クロアチア(読み)くろあちあ(その他表記)Republic of Croatia 英語

精選版 日本国語大辞典 「クロアチア」の意味・読み・例文・類語

クロアチア

  1. ( Croatia ) バルカン半島の北西部を占める共和国。アドリア海に面し、北はスロベニアハンガリー、南はボスニア‐ヘルツェゴビナと国境を接する。クロアチア語名ホルバーツカ。首都ザグレブ。一二世紀以来ハンガリー、トルコ、オーストリアが支配。第一次大戦後セルブ‐クロアート‐スロベーン王国を形成、一九二九年ユーゴスラビア王国と改称。第二次大戦後成立したユーゴスラビア連邦に一共和国として加入、九一年連邦から離脱・独立。ボーキサイト、天然ガスなど豊富な鉱産資源を有し、機械・石油化学工業が盛ん。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クロアチア」の意味・わかりやすい解説

クロアチア
くろあちあ
Republic of Croatia 英語
Republika Hrvatska クロアチア語

ヨーロッパ南東部のバルカン半島に位置する共和国。アドリア海に面する。正式名称はクロアチア共和国。クロアチア語ではフルバツカHrvatskaという。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)を構成していた6共和国の一つであったが、1991年6月に独立を宣言した。その後、独立に反発した共和国内のセルビア人とクロアチア人の間で内戦が勃発(ぼっぱつ)したが、1992年には国連の仲介で鎮静化した。1992年5月国連に加盟。面積5万6538平方キロメートル、人口443万7460(2001年センサス)、444万(2006年推計)。首都はザグレブ。地形や気候条件からみて、地中海地方(イストリア半島、ダルマチア海岸地域、アドリア海の諸島)、山岳地方(ディナル・アルプス地域)、パンノニア地方(内陸部のドナウ川、ドラバ川、サバ川流域の肥沃(ひよく)な平原を含む)に三分される。

[漆原和子]

自然・地誌

内陸部は大陸性気候で、パンノニア地方の平原ではトウモロコシ、小麦、テンサイを、丘陵地ではライムギ、エンバクを産する。ダルマチア地方は地中海性気候で、オリーブ、イチジク、ブドウの栽培が行われ、良質のワインを産する。この地方の石灰岩地域はローマ時代の大理石採掘によって植生破壊が始まり、さらにその後ヤギの放牧によって植生の回復がいっそう遅れたといわれる。背後のディナル・アルプスの峠からアドリア海に向けて、冬季に乾燥した寒風ボラが吹く。アドリア海沿岸のセーニはとくに峠から吹きおりるボラの強風地域として知られている。なお、古代からこの地方に数多く定着していたイヌのダルメシアンの名称は、ダルマチア地方に由来する。

[漆原和子]

歴史

クロアチア人は7世紀中葉、サバ川上流域周辺に定住した。概してフランク王国の強い影響を受け、宗教的にはローマ・カトリックを受け入れた。925年、一首長であったトミスラブTomislav(在位910~928ころ)が「クロアチア王」を宣言し、初の統一国家を建国。以後約200年にわたって中世クロアチア王国が続いた。11世紀後半に王国を統治したクレシミルP.KrešimirⅣ(在位1058~1074)は、クロアチア史上の英雄として知られている。彼はダルマチアをも支配下に置き、その統治期は黄金の時期と称される。しかし、1102年ハンガリーがクロアチアを完全に征服し、クロアチア王国は崩壊した。以後1527年までハンガリーの支配下に置かれた。その後、一時期オスマン帝国の統治を受けるが、1918年までハプスブルク帝国(実質的にはハンガリー)の支配下に置かれた。1809年からわずか4年間、ナポレオンがこの地方を「イリリア諸州」として、緩やかな統治を行った。この時期に強まったクロアチア人としての民族意識は、ハンガリー化に反発するイリリア運動として展開された。1848~1849年の革命時には、イェラチチを指導者とするクロアチア軍がクロアチアの自治権の拡大を求めてハンガリー革命軍と敵対した。1867年、オーストリアとハンガリー間のアウスグライヒ(和協)で、ハプスブルク帝国がオーストリア・ハンガリー帝国(オーストリア・ハンガリー二重帝国)に再編されると、それを補足する形で、ハンガリーとクロアチア間に「ナゴドバ(協定)」が締結された。これにより、ハンガリー帝国内で、クロアチアは形式的にはハンガリーとの平等が認められたが、実質的にはハンガリーの優越権が保持された。クロアチア人の不満はいっそう強まり、クロアチアの完全な自治を求める動きや、帝国内の南スラブの統一を求める動きがみられた。第一次世界大戦後の1918年、南スラブの統一国家として「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(1929年からユーゴスラビア王国に改称)が成立した。

