目次 住民 歴史 スラブ人の進出と中世モラビア,ボヘミア王国 ドイツ化とその反動 民族運動の進展 基本情報 正式名称 =チェコ共和国Česká Republika/Czech Republic 面積 =7万8865km2 人口 (2010)=1052万人 首都 =プラハPraha(日本との時差=-8時間) 主要言語 =チェコ語(公用語) 通貨 =チェコ・コルナCzech Koruna
チェコは,チェコ語で正しくはチェヒČechyと呼び,英語ではチェックという。チェコ共和国は,西部のボヘミア ,東部のモラビア の二つの地方からなるが,狭義にはボヘミアだけをさしてチェコと呼ぶこともある。
チェコはスロバキアとともに連邦を形成していたが,スロバキアにおいて独立志向がしだいに強まり,1992年末に連邦は解体,93年1月1日,チェコ共和国として再出発することになった。
住民 総人口(1989)のうち,主要民族は西スラブ族のチェコ人で94.0%を占める。次いで多いのが同じ西スラブ族のスロバキア人で4.1%。少数民族としては,ポーランド人0.7%,ドイツ人0.5%,ハンガリー人0.2%,ウクライナ人・ロシア人0.1%がいる。宗教ではカトリック教徒が総人口の40%を占め,次いで伝統的なフス派の流れをくむプロテスタント 系のチェコ兄弟団2%,フス派教会1%である。
歴史 スラブ人の進出と中世モラビア,ボヘミア王国 前1世紀には先住ケルト族(ボイイBoii。ボヘミアの語源となる)を圧迫したゲルマン諸族が住んでいたが,やがてスラブ諸族がカルパチ山脈 を越えてゲルマン諸族の居住地に徐々に浸透していった。だが,文献上この地にスラブ人の存在が確認されたのは6世紀のことで,彼らはいわゆるゲルマン人の大移動で空白になったこの地に定着し,西スラブ族を形成したとされている。
9世紀前半にカロリング朝 のフランク王国 の東方進出に対抗して西スラブ族の手で大モラビア帝国 が建設された。4代続いたこの帝国の領土は現在のスロバキア,モラビア地方を中心にボヘミア,ポーランド,ハンガリーにまたがっているとされる。第2代ロスチスラフRostislav王(在位846-870)は東フランク王国の支配を脱するためにビザンティン帝国 との関係を強化した。彼はそのころ盛んになったフランク人によるキリスト教布教活動に対抗し,ビザンティン皇帝 に要請して,テッサロニケ生れの宣教師キュリロス とメトディオス の兄弟を宮廷に招いた。キュリロスはみずからが考案したスラブ文字(グラゴール文字 )を用いてスラブ語による布教を行った。だがキュリロスの死(869)後,大モラビア帝国ではラテン式典礼が導入され,ローマ教会との結びつきが強まった。
10世紀初頭,この大モラビア帝国は,ビザンティン帝国をうかがいつつパンノニア平原に西進してきたハンガリー人に滅ぼされた(907)。ハンガリー人の占有した地域の西スラブ族はビザンティン帝国との文化的接触を断たれ,さらに第1次世界大戦終了まで約1000年間ハンガリー人の支配を受ける中で,スロバキア人として独自の民族性を形成していった。一方,ボヘミアでは大モラビア帝国末期の9世紀末にはすでにその支配を離れていた西スラブ諸族が,内部抗争を続けつつ統一の方向に進んでいた。その中で,チェコ人を中心として諸部族を統合したのがプシェミスルPřemysl家で,10世紀末までにはプシェミスル家の手でボヘミアは統一された(プシェミスル朝 ,900?-1306)。彼らは10世紀の後半にはモラビア,オーデル(オドラ)川上流,南ポーランドをも一時期支配下におさめた。歴代のプシェミスル侯はドイツの東方進出からの防衛を図り,国内で君主制を確立するためにドイツ王(962年以降は神聖ローマ皇帝をかねる)に臣従し(929),プラハに司教座を設置する(973)など,積極的にカトリックの受容を図る政策をとった。ことに布教に熱心であったバーツラフ1世 (在位921-929)は,初代キリスト教君主となったが,ドイツの支配を離れようとした弟ボレスラフ1世Boleslav Ⅰ(在位929-967)に殺されたためカトリックの殉教者に列せられ,後世ボヘミアの守護聖人となった。
