は両大戦間に混交し,ソフィスティケーション が進んだが,強いていえば,K.スレザー,J.ライト,J.マッコーリーらは前者の系譜,A.ホープ からL.マレーに至る詩人たちは後者の系譜を継ぐ。1960年の反体制文化の詩的代表に夭折したドランスフィールドMichael Dransfield(1948-73)がいる。
小説では,流刑囚,先住民やアジア人などへの差別虐待,スクオッター(大牧場主)対小農場主・渡り牧童の対立などを背景に社会的写実主義が発達し,クラークMarcus Clarke(1846-81),ボルダーウッドRolf Boldrewood(1826-1915),ファーフィーJoseph Furphy(1843-1912),前述のローソン,X.ハーバート らが現れた。これには詩人たちのジンディウォロバク運動 (1930年代末~50年代初め)のような文化ナショナリズム運動も連動した。一方,前述のブレナンの系譜に近く,社会性や文化ナショナリズムは個の神秘を共同体の中に解消し,この国の文学の不毛性の原因になるとしてそれらを拒否し,西欧現代文学の手法に依拠して個の内面を深く掘り下げる傾向の作家に,リチャードソンHenry Richardson(1870-1946),ステッドChristina Stead(1902-83),P.ホワイト ,ストーRandolph Stow(1935- )らがいる。1960,70年代世界的に開花した反体制文化のオーストラリア版代表作家はムアハウスFrank Moorhouse(1938- ),ワイルディングMichael Wilding(1942- ),ベイルMurray Bail(1941- )らで,上記二大系譜を小規模ながら止揚した形になっている。一方,反体制文化とは関係なく,ムアハウスらの先駆となった作家に,強烈なパロディ的言語のコラージュを作り上げる短編作家ポーターHal Porter(1911-84),超現実主義的作風のアイアランドDavid Ireland(1927- )がいる。
戯曲は,小説のローソンに相当するのがエッソンLouis Esson(1879-1943)で,オーストラリアのドラマの創始者と呼ばれる。演劇の項で言及する作家以外に,1960年代以後に活況を呈した戯曲界を代表する作家には,男性中心のメートシップ的エートスの中で苦闘する女性を描くヒューイットDorothy Hewett(1923-2002),アイルランド系オーストラリア人の生活を掘り下げるケナPeter Kenna(1930-87),オーストラリア人同士,あるいは新世界風土からの疎外を描くブーゾAlexander Buzo(1944- ),ヨーロッパを舞台にして間接的にオーストラリア批判を行うナウラLouis Nowra(1950- ),先住民作家メリットBob Merritt(1945- )らがいる。
美術 絵画は,新世界風物の記録画に始まる。ビーグル号にダーウィンと同乗した水彩画家マーテンスConrad Martens(1801-78)がこの期の代表である。ラファエル前派,印象主義などの流入期の画家にはビュベロLouis Buvelot(1814-88)がいる。オーストラリア自生のエートスを強調する文化ナショナリズムが台頭した1890年代の第1次文化興隆期には,ロバーツTom Roberts(1856-1931)を筆頭に,マッカビンFrederick McCubbin(1855-1917),ストリートンArthur Streeton(1867-1943),デービズDavid Davies(1862-1939),コンダーCharles Conder(1868-1909)らの〈ハイデルバーグ派 〉が印象主義手法をオーストラリア風に練り直し,以後画壇の主流となった。他方,西欧の水彩画法を学んだ先住民アボリジニーの画家ナマジラ は,4万年に及ぶアボリジニーの土着の感覚をオーストラリア白人に紹介,アボリジニー画家の先駆となった。1930年代になると,文学や美術の分野で1890年代に確立した文化ナショナリズムが偏狭かつ時代遅れなものとなったので,それを脱皮しようとする動きが現れた。