デジタル大辞泉 「ジーメンス」の意味・読み・例文・類語
ジーメンス【Siemens】[人名]
(Karl Wilhelm ~)⇒シーメンズ
(Wilhelm von ~)[1855~1919]電気技術者。の子。白熱電光の理論を完成。
ドイツの大手総合電気機器メーカー。1847年、電気技術者ウェルナー・フォン・ジーメンスと機械技術者ヨハン・ゲオルク・ハルスケJohann Georg Halske(1814―1890)がベルリンに合名会社ジーメンス‐ハルスケ商会を創立し、電信機器の製造と電信ケーブルの敷設を開始した。1860年代後半にはジーメンスはハルスケの持分を譲り受け、その後はジーメンス一族の支配となった。1866年、発電機の発明を契機に、重電部門の比重を高めた。1879年、ベルリン勧業博覧会で、世界初の電気鉄道の実験に成功。1880年代初めには、電気照明、電動機の分野に進出した。1890年に合名会社から合資会社に組織変更をしたが、1400万マルクの出資額はすべてジーメンス一族の所有に帰し、1897年には株式会社形態となったが、株式の大部分は設立者の一族に受け継がれた。19世紀末には、職員2000人、労働者1万2000人を数え、工場はベルリン、ウィーン(1879)、ペテルブルグ(1855)、ロンドン(1858)に置かれた。1903年にはシュッケルト電気株式会社を吸収し、重電部門を総括するために、新たにジーメンス‐シュッケルト社を資本金9000万マルクで設立した。
第二次世界大戦で主力工場を焼失し、巨額の在外資産を失ったが、戦後はドイツ南部のミュンヘンを本拠に再建が図られ、オランダのフィリップス社と並ぶヨーロッパを代表する電機メーカーにまで成長した。1966年、ジーメンス‐ハルスケ社とジーメンス‐シュッケルト社を一本化して、現社名に変更した。
ジーメンスは、重電から家電、エレクトロニクスまでを扱う総合電機メーカーであり、売上げの半分以上は海外という国際企業である。2000年4月にドイツの大手鉄鋼メーカー、マンネスマンの非通信部門を自動車部品メーカーであるロバート・ボッシュ社Robert Bosch GmbHと共同買収することを決定した。生産工場を50か国にもち、販売拠点は190の地域に及んでいる。2009年度の売上高は766億ユーロ、営業利益は25億ユーロ。売上高の内訳はインダストリー350億ユーロ、エネルギー260億ユーロ、ヘルスケア120億ユーロ、その他36億ユーロとなっている。従業員数40万5000人(2009)。本社はバイエルン州ミュンヘン。
日本では「シーメンス」といわれる。1861年(文久1)シーメンス製電信機が初めて幕府に献納された。1887年(明治20)にはヘルマン・ケスラーがシーメンス東京事務所で開設した。彼は古河(ふるかわ)財閥との提携を進め、1923年(大正12)に富士電機製造株式会社(1984年富士電機株式会社と改称)を合弁で設立した。1970年(昭和45)富士電機製造からシーメンス製医療機器事業の譲渡を受け日本シーメンス株式会社が発足。1979年日本シーメンスとシーメンス日本代表部の業務を統合し、現在のシーメンス株式会社に名称が変更された。なお、1914年に軍艦などの兵器輸入に関し旧日本帝国海軍への贈賄(ぞうわい)が摘発されたシーメンス事件でその名を知られる。
[湯沢 威・所 伸之・田村隆司]
ドイツの電気技術者、物理学者、工業家。ハノーバー、レンテの御料地小作人の家に、14人兄弟の4番目に生まれる。学費の要らない砲兵学校を卒業、砲兵士官になった。兄弟の生活を支えるため発明を志し、1842年最初の特許を電気めっき法で得た。1847年に指針電信機の改良とグッタペルカ(樹脂の一種)を巻いた地下ケーブルを発明し、軍人を辞めて機械工のハルスケJohann Georg Halske(1814―1890)とともに電信機の製作と敷設にあたるジーメンス‐ハルスケ商会(後のジーメンス社)をベルリンにおこした。兄弟たちの協力によるロシアとイギリスでの電信網の敷設は、ヨーロッパの電機製作業における彼の地位を確立させた。ついで発電機の実用化に専念して、1867年に自励発電の原理を学会に発表した。この原理の先取権については他の学者との間で問題になったが、工場をもつ彼は、発電機およびこれと可逆的な電動機を急速に普及させた。1862~1867年国会議員としてドイツの工業政策に尽力し、特許法の公布、物理工学国立研究所の創設、工科大学内の電気工学講座の独立などに貢献した。『回想録』(1892)のほか、2巻の論文集が刊行されている。ベルリンで没した。彼の遺品はミュンヘンのドイツ博物館およびジーメンス社歴史館に保存し公開されている。
