国民社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiの通称。略称はNSDAP。ナチNazi(単数および形容詞)またはナチス(複数)は、ドイツの政敵や欧米の反ヒトラー派がこの党に与えた卑称である。日本では公式の略称としては単数、複数を問わずナチスとよんでいた。今日では世界的通称としてナチおよびナチスが使用され、ドイツではそのかわりにNS(エヌエス)が使用される。ナチスはもっとも徹底したファシスト政党で、ナチス支配は1933年から45年まで行われて、第三帝国と称せられる。ナチス党の精神と主張あるいはその支配体制をナチズムとも称する。
[村瀬興雄]
ナチスは、19世紀末のヨーロッパに広まっていた反ユダヤ主義、白色人種至上主義、帝国主義、さらに資本主義社会と社会主義運動との間にあって苦しむ中産階級の反社会主義・反民主主義などの思想と運動を基礎としていたが、同時にドイツ特有の思想と運動にも立脚している。すなわち、急激な工業化のために没落しつつある中間層の救済を求める運動、労働運動のなかにまで侵入した国家主義、あるいは、第二帝政下の軍部・官僚、さらに民間各層に共通する軍国主義・官僚主義・権威主義・反西欧主義・ドイツ民族至上主義などの矛盾した思想と運動がそれである。
ナチスの中心理論の一つは人種論である。強者であるドイツ民族はヨーロッパ各地を征服して、広大な生存圏を獲得しなければならない。弱者であるスラブ民族はドイツ民族に支配される運命にあり、ユダヤ人などの「劣等民族」は、隔離するか絶滅するほかない。優秀な民族は、劣等な民族と結婚して自分の優秀な血液を濁してはならない。ドイツ民族は、民族共同体の一員として、一致団結して民族の発展に努めなければならず、上部の命令に従い、下部に対しては責任をもつという「指導者原理」による独裁政治がそのために必要となる、とナチスは説いた。しかし、党内部には農業至上派、近代技術至上派、官僚的保守派、社会主義的労働者派などがあって、それぞれ別々な要求を提出しており、党員の多くは日常の利害関係に従って行動する出世主義的な日和見(ひよりみ)主義者であった。
[村瀬興雄]
ナチスは第二帝政以来のドイツの特色を維持しつつ、その内部で大胆な近代化と改革とを行うことを主張した。すなわち、手工業者・小商工業者・中小農民の保護、旧道徳や習慣の廃止、下層中産階級の生活向上とこの層の有能な人物の大規模な登用、社会政策と福祉政策の拡張充実などを要求していた。その支持者には、高度工業社会で不遇な生活をしている都市と農村の中産階級や、労働組合に飽き足りない労働者、失業者までが含まれていた。大資本家層と軍部などは、ナチスと共通の目標(階級闘争の排除、軍国主義的秩序の再建、民主共和制の転覆、経済の発展、軍備の大拡張、ドイツのヨーロッパ制覇)をもっていたので、積極的にナチスを支持する者が少なくなかった。しかし、保守帝政派を支持しナチスには距離を置く者のほうが支配勢力の主流をなしていた。
ナチスは、下層中産階級の男女、農村の少年や婦人を積極的に運動に巻き込み、腐敗した既成社会に反逆する態度をとり、民衆の生活を保護し向上させることに努めた。しかし全国的に画一的な運動方針がとられたわけではなく、プロテスタント農村では中農から大農の支持者が多く、カトリック地帯では貧農や農業労働者の支持者が多かった。
[村瀬興雄]
党の前身は、1919年1月5日ミュンヘンで結成されたドイツ労働者党Deutsche Arbeiterparteiである。これは、全国的な極右反ユダヤ団体のバイエルン地方組織であるトゥーレ協会Thule Gesellschaftを基礎とし、反ユダヤ主義と、労働者および中産階級の救済とを目的とする極右政党であった。1918年11月のドイツ革命に対し、19年5月バイエルンで反革命が成功すると、党は活発な活動を始め、同年9月中旬にヒトラーが入党して以来、大衆活動によって運動は発展を遂げた。20年2月24日、25か条からなる党綱領(二十五か条綱領)を公布し、このころから党名を国民社会主義ドイツ労働者党と改称した。だが、ヒトラーと旧幹部との間に、党の組織と運営をめぐって争いが起こり、21年7月29日に臨時党大会が開かれて、ヒトラーの独裁的な地位が確立した。