トルコ共和国初代大統領。1881年生まれ。オスマン帝国の元軍人で、第1次大戦に敗れた帝国の解体危機に際し1920年、アンカラ政府を樹立。ギリシャ軍を撃退し、22年にスルタン制を廃止してオスマン帝国は滅亡。23年10月のトルコ建国で大統領に就任。政教分離の世俗主義を国是に西欧的な近代化を進めた。アタチュルクは34年に国会が与えた称号で「トルコの父」の意味。38年死去。(イスタンブール共同)
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トルコ共和国の建国者、初代大統領(在任1923~1938)。オスマン帝国治下のサロニカ(現ギリシア北部テッサロニキ)に生まれ、ムスタファと名づけられた。陸軍幼年学校時代、教師から才能をたたえられケマル(「完璧な」を意味する)の名を与えられた。小学校入学時に税関吏であった父を失った。1905年陸軍大学を卒業、参謀大尉としてダマスカスの第5軍に配属される。ここで祖国と自由委員会を結成。1907年サロニカの第3軍に転属し、統一と進歩委員会(青年トルコ党)に加入した。祖国と自由委員会は消滅した。1908年オスマン帝国第二次立憲体制が成立するが、翌1909年イスタンブールで三・三一蜂起(ほうき)が発生、ムスタファ・ケマルは、ただちに行動軍を編成し参謀長としてイスタンブールの鎮圧に出動、イスタンブール市民への布告文を作成、反乱の拡大を防いだ。しかし、軍人の政治不介入の原則を主張していたことにより、統一と進歩委員会中央委員会と対立して参謀長を解任された。1911年イタリアのトリポリ侵入に対し、抵抗戦に参加。第一次バルカン戦争開始に伴い参謀本部に配属された。バルカン戦争後ソフィア駐在武官となり、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)以後もしばらくその任にあった。1915年、未編成の師団長に任命され、短期間で編成を完了、チャナッカレにてイギリス・フランス連合軍の侵入を阻止し、国民的英雄となった。コーカサス戦線においてはロシア軍を破りアナトリア東部のビトリスを奪還した。34歳でパシャ(将軍)位に昇進。皇太子のドイツ訪問に従った。1916年シリア方面軍司令官としてアレッポ北方で戦線を構築したが、敗戦となった。
連合軍艦隊のイスタンブール入港をみて、1919年5月19日サムスンに脱出、トルコ分割を承認するダマット・フェリト・パシャ内閣の決定に反対し、祖国解放戦争を開始した。エルズルム、シバス会議を経て、1920年アンカラに大国民議会を招集し、スルタン政府が連合国と締結したセーブル条約を否定。ギリシア軍のアナトリア侵入をサカリヤの戦いで撃破し、ムダンヤで連合軍と休戦した。1922年スルタン制を廃止、1923年連合国との間にローザンヌ条約を締結し、トルコ共和国の成立を宣言、初代大統領となった。カリフ制の廃止、民法の改正、太陽暦、メートル法の採用、文字改革など世俗化改革を行った。さらに、農業、工業などの産業振興にも努力し、今日の近代的トルコ共和国の基礎を完成させた。1934年姓氏法の制定により、大国民議会からアタチュルク(父なるトルコ人)の姓を授与される。1938年11月10日イスタンブールのドルマバフチェ宮で病気のため逝去、アンカラのアントカビルに墓所がある。
[設楽國廣]
『J・ブノア・メシャン著、牟田口義郎訳『灰色の狼ムスタファ・ケマル』(1965・筑摩書房)』
第1次世界大戦後におけるトルコの祖国解放運動の指導者。トルコ共和国初代大統領(1923-38)。ケマル・パシャとも呼ばれる。テッサロニキの下級官吏の家に生まれる。1896年テッサロニキの陸軍中等学校,99年マナストゥルの陸軍高等学校,1905年イスタンブールの陸軍大学卒業。ダマスクス駐屯の第5軍に派遣され,06年同地でアブデュルハミト2世に対する反専制運動を目的とする秘密結社〈祖国と自由〉を設立した。07年テッサロニキに移り〈統一と進歩委員会〉に参加,08年の青年トルコ革命後,革命首脳部と相いれず,軍務に専心した。13年ソフィア駐在武官となり,第1次世界大戦中,ゲリボル半島に上陸したイギリス軍を撃退して国際的にその名を知られ(1915),16年准将(パシャ)に昇進した。大戦後,トルコ分割をもくろむ連合国に抗して祖国解放運動を組織し,20年4月,アンカラにトルコ大国民議会政府を樹立して,連合国側にくみするオスマン朝スルタン政府(イスタンブール)に対し反乱を起こした。22年9月,西アナトリアのギリシア軍を追放して祖国解放運動に勝利すると,同年11月にスルタン制を廃止してオスマン朝を滅亡させ,23年7月に連合国との間にローザンヌ条約を締結してトルコの独立を確保,同年10月アンカラを首都にトルコ共和国を宣言し,その初代大統領となった。24年以降カリフ制の廃止をはじめとする一連の改革を実施しトルコ共和国の基礎を築いた。