[山崎俊雄]
ドイツの窯業技術者。ジーメンス兄弟の9番目。1848年イギリスに渡り、イギリスに帰化した兄ウィリアム・シーメンズの会社で働き、1861年ガラス工業用の蓄熱式反射炉を発明し、1864年ドイツに戻って、ドレスデンおよびボヘミアに大ガラス工場を建設し、ガラスの製造法とその装置の進歩に貢献した。蓄熱式ガスランプ(1879)、蓄熱式ガス加熱による連続式ガスランプ(1868)、押型硬質ガラス(1877)、網入りガラス(1886)などの発明も行った。
[山崎俊雄]
固有の名称をもつ国際単位系(SI)の一つである。コンダクタンス(導電率)の単位で、電気抵抗の単位であるオームの逆数。記号はS。1969年に国際単位系(SI)に導入された。1ボルトの電位差のある導線に1アンペアの電流が流れているとき、この導線のコンダクタンスを1Sであるという。オームの逆数であるところから、モーmhoともよばれ、記号にも℧が用いられることがある。名称は、ドイツの物理学者E・W・ジーメンスにちなむ。
[小泉袈裟勝・今井秀孝]
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ドイツの電気工学者。ジーメンス社を創立した企業家。14人兄弟のうちで6番目(7人の男子の中では最年長)に生まれた。リューベックのギムナジウムで学んだあと,砲兵隊に入り,電気の知識を身につけた。1847年に精密機械工ハルスケJ.G.Halskeと共同でジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所(現在のジーメンス社)を設立した。ジーメンス・ウント・ハルスケ電信製造所はロシアに進出して電信を敷設し,成功をおさめた。ジーメンスはまた,弟のW.シーメンズと協力して,ロンドンにシーメンズ・ブラザーズ社を設立した。ジーメンス兄弟は卓越した技術者であり,巧みな政治力も駆使して,ヨーロッパ各国に子会社をもつコンツェルンをつくった。ジーメンス・グループは1903年にシュッケルト社を吸収してジーメンス・シュッケルト社とし,重電部門を強化した。ウェルナー・ジーメンス自身の発明としては,架空裸線にかわるグッタペルカ絶縁電信線(1848ころ)や自励発電機(1867)などがあり,とくに後者は電力の集中生産を可能にしたものとして重要である。ジーメンス社は1879年にベルリンで世界最初の電車の試運転に成功し,81年にはベルリン郊外で電車の営業運転を始めた。ドイツ電気学会や国立物理・工学研究所の設立にもウェルナー・ジーメンスは重要な役割を果たした。このように,彼は学問,研究から実用生産までの全面において,電気工学,電気工業の主要なパイオニアの一人であった。
執筆者:高橋 雄造
ドイツの電気技師。ジーメンス兄弟の10番目。兄ウェルナーとともに,電信技術の新しい市場ロシアに渡った。1853年にはモスクワ~ペテルブルグ間の電信線を開設し,55年までにロシアの電信網の基礎をつくり上げた。69年にはイギリスに渡り,74年には電線敷設用に造った船ファラデー号で,アメリカ~イギリス間の海底電信線の敷設を指揮した。1893-1906年の間は,シーメンズ・ブラザーズ社の会長を務めた。
執筆者:河村 豊
電気抵抗の逆数であるコンダクタンスの国際単位系の単位で,記号はS。1Vの電圧が印加された導体に流れる電流が1Aのとき,その導体のコンダクタンスは1S,すなわち1S=1A/Vである。電気抵抗の単位オーム(Ω)の逆数であるので,℧またはmhoと書かれたが,現在ではSに統一されている。ドイツの電気技術者E.W.vonジーメンスにちなんで名付けられた。
執筆者:平山 宏之
ドイツの技術者。ジーメンス兄弟の9番目。1848年に兄ウェルナーの電信機を販売するためにイギリスに渡った。61年には,イギリス在住の兄ウィリアムとともに,蓄熱反射炉を発明した。その後この反射炉をガラス工業に転用・実用化し,64年にドイツに戻り,ドレスデンのガラス工場を引き継いだ。
執筆者:河村 豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
電荷の流れやすさを表すコンダクタンスの単位.記号 S.従来,コンダクタンスの単位としてはモー(mho)が用いられてきたが,1971年に国際単位系(SI単位)に採用された.