ハイデルバーグ派の強い影響を脱していった現代画家群では,欧米の新技法をとり入れて新しい意匠でオーストラリアにかかわるテーマを表現し始めた具象画家たちと,文化ナショナリズムの軛(くびき)を脱して国際的立場から現代感覚の描出に専念する抽象画家たちが二大潮流をなす。前者の代表はドライズデール ,ノーラン で,後者のそれはフェアウェザーIan Fairweather(1891-1974),オルセンJohn Olsen(1928- )である。しかしウィリアムズFred Williams(1927- )やホワイトリーBrett Whiteley(1939-92)らにおいては,具象・抽象の対立は折衷止揚されていく傾向にある。
彫刻は絵画,文学に比べて,製作,運搬,展示に不便なため,1890年代の第1次文化興隆期に乗り遅れた。そのため,サマーズCharles Summers(1825-78),ホッフRayner Hoff(1894-1937)という1890年代の前と後に現れた巨人には,偏狭なまでの文化ナショナリズムは見られない。反発すべき先駆的傾向をもたない現代彫刻家は,レッドパスNorma Redpath(1928- ),ロバートソン・スウォンRon Robertson-Swann(1941- )をはじめ大半が抽象派であるが,ダズウェルLyndon Dadswell(1908- ),ボールデッシンGeorge Baldessin(1939-78)らの具象派にも新しい意匠でオーストラリアにかかわるテーマを表現する傾向は強くない。
映画 この国最初の記録映画はフランスで映画が発明された翌年の1896年に作られた。世界最初の長編劇映画は1903年アメリカで製作された《アメリカ大列車強盗》(20分)とされているが,本格的なものは06年のオーストラリア映画《ケリー・ギャング物語》(60分。S. フィッツジェラルド監督)である。1890年代の第1次文化興隆期は文学,絵画,演劇からさらに映画にも及んだわけである。しかし1913年以降は欧米の映画配給網に牛耳られ,外国映画輸入が主体となった。この苦しい時代にロングフォードRaymond Longford(1873ころ-1959)らの製作・監督者が人気作家C.デニスの《センチなやつ》の映画化(1919),同じく人気作家S.ラッドの《おらたちの農場で》の映画化(1920)などの名作を作った。1970年代の第2次文化興隆期までに計500本を超える長編劇映画が製作された。1975年に従来の政府映画振興機関を統合したオーストラリア映画委員会が発足し,78年には全州政府がそれぞれ映画公社を設立,ともに国産映画の資金助成,特に前者は国内外の配給の組織化をも手がけだしている。現代の代表的監督と作品には,P.ウェア《ハンギング・ロックでのピクニック》(1975),《ガリポリ》(邦題は《誓い》。1981),F.シェピシ《ジミー・ブラックスミスの歌》(1978),P.ノイス《ニューズフロント》(1978),B.ベレズフォード《ブレーカー・モラント》(1980)がある。これらは鮮明かつ重厚なリアリズム作品で,前衛化,商業化の激しい欧米の作品に比べると古めかしいまでにオーソドックスであるが,欧米ではかえってその点が好評である。一方,娯楽作品には特にアメリカ的スタイルの商業化が目だつ。その代表的監督と作品には,T.バーストル《アルビン・パープル》(1973),G.ミラー《マッド・マックス》(1979)がある。