彼は,いわゆる青年将校出身の革命家タイプで,早くからイスラム教徒である両親と別れ,テッサロニキやイスタンブールの国際都市で青年時代を過ごし,フランス語に堪能な西欧型の知識人であった。一方では妥協を許さぬ強い性格の民族主義者であったが,終生のライバル,エンウェル・パシャとは違って徹底した現実主義者であった。アナトリア在住のトルコ人とともに闘った祖国解放運動の勝利と共和国期の世俗主義的な改革の成功とは,彼のこうした個性によるところが多い。その反面,独裁者として権力を掌握するために,多くの有能な軍人・政治家を失脚させ,彼の死後におけるトルコ革命後退の原因をつくった。34年には大国民議会よりアタチュルク(父なるトルコ人)の称号を与えられ,その権威は今なお絶大である。
→トルコ革命
執筆者:永田 雄三
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…トルコ年代記では,ガージー集団はトルコ語風にガジレルgazilerと記されるが,信仰戦士の性格は希薄である。近代トルコの祖国解放運動の中で,ケマル・アタチュルクはガージー・ムスタファ・ケマルとも称された。【小山 皓一郎】。…
…97年大弾圧によりオスマン帝国内の活動を停止,パリのアフメト・ルザAhmet Rıza(1859‐1930)らの海外活動が中心となり,トルコ人のほか,アラブ,ギリシア,クルド,アルメニア,アルバニアなどオスマン帝国下の諸民族の代表が参加するが,1902年,オスマン人としての立場を強調する中央集権派と諸民族の運動を尊重する地方分権派に分裂した。06年には,〈祖国と自由〉委員会を組織していたケマル・アタチュルクも加わり,テッサロニキに〈統一と進歩委員会〉本部を成立させた。08年ニヤージNiyazi(1873‐1912)らの若手将校の武装蜂起を契機として,憲法の復活を一方的に宣言,スルタンはこれを追認し第2次立憲体制期に入った。…
…歴史学の分野では,ギボンズに代表されるヨーロッパ歴史学界におけるオスマン帝国の〈ネオ・ビザンティン帝国〉論に対する反論を通じて,ファト・キョプリュリュFuat Köprülü(1890‐1965)やトガンらによってトルコにおける近代歴史学の基礎がつくられた。23年にトルコ共和国が成立すると,その初代大統領ケマル・アタチュルクの主唱でトルコ歴史学会(1931),トルコ言語学会(1932)がつくられるなど,トルコ学の組織化が進んだ。第2次世界大戦後,トルコ学の国際化が進み,47年にイスタンブールに国際東方研究協会が設立されて,機関誌《オリヤンス》が発行されるようになり,また,51年にイスタンブールで開催された第21回国際東洋学者会議の決定によって《トルコ学総覧》が出版された。…
…トルコ人は各地にパルチザン運動を組織してこれに対する抵抗を開始。やがてムスタファ・ケマル(のちのケマル・アタチュルク)が,1920年4月23日にアンカラに〈トルコ大国民議会〉政府を樹立してこれらの運動を統合し,連合国の側に回ったオスマン帝国のスルタン・カリフ政府に対して,公然と反乱。連合国は同年8月10日,スルタン政府との間にセーブル条約を締結してトルコ分割案を具体化した。…
…これに対してトルコ人は各地に祖国解放運動を展開した。ムスタファ・ケマル・パシャ(後のケマル・アタチュルク)は,これらの運動を統合し,アンカラに国民政府を樹立して,連合国の傀儡(かいらい)と化したオスマン帝国政府の打倒,ギリシア軍,フランス軍など外国軍隊の追放を実現した。その結果,600年余の命脈を保ったオスマン帝国は滅亡(1922年11月スルタン制の廃止)し,23年7月のローザンヌ条約によって,セーブル条約が廃棄されてトルコの独立が国際的に承認された。…
※「ケマルアタチュルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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