S = kg-1 m-2 s3 A2 = A V-1 = Ω-1.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
ドイツの技術者兄弟。(長兄)Werner von Siemens 1816~92 ダイナモ発電機を発明し,ベルリンで初めて電車を走らせ,ジーメンス・ハルスケ会社を創立(1847年)して,電気機械で世界を制覇した19世紀後半のドイツ産業の指導者。(弟)William Siemens 1823~83 平炉製鋼法(シーメンス・マルタン法)を発明,イギリスに帰化。(その弟)Friedrich Siemens 1826~1904 ガラス工業の創始者。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
(今井秀孝 独立行政法人産業技術総合研究所研究顧問 / 2008年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…広義には,ディーゼルエンジンなどで駆動される発電機からの電気エネルギーを利用するもの(ディーゼル電気機関車など)や蓄電池により電気エネルギーを得るもの(蓄電池式電気機関車)を含めることもある。
[歴史]
1835年アメリカで,レールの上を電池と電磁機械で動く模型が作られたのが最初といわれており,その後もいくつかの試みはあったが,実用的な電気機関車としては,79年ドイツのE.W.vonジーメンスがベルリンの博覧会で走らせた約3馬力のものが最初である。これは電圧125V,直巻2極の円筒電動機による歯車駆動で,300mの区間を3両の列車に約20名の乗客を乗せて7km/hの速度で牽引した。…
…また広義に鉄道車両というときには,機械的または磁気的に案内された走行路を走る車両をいうので,ケーブルカーやロープウェー,モノレールの車両をはじめ,最近のいわゆる新交通システムや磁気浮上鉄道用の車両も電車といえる。
[電車の変遷]
実用的な電車の登場は,1881年ドイツのベルリン郊外のリヒテルフェルデ市街鉄道において,約4kmの区間に,E.W.vonジーメンスによる木造の小型電車が運転されたのが最初である。アメリカでも87年にリッチモンドで試運転が行われ,翌年営業を開始,その後,ヨーロッパやアメリカの大都市およびその近郊で馬によらない路面電車および郊外電車を中心に発達していった。…
…回転子位置検出器と同期電動機とサイリスター電力変換装置を組み合わせたものをサイリスターモーターまたは無整流子電動機という。
【歴史】
1821年にM.ファラデーが原理的な電動機を製作し,36年にアメリカのダベンポートT.Davenport(1802‐51)が直流電動機を作って電池の電力で旋盤を回したが,直流電動機が広く実用されるようになったのは,67年にE.W.vonジーメンスが,電池の助けをかりずに発電する自励式直流発電機を考案してからである。82年にはN.テスラが二相誘導電動機を考案し,85年にはG.フェラリスが分相形単相誘導電動機を考案し,M.ドリボ・ドブロウォルスキーは91年に三相誘導電動機を,93年に二重かご形誘導電動機を考案した。…
…電流の流れやすさを示す量で,電流と電圧との比。単位はジーメンス,単位記号はS。かつてモー(℧)という単位が用いられた。…
※「ジーメンス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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