[柴 宜弘]

ユーゴスラビア内のクロアチア

セルビアの国王が新国家の国王となり、セルビアの政治エリートが国家の中心を占めた「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」において、クロアチアは反セルビアと地方分権を掲げて中央政府に反発した。この「クロアチア問題」が両世界大戦間期ユーゴスラビアの最大の問題となった。1928年、議事録にセルビアで用いられているキリル文字(ロシア文字)を使用するか、クロアチアで用いられているラテン文字を使用するかで王国議会の議論が白熱し、セルビア人議員がクロアチア農民党指導者のラディチを射殺する事件が生じた。この事件を契機として、国王は「クロアチア問題」の終結を目的として、1929年に独裁制を宣言した。しかし、「クロアチア問題」はこれで解決されたわけではなく、クロアチア人の不満は継続した。1930年代後半に至り、国際情勢が緊迫の度を増すなかで、国内の安定化が緊急の課題となり、「クロアチア問題」解決の動きが進められた。1939年、王国政府とクロアチア農民党との間に「スポラズム(協定)」が調印された。この結果、ザグレブを州都とするクロアチア自治州が創設された。自治州はクロアチア固有の領域と考えられるクロアチア、スラボニア、ダルマチアに加えて、ボスニア・ヘルツェゴビナの一部を含む広大な領域となり、ユーゴスラビア王国の人口の約3分の1にあたる440万人を擁することになった。さらに1941年4月、ナチス・ドイツをはじめとする枢軸国軍がユーゴスラビアに侵攻し、分割・占領した。この過程で、ドイツの傀儡(かいらい)国家である「クロアチア独立国」が建国され、その領域は「クロアチア自治州」の領域にボスニア・ヘルツェゴビナの全土を加えた部分となった。これは中世クロアチア王国最大の版図とほぼ同じ領域であり、多くのクロアチア人の長年の夢が実現したものと考えられた。しかし、「クロアチア独立国」の政権を担ったファシスト集団ウスタシャはヒトラーと同様の人種差別政策を進め、ユダヤ人およびロマ(ジプシー。おもに北インドに由来し、中・東欧に居住する移動型民族)への弾圧だけでなく、異分子とみなすセルビア人への弾圧も行った。ドイツ軍の撤退とともに、「クロアチア独立国」は瓦解(がかい)し、1945年5月にパルチザンによって解放された。

 第二次世界大戦後、1945年11月にユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言され、チトーを指導者として、すべての民族の平等に基づく連邦制の社会主義国家が築かれた。クロアチアは、連邦を構成する6共和国の一つとなった。社会主義体制のもとで、クロアチアの不満は解消されたかにみえたが、1960年代に入り、ユーゴスラビアの対外的緊張関係が緩み、国家保安機関が縮小されるなど、自主管理社会主義のもとで自由化政策が推進されると、クロアチアの民族主義的な動きが再燃した。1970年から1971年にかけて、クロアチア共産主義者同盟「改革派」、民族派知識人、学生による「マス・ポク(大衆運動)」と称される大規模なクロアチア共和国の自治要求運動が展開された。これが一般的には「クロアチアの春」とよばれる民族主義運動であり、クロアチア共和国の権利拡大にとどまらず、独立まで要求に掲げた。チトーが積極的に事態の収拾にあたり、クロアチア共産主義者同盟の指導部を入れ替えることによって、この運動は沈静化した。チトーらの連邦指導部は「クロアチアの春」をはじめとする各地の民族主義の動きを教訓として、1974年に新憲法を制定し、チトー、共産主義者同盟、連邦人民軍を絆(きずな)として、6共和国と2自治州が「経済主権」をもつ緩い連邦制をつくり上げた。しかし、1980年代に入ると、経済危機を背景として、ユーゴスラビアを結びつけていた絆が一つずつ消滅していく過程をたどることになった。

[柴 宜弘]