演劇 シドニーは現在英語圏の大都市では3番目に劇場が多い。全国では常時70弱の劇場が戯曲作品を上演しており,オペラ劇場やバレエ劇場もいれるとその数は90近くなる。この隆盛は1960年代末に政府の文化助成機関が発足し,他の文化部門同様,演劇にも助成金を出し始めたことも一因となった。歴史的にはゴールドラッシュ時代から商業演劇は盛んで,自国作家の小説の翻案ものなどがよく上演されてきた。戯曲,劇団,劇場の三拍子がそろって大成功したのはローラーRay Lawler(1921- )作《17番目の人形の夏》(1955)が最初であった。オーストラリアのエートスの核をなすメートシップの病理をえぐり出したこの作品が,国内はもとよりロンドンで7ヵ月のロングランを続けるまでの反響を引き起こしたことは,文化ナショナリズムをいたずらにうたい上げる1890年以降の傾向を,戯曲作家や演劇関係者だけでなく,観客の一般オーストラリア人自身が脱皮し始めた証拠と見ることができる。1970年代には反体制文化活動の一環として実験的な劇団が輩出したが,その代表はシドニーではニムロッド劇場に拠るグループ,メルボルンでは乳母車工場を改造したプラム・ファクトリー(現在は閉鎖)とラ・マーマ劇場に拠るオーストラリア演劇集団(J. ヒバード,B. オークリー,D. ウィリアムソンらの戯曲作家はここの出身)である。いずれも素材は,オーストラリアのエートスを痛烈にパロディ化したものが多い。 執筆者:越智 道雄
音楽 現在のオーストラリアの音楽の大勢はヨーロッパから移住した白人がもたらしたものである。移民は18世紀の末から始まったが,19世紀後半の交通・通信の発達にも耐え得るだけの独自の民族的な音楽伝統を創り出すにはあまりに遅すぎた。第2次世界大戦以前のオーストラリアの作曲家の作品は,ほとんどヨーロッパのそれを模したもので,保守的な響きをもったものばかりである。この大陸に固有の唯一の音楽はオーストラリアの先住民アボリジニーの伝統音楽である。したがって本項ではこれを先に述べる。
アボリジニーは長い間,異民族との接触をもたず,その文化は孤立していたので,彼らの音楽はオセアニアの他の諸民族の音楽文化と共通するところがきわめて少ない。1950年代まではほとんど研究対象にされなかったため,不明な点が多いが,世界の他の音楽文化にない非常にユニークな要素を含んでいることは明らかである。広大な大陸に散在しているため,地域的な様式の違いはむろん存在するが,全体としてほぼ一つの音楽文化とみなすことができる。
その特徴は原則として歌が中心であること。その歌には祭事と結びついた宗教歌と,世俗歌の2種類がある。宗教歌の大半は霊魂の世界から伝えられたものと考えられ,個人あるいは特定の人々がもっている。世俗歌はコロボリー corroboreeと呼ばれる集団舞踊会で歌われる娯楽のための歌が主体である。両方とも通常踊りを伴うが,踊りなしの歌もある。歌の演奏技法には非言語的な音声(例えば〈シューッ〉〈ウーウー〉〈ギャー〉など)や同音の朗唱から,広い音域の,各シラブルを引きのばして起伏をつけていくメリスマ的な歌い方も含まれている。旋律は概して下降的で,最高最強音から始まり,反復される最低最弱音で終わることが多い。リズム構造は,歌詞のアクセントにもとづいているが,概して複雑である。
歌の伴奏として使われる楽器とその用法は地域によって異なるが,リズム棒や狩猟用具でもある木製のブーメランのような単純な打楽器,そして手拍子や身体を打つ音などで踊りのリズムを強調する。堅い木に白蟻が孔をあけた木製の長いトランペット(またはドローン・パイプ)であるディジェリドゥーdidjeriduは,北部にのみ演奏され,専門的な訓練を要求される複雑な演奏技法により,明確なリズムをもった低音の連続音が出される。さらに,成人式を受けた男性のみの秘密の儀式で,ブル・ロアラー (うなり木)なども用いられるが,これらの楽器は超自然的な存在,またその声を表すといわれている。
次に移住民の音楽,現代音楽に目を転ずると,白人の本格的な音楽活動が組織されるようになったのは1840年代以後,自由な移民とともに音楽家が移住するようになってからである。19世紀後半には音楽的な意識が高まり,最初の職業的オーケストラが1888年に設立された。20世紀初期の重要な2人の音楽家は作曲と指揮で活躍をしたニュー・サウス・ウェールズ州立音楽院の院長でもあったヒルAlfred Hill(1870-1960)と,すでに1930年代にオーストラリア音楽の大きな展開を予言していたグレーンジャーPercy Grainger(1882-1961)である。戦中派に属する作曲家の作品は保守的で,後期印象主義,新古典主義の傾向をもつ20世紀初期のヨーロッパにならっており,十二音技法などの前衛的な作法を導入した作曲家はきわめて少数であった。