党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』の主筆で右翼評論家かつ芸術家のエッカートDietrich Eckart(1868―1923)は、バイエルンの上流社会、知識人、保守派をヒトラーに結び付けた。またバイエルン軍部の参謀レームも軍部の内部からヒトラーを支持した。バイエルン北部のフランケン地方の反資本主義的反ユダヤ運動の指導者シュトライヒャーJulius Streicher(1885―1946)らも22年10月に合流した。こうして運動はミュンヘンを中心としながらバイエルン各地で大発展を遂げ、生活難に苦しむ中産階級各層に対してベルサイユ条約反対、ユダヤ人反対、ワイマール共和制反対を説いて成功を収めた。大資本家の支持も強化された。23年1月フランス軍のルール占領が強行され、インフレーションが猛烈な勢いで進行すると国民生活が破綻(はたん)した。党は軍部、大資本家、極右政治家による右翼独裁の樹立運動に参加して、23年11月8~9日、ミュンヘンで一揆(いっき)(ヒトラー一揆)を起こした。しかし軍部、警察、官僚の中枢部の支持が得られなかったので、一揆は失敗した。党は一時禁止されたが、ヒトラーが出獄したあと、25年2月27日に再建された。
[村瀬興雄]
出獄後のヒトラーは、『わが闘争』Mein Kampf(1925~26)を出版して運動方針を示し、合法主義を守りながら大衆組織を発達させて、民主主義国家を内部から占領する戦略をとった。SA(エスアー)(突撃隊)のほかにヒトラー・ユーゲント、ナチス学生同盟が組織され、また党員による労働者獲得のために、経営細胞の統一組織が組織された。しかし労働者は、ナチス政権の成立後になってもナチスには同化されなかった。ライン地方を中心とした北ドイツ各地で、農民への土地分配、重要産業の公有化とその利益の使用人への分配などを主張する党内左派が、シュトラッサーを中心として発展した。しかし1926年2月のバンベルク党会議においてヒトラーの指導権が確立し、左派の論客ゲッベルスがヒトラー支持に回り、同年11月から、マルクス主義勢力の優勢な首都ベルリンの大管区指導者として、宣伝と組織活動を開始した。ベルリンの強力な党組織は運動の模範とされたが、党勢は全国的には伸び悩んだ。27年末に運動の方向転換を行い、宣伝の焦点を中産階級へと絞った。そのため、中間層の支持者がしだいに増加してきた。たとえば、30年9月の総選挙で党はシュレスウィヒ・ホルシュタイン州農村部で35.1%の支持を獲得、さらに32年7月の総選挙では63.8%に増加している。全国の都市部をみても党勢は増し、ベルリン市会では社会民主党・共産党による過半数が維持されていたが、ナチスは同市において28年から3年間、選挙ごとにその得票を毎年3倍ずつ増大させた。そして、32年7月の総選挙では37.4%の票を集め、他を引き離して第一党となった。党員数も28年末に10万人余りであったが、33年初めには150万人に達した。かくて、大統領ヒンデンブルク周辺の保守帝政派、軍部、経済界中枢部は、ナチスを中心とする連立内閣の樹立に踏み切り、33年1月30日、ヒトラーは首相に任命された。
[村瀬興雄]
党の組織が膨張するにつれて、その構成も複雑となった。政権確立後の組織は、だいたい次のごとくである。人口160人から240人(世帯数40~60)ごとに「ブロック」をつくり、4~8ブロックをもつ地区に「細胞」を置いた。ブロックの大きさは、党が各世帯を十分に把握できる規模にとどめた。ブロックと細胞にそれぞれ指導者が置かれ、細胞の上に地区支部が置かれた。地区支部の規模は、1937年の規定によれば、最高3000世帯(38年には1500世帯と半減)、党員は500人を限度として、できるだけ村落自治体ごとに置かれた。党の下級組織は概して弱体で、地区支部指導者の下に2、3人のブロック指導者がいるだけの場合が多かった。地区支部指導者以下の地位は無給の名誉職であったから、そこには専従事務員もいなかったし、党の指令の遂行もきわめて不十分なものとなった。地区支部の上に郡支部があり、その指導者(長)は有給専任職で、郡以上の党組織はしっかりしていた。郡の上には大管区があり、大管区指導者は37年末まで全国で32人、39年以後は41人となり、多くの幕僚に支えられて大きな権力を振るっていた。全国の党組織を総括するのが総統代理幕僚部で、党の各種団体もここで統制された。党構成団体(党内部の組織)としては、SS(エスエス)(親衛隊)、SA(エスアー)(突撃隊)、ナチス婦人団、ヒトラー・ユーゲント、ドイツ処女団、ナチス学生同盟、ナチス大学講師同盟、ナチス自動車運転者同盟があり、党付属団体(形式上は独立している)としては、ドイツ労働戦線、ナチス教員同盟、ナチス法律家同盟、ナチス医師団、ナチス民衆福祉団、ドイツ官吏全国同盟、ナチス・ドイツ技術者団、ナチス戦争犠牲者保護連盟があった。