政治―独立と内戦

1990年代に入ると、ユーゴスラビアの解体過程が加速された。1990年春の複数政党制による自由選挙で、トゥジマン率いるクロアチア民主同盟(HDZ)が勝利を収め、トゥジマンが大統領に就任した。先進共和国のクロアチアはスロベニアとともに独立の方向を打ち出し、1991年6月、クロアチアとスロベニア両共和国が独立宣言を出すに至った。クロアチアでは、これを契機として内戦が生じ、クロアチアの独立に反対する国内のセルビア人60万人が武装して抵抗した。セルビア人勢力とクロアチア共和国軍とが衝突し、これにセルビア人保護を理由として連邦人民軍が介入するに及び、内戦が本格化した。1991年末、国連が仲介し、国連の平和維持活動の一環として国連保護軍が展開されることで一応の停戦が成立。1992年1月に、EC(ヨーロッパ共同体)はクロアチアの独立を承認し、同5月に国連に加盟したが、国内の「セルビア人問題」は未解決のままであった。クロアチアの3分の1の領域が「クライナ・セルビア人共和国」の支配下に置かれていた。トゥジマン政権は国連保護軍に守られた形のセルビア人勢力の対応に手を焼き、ついに軍事的解決の方針を強めた。1995年5月と8月には、アメリカの支持を取りつけ「クライナ・セルビア人共和国」をいっきに軍事制圧し、「セルビア人問題」は圧殺されてしまった。1995年10月の下院選挙では、過半数には及ばなかったもののクロアチア民主同盟が勝利を収めた。1996年10月、トゥジマン大統領が癌(がん)であることが明らかとなったが、その後も執務を続けた。1997年4月、クロアチアの地方選挙が実施され、最後までセルビア人支配が続いていた「クライナ・セルビア人共和国」の東スラボニアでも、クロアチア民主同盟が勝利を収めた。6月の大統領選挙では、トゥジマンが3選された。7月には、東スラボニアの国連暫定統治が終了し、「セルビア人問題」は解決されたことになるが、セルビア人難民の帰還問題はその後も依然として未解決のままである。

 1999年12月、トゥジマンが死去。2000年2月に行われた大統領選では、クロアチア民主同盟の候補を破って、クロアチア国民党のメシッチStjepan(Stipe) Mesić(1934― )が当選。同年1月に行われた下院選では社会自由党、社会民主党が勝利し、野党6党連立により社会民主党党首ラチャンIvica Raćan(1944―2007)を首相とする新政権が発足した。独立以後、政権を掌握してきたクロアチア民主同盟は敗北し、クロアチアは民主化へと向かうことになった。議会は二院制であったが、この選挙後に上院を廃止する憲法改正が下院で可決されて上院は廃止、一院制となった。ラチャン政権は、セルビア系難民のクロアチアへの帰還や旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)との協力に取り組み国際協調路線を図った。しかし失業問題などから国民の不満が募り、2003年11月の議会選挙ではクロアチア民主同盟が定数152議席中66議席を獲得して勝利し政権を奪回した。同年12月、クロアチア民主同盟党首イボ・サナデルIvo Sanader(1953― )率いる内閣が発足した。サナデル政権は前政権の政策を踏襲して国際協調路線へと方向転換した。

 その後、2005年1月、任期満了に伴う大統領選挙では、メシッチが再選された。2007年11月の議会選挙でもクロアチア民主同盟が第一党を維持し、サナデルがふたたび首相となったが、サナデルは2009年6月、贈賄疑惑が浮上し辞任した。後任にはコソルJadranka Kosorが選出され、初めての女性首相となった。メシッチの大統領任期切れに伴う大統領選挙では、社会民主党のヨシポビッチIvo Josipović(1957― )が勝利をおさめ、2010年2月に就任した。大統領のヨシポビッチは、積極的に近隣のセルビアおよびボスニア・ヘルツェゴビナとの関係の修復を進めている。なお、クロアチアは、1992年に欧州安全保障協力機構(OSCE)に、1996年に欧州評議会に、2000年に世界貿易機関(WTO)に加盟した。2003年2月にはEU(ヨーロッパ連合)への加盟申請を行い、2004年6月に正式加盟候補国となり、2013年7月、正式加盟した。また、2009年4月に北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。

[柴 宜弘]

社会・文化

1991年の旧ユーゴスラビア時代の調査では、民族構成はクロアチア人が75%、セルビア人が12%となっているが、内戦により多くのセルビア人が難民となるなど、大きく変化し、2001年ではクロアチア人が約90%、セルビア人が約5%となった。言語は旧ユーゴスラビア時代はセルビア・クロアチア語で、独立後はクロアチア語化が進み、クロアチア語と呼称を変えた。ラテン文字を使用している。クロアチア人はローマ・カトリック教徒、セルビア人はセルビア正教徒である。スポーツ振興も盛んで、とくにサッカー、バスケットボールなどは国民に人気が高い。1998年フランスで開催された第16回サッカーワールドカップでは、初出場ながら第3位と健闘。ザグレブ近郊にザグレブ国際空港Zagreb Airportがあり、ヨーロッパ各都市などと結んでいる。