第2次世界大戦以後,オーストラリアの音楽文化はその最も大きな展開を見せた。各都市にシンフォニー・オーケストラが組織され,各州の総合大学で音楽学部が設立され,各分野の音楽学会も開かれるようになり,アボリジニー,東アジアやオセアニア諸民族の音楽の歴史的研究や民族音楽学的な調査も行われるようになった。戦後の作曲家は20世紀の作曲技法を積極的に取り入れると同時に,アジアの伝統的音楽(ことに日本の雅楽,インドネシアのガムラン)への関心が高まり,両者を合成して新しいオーストラリア独自の音楽文化をつくり出そうという運動が今日にいたるまで続けられている。その代表的な作曲家はスカルソープPeter Sculthorpe(1929- )とミールRichard Meale(1932- )であり,彼らの作品は国際的にも演奏されている。 執筆者:スティーブン・G.ネルソン
日本との関係 日本とオーストラリアの交流の歴史は両国が近代国家として生まれた時期にまで遡ることができる。1875年,メルボルンで開催された万国博に日本が参加したのと時を前後し,兵庫,広島,和歌山県などから木曜島 ,トレス海峡における真珠貝(シロチョウガイ)採取のため,潜水夫を中心として漁民が渡航しはじめている。最盛期の1897年ころには木曜島やオーストラリア北西岸のブルームを中心に1000人近い日本人がシロチョウガイ採取に従事したといわれる。1887年には日本郵船を中心とした日本の移民斡旋会社がオーストラリアへの移民事業を本格的に扱いはじめ,大量の日本人移民がクイーンズランドを中心とするサトウキビ農園に移住,厳しい農作業に従事した。しかし,1901年連邦制が発足するとともに有色人種を対象とした移民排斥運動が高まり,かつ日本国内で労働力への需要が高まったこともあり,日本からの移民の道は完全に閉ざされ,以後冷却化の一途をたどった。
第1次世界大戦時,日本は連合国としてオーストラリアの輸送船団の護衛に日本の軍艦〈伊吹〉を派遣し両国の関係改善に努めたが,オーストラリアの白豪主義に影響を与えることはなかった。その後,両国は第2次世界大戦では敵対関係に入り,本格的な関係修復は52年の対日平和条約発効まで待たねばならなかった。同年,両国は大使館を設置,外交関係は正常化した。依然としてオーストラリアには反日感情が残っていたが,戦後のアジアにおける国際環境の変化(朝鮮戦争,植民地の独立,旧宗主国イギリスに代わるアメリカの台頭)にともない対日関係見直しの気運が高まり,57年には通商協定が締結された。
その後,漁業協定(1968),査証取決め(1969),租税協定(1970),原子力平和利用協定(1972)などが相次いで締結され,両国の経済協力拡大のための環境づくりがなされた。73年にはイギリスがEC加盟に踏み切り,オーストラリアはあらためてアジアの一員として共存していく道を模索することを強いられた。歴史上初めて日本とオーストラリアの利害が一致したのである。この理解の上に立って,74年に文化協定,76年には有効協力基本条約が締結され,両国の交流は文化,科学技術,スポーツの分野にまで拡大された。両国の相互理解,協力関係はあらゆるレベルにおいて,実効性のある,かつ地が足についた総合的な交流へと広がり,やがて2国間にとどまらず,国連,APECなどの国際協力の分野にまで及ぶようになる。両国が国際社会において共通の理念を分かちあうようになるまでには実に100年を要したのであった。日本政府は民間と協力のうえ,オーストラリア国立大学に豪日研究センターを設立したほか,88年には日豪の最先端科学技術交流の場としての科学技術館をキャンベラに建設している。両国はこうした最近の相互交流進展を記念し,97年を日豪友好記念のための事業年度として指定,各種催しを年間を通じ実施するまでになった。 執筆者:堀 武昭