経済面から見ると中世のボヘミアは貴金属の採掘で富み,君主はこの財政力と皇帝の援助をもって帝国内の地位を高めることができた。1158年にボヘミアの君主は神聖ローマ皇帝より世襲の王位(ボヘミア王)を,1204年にはボヘミア王国の独立も承認された。また隣接するモラビアは1182年にボヘミアより独立して帝国の辺境伯領となったが,実質的にはボヘミア王の支配する属領となった。13世紀半ば,ボヘミアはオーストリア公国のバーベンベルク家 の断絶(1246)に乗じてオーストリア公領を奪い,ハンガリーを破ってさらに領土を拡大した。
このようにボヘミアが中欧における一大強国になった背景には,ハンガリーやポーランドとは異なり,モンゴルの来襲にあわなかったために国土の荒廃をまぬがれたことと,13世紀に隆盛を見たドイツの東方植民 があった。国王は財政政策の一環としてドイツ人の農民,職人,市民の移住を奨励し,都市建設や鉱山開発に彼らを従事させた。ことに鉱山業の発達はヨーロッパにおけるボヘミアの地位を著しく高めた。銀の産出は当時ヨーロッパ一を誇り,ボヘミアで鋳造された純度の高い銀貨は,国際通貨としてヨーロッパ市場を圧倒した。ドイツからの移民には多くの場合ドイツ法による自治と特権が賦与され,主要都市ではドイツ人商人が上属市民層を構成し,国王,大貴族の保護を受けて国外交易を独占した。ドイツ植民がもっとも盛んだったのは,ボヘミアでは,北,北西,西部国境地域で,のちの民族問題,国境問題の焦点になるところであった。
13世紀後半にでたボヘミア王オタカル2世 はドイツ移民をすすんで招き入れ,鉱山,都市から得た財力を基礎に,軍備を整え,領土をアドリア海から北海まで広げ,ついには帝位をうかがうにいたった。だが帝国の政治の中心が東方に移るのを恐れたドイツ諸侯がエルザス(アルザス)の小領主ハプスブルク家 のルドルフを皇帝に選出し,オーストリア公国を継承させることによってオタカル2世の野望はくじかれた。その後プシェミスル朝はハンガリー・ポーランド王を兼ねたバーツラフ3世Václav Ⅲ(在位1305-06)が暗殺されると断絶し,以後,外来の君主がボヘミアを統治することになる。
ドイツ化とその反動 中世におけるボヘミアの繁栄は14世紀のドイツ系のルクセンブルク朝(1310-1437)のもとで促進された。百年戦争中フランスの宮廷で成人した同朝のボヘミア王カレル1世(在位1346-78)は,ハプスブルク家の躍進を危惧したドイツ諸侯によって1346年皇帝に選出された(皇帝としてはカール4世 )。彼は1356年に金印勅書を発布してボヘミア王位を7選帝侯 の首位におき,帝国の強化の基礎をボヘミアにおいたのである。彼の時代,ボヘミア王国はシュレジエン ,ラウジッツ,ブランデンブルクを加え,領土が拡大されるとともにフランス,ドイツ,イタリアの文化が帝国の首都プラハに集まった。1348年にはパリ大学を模した帝国内で最初の大学がプラハに設立され(カレル大学,プラハ大学 ),ヨーロッパ各地から教師,学生を招き入れるなど,ボヘミアは中欧における人文主義の一中心地となった。またカレル1世はプラハを大司教座に昇格させて,教会権力を握る一方,ノベー・ムニェスト(新市街),石橋(カレル橋)の建設などにより帝都の外貌を整えた。さらにカレル1世はドイツ語とともにチェコ語も尊重し,王国の公用語とした。このようにボヘミアをヨーロッパ第一級の国家におしあげたカレル1世の政策をたたえて,後世チェコ人はこの時代をボヘミアの黄金時代と呼び,カレルを〈祖国の父〉と称した。