[漆原和子]

産業

第二次世界大戦前は農牧業がおもな経済の基盤であったが、戦後、工業化が急速に進展した。とくにザグレブは石油化学、家庭電器、工作機械、通信機器、繊維などの工業が盛んであった。そのほか、アドリア海沿岸にはリエカの造船、精油、スプリトの造船、プラスチック工業、シベニクのアルミニウム工業があり、これらの都市は貿易港としても知られていた。天然資源としては、イストリア半島のボーキサイト、パンノニアの油田、天然ガスがある。しかし、内戦により、産業は大きな打撃をうけた。またダルマチア地方には美しく古い町並みを残すザダル、ドゥブロブニクコルチュラなどがあり、観光地として非常に有名であったが、内戦で一部が破壊された。また、交通が遮断されたため、観光も大きな打撃をうけた。内戦終了後の経済復興は困難をきわめているが、徐々に回復しつつある。経済的には、IMFと協調してマクロ経済の安定に成功する一方で、財政赤字、対外債務が増加しており、緊縮財政と失業対策が求められている。通貨単位はクーナKuna(HRK)。国内総生産(GDP)は2000年に約184億ドル、2004年には約343億ドル(クロアチア政府統計)。世界遺産登録地として、「アドリア海の真珠」と讃えられるドゥブロブニク旧市街、ディオクレティアヌス宮殿などローマ時代の遺跡が残るスプリト史跡、古都トロギールプリトビツェ湖沼群国立公園などがあり、古い歴史と風光明媚な観光資源に恵まれ、GDPの約2割を占める観光収入は順調に増加している。おもな貿易相手国はイタリアをはじめとする近隣諸国で、主要貿易品目は、輸出では繊維、石油製品、船舶、化学製品、食品など、輸入では石油製品、繊維、食品、電気製品となっている。

[漆原和子]

日本との関係

日本との関係では、独立後、1993年に外交関係を樹立。2008年(平成20)3月にはメシッチ大統領が来日している。日本へのおもな輸出品目はマグロ、ワイン、繊維であり、日本からのおもな輸入品目は自動車、電気機器、二輪車。

[柴 宜弘・編集部]

『スティーブン・クリソルド編著、田中一生、柴宜弘、高田敏明訳『ケンブリッジ版ユーゴスラヴィア史』(1980・恒文社)』『金丸知好著『廃墟からのワールドカップ』(1998・NTT出版)』『宇都宮徹壱著『ディナモ・フットボール――国家権力とロシア・東欧のサッカー』(2002・みすず書房)』『G・カステラン、G・ヴィダン著、千田善、湧口清隆訳『クロアチア』(文庫クセジュ・白水社)』『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』『加藤周一著『ウズベック・クロアチア・ケララ紀行――社会主義の三つの顔』(岩波新書)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「クロアチア」の意味・わかりやすい解説

クロアチア
Croatia

基本情報
正式名称=クロアチア共和国Republika Hrvatska/Republic of Croatia 
面積=5万6594km2 
人口(2010)=443万人 
首都=ザグレブZagreb(日本との時差=-8時間) 
主要言語=クロアチア語(公用語),セルビア語 
通貨=クナKuna

バルカン半島北部にある共和国。1991年6月,ユーゴスラビアからの独立を宣言した。クロアチア語ではフルバツカHrvatskaと呼ばれる。面積5万6538km2,人口481万(1992)。民族構成は,クロアチア人351万(79.4%),セルビア人63万(14.2%),ハンガリー人4万(0.8%),スロベニア人3万(0.7%),チェコ人2万(0.4%),ムスリム(イスラム教徒)2万(0.4%),イタリア人2万(0.4%)など。首都はザグレブ

歴史的にはイストラ半島,ダルマツィア地方,クロアチア地方,スラボニア地方に,地勢的には西部のアドリア海沿岸(31%),中央部の山間地(20%),東部のハンガリー(パンノニア)平原(49%)に大別される。気候は地中海性とパンノニア大陸性で,前者に属する沿岸地方は干ばつがはげしく耕作には向かない。わずかにブドウ,オリーブ,ラベンダーなどが栽培されている。後者に属する中央山間部ではカルスト原野が広がり,果樹やブドウが生育する。さらにスラボニア地方など平野部は沖積土と黄土の穀倉地帯となっている。森林が全面積の35%を占めるが,山地部では針葉樹が少なく,植林が必要である。おもな河川はサバ川とドラバ川で,いずれもドナウ川に合して黒海へ注ぐ。湖では大小16の湖群が早瀬や滝で結ばれている国立公園プリトビツェPlitvice湖が有名。アドリア海岸沿いに走るディナル・アルプス山脈は1500~2000m級の岩山で,際だった高峰はない。石油と天然ガスの埋蔵量は国内の61%と71%を占める。石炭は0.25%ときわめて少ない。金属鉱石の埋蔵もわずかで,非金属ではイストラ半島の良質な石黄土があり,ガラスの原料になる。スロベニアに次いで工業が発達しているが,おもなものに機械,金属加工,鉄鋼,造船,電気,化学,繊維,食品工業がある。主要都市の代表的な工場をあげると,ザグレブのラーデ・コンチャル電気機械工場と〈五月一日〉機械工場,スプリトのスプリト造船所,リエカの〈五月三日〉造船所,オシイェクのドラバ・マッチ工場,カルロバツのユーゴトゥルビナ・タービン工場,バラジュディンのバルテックス繊維工場,ブコバル近郊のボロボ・ゴム製品製靴工場,シベニクのアルミニウム工場などである。

 ダルマツィア海岸をもつクロアチアは,国内観光客の6割を受け入れている。とくにアドリア海の真珠と称されるドゥブロブニクは,中世の城砦都市がそのまま息づいている。さらにディオクレティアヌス帝(在位284-305)の宮殿が中心部を占めるスプリト,ローマ時代の円形闘技場のあるプーラ,保養地オパティア,プリトビツェ湖など見るべきものが多い。

ローマ時代はダルマティア州(ダルマツィア)とパンノニア州として統治された。南スラブ民族のクロアチア人が移住してきたのは,6世紀末から7世紀にかけてである。初めサバ川とドラバ川の間に住みつき,9世紀には海岸部まで達した。8世紀ころから国家を形成しはじめたが,フランク王国やビザンティン帝国の支配から脱しきれず,トルピミロビッチTrpimirović朝(845ころ-1091)時代に初めて自由を享受した。トミスラフ公は初代クロアチア王となって(924ころ-928ころ)マジャール人と戦い,スロベニア,ダルマツィアまで領土を拡張した。

 クロアチア人も,他の南スラブ族と同じく使徒キュリロス兄弟やその弟子によって,しだいにキリスト教を受け入れていた。だが,9世紀にフランク王国に支配されてからローマ教会の管轄下に入り,ラテン文字を用いるカトリック教徒となって今日にいたっている。ただスラブ語を用いる一派はこれに激しく抵抗し,キリル文字以前のグラゴール文字を用いつづけ,中世クロアチアの宗教紛争の火種となった。

 トルピミロビッチ朝の最後の王ズボニミルは農民反乱によって殺され,つづいて内乱が起こると,クロアチアの貴族は1102年,ハンガリー王カールマーンを自分たちの王として戴冠し,事態の収拾をはかった。これ以後800年の長きにわたって,両国は支配関係あるいは同盟関係といった奇妙な形で結ばれることになる。ハンガリー王は総督(バン)を指名してクロアチアを治めさせ,重要な案件はクロアチア貴族の議会(サボール)が決定して王が確認した。モンゴル人の侵略(1241),ザグレブなど都市の出現,15世紀ベネチアのダルマツィア占領の後で,ハンガリーが1526年モハーチの戦でトルコ軍に敗れたため,クロアチアはハプスブルク家の下に入った。それまではまがりなりにも自治を許されていたクロアチア人も,これにより厳格な封建制に組みこまれたことで農民の生活は困窮し,各地で反乱が頻発,とくに1573年マティヤ・グーベツMatija Gubec(?-1573)が主導したものはスロベニア地方まで巻き込み,封建領主を狼狽させた。16世紀中ごろはまたオスマン・トルコの北上を阻止するため,クロアチアとセルビア・ボスニアとの境界線に軍政国境地帯(ミリテールグレンツェ)が設けられた。その間,ハンガリーと接近してクロアチアの自治権を回復しようとはかったズリンスキーとフランコパンの2貴族が処刑される事件(1671)もあった。その後,皇帝ヨーゼフ2世の中央集権主義に反発したハンガリー王が,結局1790年にふたたびクロアチアの支配権をえた。