ただこの時代のボヘミアの政治・経済・文化的発展もドイツ化の促進と並行しており,大貴族,上級聖職者など支配層の多くがドイツ系に属し,都市の有力なドイツ系商人はドイツ経済と強く結合していたためにボヘミアはドイツ経済圏にしっかりと組み込まれた。ドイツ化の勢いはやがて民族的反動をひきおこす原因となった。
ドイツ化に対するチェコ人の反撃はカレル大学の総長であったフス の宗教改革,それに続くフス派戦争 で一挙に噴き出した。中世後期の異端運動の流れをくむフスは,国王の厚い保護を受けて所領を拡大し,悪弊にひたる聖職者を攻撃し,免罪符の販売に反対してプラハ大司教と衝突したためにローマ教皇から破門され,1415年異端の罪でコンスタンツ で火刑に処せられた。このことはフスの教説の信奉者を激怒させ,ここにローマ教会と神聖ローマ帝国軍を敵とするフス派戦争が勃発した(1419-36)。フスの宗教改革はほぼ1世紀後にドイツで行われたルターの改革運動の先駆をなしているばかりか,その教えはカトリックの反宗教改革のもとで弾圧されながらもチェコ兄弟団 の中に生き続け,今日アメリカ北部を中心に活動しているモラビア教会 の基礎をつくっている。
15世紀半ばには穏健派のフス教徒で大領主のイジー (在位1458-71)が一時ボヘミア王となるが,やがてポーランドのヤギエウォ家の王がボヘミア王とハンガリー王とを兼ねる時代が2代続くことになる。
この時代にビザンティン帝国を滅ぼしたオスマン帝国は,バルカン半島 の諸民族を服属させ,さらに勢いを西に伸ばした。ヤギエウォ朝のボヘミア・ハンガリー兼王のルドビーク1世 (ラヨシュ2世)がトルコ軍との戦いで敗死すると,トルコから中欧を共同防衛するためにボヘミア議会は,オーストリア・ハプスブルク家 のフェルディナント1世を国王に選んだ。ハンガリー議会もこれにならい,ここに強力な対オスマン・トルコ同君連合ができあがった。2度にわたるオスマン・トルコのウィーン攻撃を退けたオーストリアは,中欧における地歩を固め,経済的にもっとも重要なボヘミアで専制主義を強化するために,カトリック教会の力を利用して,ボヘミアの貴族や自由都市の自治権を制限した。
ボヘミアとオーストリアの対立は,中・東欧における宗教改革の影響下で促進された。17世紀前半にヨーロッパ全体を巻き込んだ三十年戦争 (1618-48)は,オーストリア・ハプスブルク家の反宗教改革的中央集権化政策に対するボヘミア・プロテスタント貴族の反発を直接の契機としている。すなわち,プロテスタントの抑圧者,皇帝フェルディナント2世が,1612年ボヘミア王として即位し,反宗教改革が推進されると,ボヘミアのプロテスタント貴族は,彼の即位を拒否し,カルバン派のファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア国王に選んだ。これに対し,フェルディナントはフランス,スペインの支援を受けてボヘミアを攻撃し,プラハ近郊のビーラー・ホラの戦 でボヘミア貴族軍を粉砕した。だが戦火は拡大し,30年にわたる戦争が勃発した。ボヘミアは新旧教徒が入り乱れる長期の戦争で幾度となく戦場となり,人口は激減し,耕地も荒廃に瀕した。戦争の結果,プロテスタント派はことごとく弾圧されるか,国外への移住を余儀なくされた。