 1809-13年,ナポレオンはスロベニアと共にイリュリア諸州を編成し,次々と改革を行った。こうして民族の自覚を植えつけられた商人階級出のガイらインテリゲンチャがイリュリア運動を展開し,民族の独立を鼓吹した。48年ウィーン政権はクロアチアのバンにイェラチッチを指名,ハンガリー人の反乱を鎮圧させたため,両民族は反目することとなった。67年,アウスグライヒ(妥協)によってオーストリア・ハンガリー二重帝国が誕生。翌年,ハンガリーとクロアチアの間にナゴダ(協定)が結ばれ,後者は前者に併合された。シュトロスマイエルStrossmayer司教(1815-1905)などの努力で67年ザグレブにユーゴスラビア科学芸術アカデミーが,74年には大学も創設され,いわゆる文芸復興が見られた。しかしヘーデルバーリがバンを務めた1883-1903年に見られるように,極端なマジャール化政策は,クロアチア人に政治的な独立も必要であることを自覚させた。それゆえ,第1次世界大戦中の1915年ロンドンにユーゴスラビア委員会を結成し,17年コルフ島に逃避中のセルビア政府とコルフ宣言を行って,建国への基礎をかためたのである。

 第1次大戦でハプスブルク帝国が崩壊し,新生ユーゴスラビアの一員として独立したクロアチアであったが,第2次大戦前は,セルビアの民族主義と反発し合って,39年には事実上国家を解体させてしまったことがある。いわゆる大セルビア主義(中央集権)に対して大クロアチア主義(地方分権)が反発したわけだが,社会主義社会になってもこうしたライバル意識が完全に消滅したとは考えられない。さらに観光などで多額に入る外貨が,ユーゴスラビア南部の後進地域開発へ流用されすぎるとの不満も加わっている。80年のチトーの死以後,ユーゴスラビア連邦への求心力が弱まり,91年の独立宣言をよんだゆえんである。
執筆者:

1990年4月にクロアチアでは,第2次大戦後初の実質的複数政党制の下での議会選挙が実施された。前年の〈東欧革命〉のあおりを受け,共産党は大敗し,クロアチア民主共同体が圧勝した。そして,大統領には同党党首のトゥジマンFranjo Tuđman(1929-99)が就任した。トゥジマン政権はまずクロアチア憲法改正を行った。改正クロアチア憲法では,クロアチア共和国をクロアチア人中心の国家と規定し,またユーゴスラビアからの単独での分離独立権も明記されていた。その後,クロアチア民主共同体は,各選挙を通じて一党優位制を確立していった。

 クロアチアでは,民族主義的なクロアチア民主共同体が政権を獲得した時点から,国内のセルビア人に対する同化政策が一部で展開されており,セルビア人地域のセルビア人は共和国政府に対してすでに姿勢を硬化させていた。クロアチアが91年6月に行った独立宣言に対して,国内のセルビア人が激しく反発したことは当然であった。しかも,連邦軍がセルビア人の側で介入したことから,クロアチア人とセルビア人との対立は内戦へと発展していくのである。クロアチアは凍結していた独立宣言を10月にふたたび発し,クロアチアの独立は91年12月のドイツをはじめとして世界各国に承認され,92年5月には国連にも加盟を認められた。

 内戦は92年2月までに終結し,クロアチア政府の実効支配が及んでいなかったスラボニア,クライナには国連保護軍が展開することになった。クロアチアは95年春から夏にかけて西スラボニア,クライナを武力で奪還し,東スラボニアも98年1月にクロアチアに返還された。その結果,クロアチアは,内戦前の国土を回復したのである。

クロアチアは,旧ユーゴスラビアではスロベニアに次ぐ経済先進地域であった。東部にはハンガリー平原に連なる肥沃な土壌が広がり,小麦を中心とする農産物が耕作されている。また,アドリア海東岸のほとんどを占め,漁業も盛んである。工業に関しても,ワインなどの食品工業のみならず,造船業をはじめとする重工業も発達していた。内戦においてクロアチアが受けた物的損害は,1993年4月の時点で200億ドルを数え,クロアチア経済にとって致命的打撃であった。しかし,国内総生産の成長率は94年からプラスに転じ,クロアチア経済は順調な回復途上にある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「クロアチア」の意味・わかりやすい解説