近代教育学の祖とされるチェコ兄弟団の一員コメンスキー(コメニウス )もこの戦争でボヘミアを追われた一人であった。プロテスタント文化は根絶され,カトリック化とドイツ化が並行して国内をおおった。人口が減少した地域には新たにドイツ人が入植した。教会と絶対王政のもとで農奴制が強化され,自足的な経済活動が広く行われるようになった。ボヘミアの伝統的な民族的歴史学はこの時代をチェコ人の民族的独立が失われた〈暗黒時代(チェムノ)〉としており,19世紀にチェコ人の〈覚醒者(ブジテレー)〉が民族的〈再生運動 〉を行うまでの暗い時代のはじまりとしている。
民族運動の進展 経済的にはボヘミアでは17世紀末から復興の兆しが現れはじめ,18世紀に入るとオーストリア継承戦争でプロイセンに奪われたシュレジエンに代わってボヘミアに繊維工業が発達した。経済的発展は精神文化の活性化にも作用し,啓蒙主義,ドイツ・ロマン主義の運動が18世紀末のボヘミアにおいてもチェコ民族の起源や言語,文化遺産への関心を呼び起こした。19世紀はじめにドイツのイェーナ大学やハレ大学に留学していたチェコ人,スロバキア人の知識層はヘルダーらドイツ・ロマン主義の強い影響を受けて,文化的スラブ民族運動の担い手となったのである。ユングマンJosef Jungmann(1773-1847)は《チェコ語・ドイツ語辞典》をつくり,パラツキー は膨大な《チェコ民族史》を書いた。
1848年にヨーロッパに生じた革命的状況の中でオーストリア帝国内の被支配民族たるチェコ人,スロバキア人,ハンガリー人,クロアティア人,ポーランド人らが,それぞれの政治的要求をかかげる新たな民族運動の段階に足を踏み入れた(48年革命 )。ボヘミアではオーストリアの中央集権化に反対する貴族の支援を受けたチェコ人自由主義知識人が,ボヘミアの完全な独立を要求せずに,オーストリアの保護のもとにスラブ民族の自治を獲得する方向を目ざした。この年の6月にプラハで開かれた初めてのスラブ人会議 は,その志向の表れであった。
だが,1866年の普墺戦争での敗北により,ドイツにおける盟主の地位をプロイセンに譲ったオーストリアは,国の再編成を図る必要から,1867年にハンガリーとアウスグライヒ(〈妥協〉〈和協〉の意)を行ってオーストリア・ハンガリー二重帝国 を成立させた。スラブ民族を含めた民族的自治構想を葬り去られたチェコ人自由主義ブルジョアジーは,パン・スラブ主義 的野心を抱くロシアに接近する一方,オーストリアの処置に不満をもつ諸民族の先頭に立って政府に抵抗した。19世紀の後半,ボヘミアでは近代的な食品工業,鉱山業,機械工業が起こり,1867年にはチェコ民族資本の銀行が設立されるなど,めざましい経済発展があった。したがって政府はチェコ人ブルジョアジーの要求を無視しえず,かねてからチェコ人知識人,ブルジョアジーの闘争目標であったチェコ語とドイツ語の公用語化の要求が獲得されると,当然ボヘミアのドイツ人は,政府のこうしたチェコ人慰撫政策に強い抵抗を示した。チェコ人とドイツ人の対立の激化は1882年にプラハ大学がチェコ人系とドイツ人系に二分されたことに現れている。さらに普通選挙制(制限制:1896,平等:1907)が導入されると,多数の政党に各民族大衆の意思が反映され,民族闘争が日常化することになった。以後オーストリア・ハンガリー二重帝国の支配にくみ入れられたチェコ人は,やがて,ハンガリー治下にあったスロバキア人と互いに呼応しながら民族独立の闘争をすすめていくが,これについては,チェコスロバキアの項目でのべることにする。 →チェコスロバキア 執筆者:稲野 強