クロアチア

◎正式名称−クロアチア共和国Republika Hrvatska/Republic of Croatia。◎面積−5万6542km2。◎人口−428万人(2011)。◎首都−ザグレブZagreb(69万人,2011)。◎住民−クロアチア人78%,セルビア人12%など。◎宗教−クロアチア人はカトリック,セルビア人はセルビア正教。◎言語−クロアチア語(公用語),セルビア語。◎通貨−クナKuna。◎元首−大統領,コリンダ・グラバル・キタロビッチ(1968年生れ,2015年2月就任,任期5年)。◎首相−ティホミル・オレシュコビッチ(2016年1月発足)。◎憲法−1990年12月公布,2000年11月改定,2001年3月改定。◎国会−一院制,定員151,任期4年。最近の選挙は2011年12月。◎GDP−693億ドル(2008)。◎1人当りGNP−9330ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−10%(1997)。◎平均寿命−男73.8歳,女79.9歳(2011)。◎乳児死亡率−5‰(2010)。◎識字率−98.8%(2009)。    *    *バルカン半島の共和国。山地が多いが,ドナウ川の支流サバ川とドラバ川の流域には豊かな土地がある。石炭,鉄鉱,ボーキサイトを産し,工業も盛んである。 古代ローマの属州パンノニアの一部で,7世紀ごろ南スラブ民族のクロアチア人が定住した。9世紀からカトリックを受容し,ラテン文字を使用するようになった。1091年以後ハンガリー,トルコ,オーストリアなどの支配を受け,1867年のオーストリア・ハンガリー二重帝国成立とともに,ハンガリーとの協約(ナゴドバ)により自治を獲得した。1918年新生ユーゴスラビアの一員として独立したが,ユーゴスラビアの中で経済面では先進地域であるクロアチアは,中央集権的な連邦国家を指向するセルビアとしばしば対立した。1991年ユーゴスラビア連邦からの独立を宣言したものの,その直後,国内のセルビア人勢力およびユーゴスラビア連邦軍との間で激しい戦闘が行われた。1995年までにクロアチア軍がセルビア人居住地域を武力制圧し,東スラボニアでも和平合意が成立し,1998年に内戦前の領土をほぼ回復した。この独立と内戦を指導してきたクロアチア民主同盟のトゥジマンが1999年に死去し,2000年の総選挙では中道諸政党連合が政権に就き,同年の大統領選挙ではメシッチが当選した(2005年再選)。2003年11月の選挙では,最大野党の民族主義政党・クロアチア民主同盟が第1党となり,同党を中核とする右派連合政権が発足した(2007年11月の総選挙でも第1党の座を維持)。2009年北大西洋条約機構(NATO)に加盟。2013年ヨーロッパ連合(EU)に加盟(28番目)。
→関連項目シベニクの聖ヤコブ大聖堂セルビア・モンテネグロ

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クロアチア」の意味・わかりやすい解説

クロアチア
Croatia

正式名称 クロアチア共和国 Republika Hrvatska。
面積 5万6594km2
人口 402万1000(2021推計)。
首都 ザグレブ

ヨーロッパ南東部,バルカン半島の北西部にある共和国。1991年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する 6共和国の一つであった。北はスロベニアハンガリー,東はセルビア,南はボスニア・ヘルツェゴビナに接し,西はアドリア海に臨む。地形は大部分が山地であるが,ドラバ川(ドラウ川),サバ川の流域には肥沃な平野と丘陵が広がっている。住民はおもにクロアチア人で,カトリック教徒が多い。公用語はクロアチア語(→セルボ=クロアチア語),文字はローマ字を用いる。初めは古代ローマの属州パンノニアおよびダルマチアの一部で,6世紀頃からクロアチア人が定住。フランク王国ビザンチン帝国の支配を経て,クロアチア王国を建て,11世紀中頃に全盛期を迎えたが,オーストリアなど支配勢力の交代を経て,1918年ほかの南スラブ人の地方と連合してセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が発足。1929年国名をユーゴスラビア王国と改めた。第2次世界大戦下の 1941~45年には枢軸軍の勢力下で独立国となったが,1945年にクロアチア人民共和国としてユーゴスラビア連邦人民共和国の自治共和国となり,その後 1963年に新憲法によりユーゴスラビア社会主義連邦共和国,クロアチア社会主義共和国と改称した。1991年クロアチア共和国として独立を宣言。これに少数派のセルビア人が反対し,内戦に突入した(→クロアチア紛争)。1994年3月,2度目の停戦協定が結ばれた。産業は農林業がおもで,コムギなどの穀類,ブドウ,オリーブなどを産し,ウシの飼育や,漁業も行なわれる。コタル山地,スラボニア地方などでは林業が盛ん。工業はザグレブを中心に発展。主要都市はザグレブ,スプリットリエカオシエクプーラなど。ドゥブロブニクは観光保養地として知られる。2013年ヨーロッパ連合 EU加盟。(→ユーゴスラビア史

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

知恵蔵 「クロアチア」の解説

クロアチア

東ヨーロッパ、バルカン半島北西部の共和国。首都はザグレブ。九州地方の約1.5倍の面積に約430万人(2012年)が住む。国民の約90%がクロアチア人でカトリックを信仰、約4~5%がセルビア人で東方正教会系(セルビア正教)を信仰している。V字を右に倒したような独特の形の国土は、内陸の北東部とアドリア海に面する南西部とに区分される。
主要産業は観光業で、なかでも世界遺産の都市ドゥブロブニクは「アドリア海の真珠」と称され、世界中から観光客を集める。この他にも、アドリア海沿岸部にはコルチュラ、トロギール、オパティアなどの観光・保養都市が連なっている。内陸部では、美しい町並みが残る「小ウィーン」ザグレブ、プリトビツェ湖群国立公園などが観光スポットになっている。もう一つの主要産業は農業で、内陸部のドラバ川(ドラウ川)、サバ川の流域の肥沃地域では小麦などの穀物、沿岸部ではオリーブやブドウなどが栽培されている。沿岸部では漁業も盛ん。ザグレブでは、機械・石油化学などの重工業が発達している。
かつてクロアチアは旧ユーゴスラビア連邦(1945年成立)を構成する社会主義共和国だった。東欧革命の余波を受け、91年6月に独立を宣言したが、これに少数派のセルビア人が反発。クロアチア軍とセルビア人民兵との間で戦闘が起こった。更に旧ユーゴスラビア連邦軍がセルビア人保護を名目に介入し、本格的な内戦に突入する(クロアチア紛争)。その後、国連の仲裁などを経て、95年に戦闘は終息したが、政権与党のクロアチア民主同盟(HDZ)にはセルビア人難民の処遇問題などが残された。
2000年、独立以来政権を担っていた中道右派のHDZが議会選挙で敗北、野党6党から成る連立政権が誕生し、穏健な民主国家へと舵を切った。その後、03年にHDZが第一党に返り咲いたが、これも左派政党を取り込んだ連立政権となった。
経済は、こうした内戦・政情不安による観光客の減少や投資の伸び悩みで、長らく低迷している。外交では、独立以来、隣国イタリアやドイツなど西欧諸国との関係強化を図っており、13年7月には、念願だった欧州連合(EU)への加盟を果たした。旧ユーゴスラビア連邦諸国の中では、スロベニア(2004年加盟)に次いで2番目の加盟である。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2013年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「クロアチア」の解説

クロアチア
Hrvatska[クロアチア],Croatia[英]

クロアチア語ではフルヴァツカという。1991年に旧ユーゴスラヴィアから独立した共和国。首都はザグレブ。7世紀前半,南スラヴのクロアチア人が定住し,ダルマツィアにまで至る。ビザンツ帝国フランク王国の対抗関係を利用して,10世紀初めにトミスラヴがこの地域を統合してクロアチア王を名乗った。1102年,中世クロアチア王国はハンガリー王国の支配下に置かれた。16世紀にはオスマン帝国の支配を受けるが,17世紀末から1918年までハプスブルク帝国に組み込まれた。一方,15世紀初めにはダルマツィアの大部分がヴェネツィアの支配下に入り,内陸部のクロアチアと分断された。さらに,ハプスブルク帝国はクロアチアに軍政国境地帯を設けたため,多くのセルビア人が入植。近代のクロアチア人にとって,中世クロアチア王国の領域である内陸部とダルマツィアの統合がめざされた。1848年の革命時には,ハンガリーから自治を求める運動が展開されたが失敗。第一次世界大戦後,クロアチア人の居住地域はすべてユーゴスラヴィア王国に統合。しかし,セルビア中心の集権体制に反発が続いた。第二次世界大戦期,ドイツ占領下で傀儡(かいらい)国家「クロアチア独立国」が建国された。戦後,社会主義ユーゴスラヴィア連邦のもとで一共和国となるが,独立を求める傾向は強かった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android