[村瀬興雄]
ヒトラーは1933年1月に組閣ののち、ドイツ国議会を解散し、国会議事堂放火事件を利用して反対派に対する大弾圧を強行、同年3月の総選挙に勝利を収めた。保守帝政派と結んで議会を支配し、SAをはじめとする各種の大衆団体を動員して、街頭行進、反対派の逮捕、反対派組織への襲撃を全国的に展開して政権の基礎を固め、同年3月23日に議会で全権委任法を成立させて独裁制を樹立した。また、5月2日には労働組合を廃して、労働者をドイツ労働戦線に編成替えした。7月14日には新政党の結成がすべて禁止され、ナチス党の単独支配体制が確立した。支配勢力の圧倒的な支持を確保したうえ、職業の安定と地位の昇進を求めて入党者が激増し、35年初めには党員の3分の2が政権獲得後の新入党員となった。
その間、在野時代にナチス運動を支えてきたSAは、その自主的で攻撃的性格のゆえに1934年6月末から7月初めにかけて幹部多数が虐殺され(レーム事件)、ナチス党内保守派が全権を握り、保守帝政派と結んで国内の官僚化、軍事化を促進した。もとSA内部の組織であったSSは、レーム事件ののち独立組織となり、そのうちの秘密国家警察(ゲシュタポ)は政治的反対派を法律上の手続抜きで逮捕、拘禁し、危険人物や反社会的人物を強制収容所に入れて虐待した。34年8月2日にヒンデンブルクが死去すると、ヒトラーはフューラーFührer(指導者の意、大統領と首相職を兼ねる。総統と訳す)となった。
国防軍は、1935年3月の一般義務兵役制の導入以来5倍に増強され、若い将校や下士官が急速に昇進するにつれて将校団のなかにヒトラー崇拝者が増え、プロイセン軍部の伝統を守る高級将校団と対立した。同じく大拡張された海軍および新設された空軍にはナチス支持者がさらに多く集まった。農業、商業、工業その他の営業部門は、それぞれの職業別団体に強制組織されて、国家の指導と監督下に活動することとなった。都市も自治権を失い、市長、助役、参事会員などが党や国家によって任命されることとなり、新聞や文化全体がゲッベルスの宣伝啓発省の統制を受け、芸術家たちはドイツ国文化院に組織され、大学でも学長は国家によって任命された。各官庁と統制機関とは「指導者原理」によって組織され、全ドイツが息の詰まるような独裁体制に編成替えされたようにみえた。しかし、ナチス官庁と統制機関それぞれとの間に激しい対立と競合の関係があったため、互いの主張のつぶし合いとなり、第三帝国の現実の政治の常識化をもたらした。第三帝国では、ヒトラーの命令が無条件に遂行されるたてまえであったが、現実には従来の政治、社会、文化上の各圧力団体、政治勢力が各自の利益を強硬に主張しあったから、実際には伝統的社会が維持されて、その枠の内部で近代化が必要に応じて進められたにすぎなかった。党下部組織が弱体であったので、ヒトラーの命令は地区支部の段階になると、伝統的支配勢力の利害と相反する場合には、しばしば実行できなくなった。
[村瀬興雄]
まずワイマール共和制末期の失業救済計画が大規模に拡張されて、道路建設、土地改良工事、飛行場・兵営の建設が進められた。1935年6月に青年(および部分的には婦人)に対する6か月の義務的勤労奉仕制度が導入され、翌年8月には1年制兵役が2年制に延長された。各種の統制団体や官庁組織も膨張したので、33年初めに600万人を超えた失業者は35年1月に297万人、39年1月には30万人に減少して、多くの産業では労働力不足が痛感された。
ライヒスバンク(ドイツ国立銀行)総裁シャハトは経済相を兼ねて、インフレを避けるために賃金と物価を凍結させ、企業利潤への課税を増やして大規模な経済建設を進めた。国防予算は他の財政支出を圧倒して増大した(1932年6億マルク、34年33億マルク、37年109億マルク)。シャハトはあまりに急速な軍備拡張に反対して辞任し、ナチス党経済政策委員長フンクWalter Funk(1890―1960)がかわって経済相となった。
商業上ではバルカン諸国と物々交換協定を結び、この地方をドイツの経済的勢力圏へと組み入れた。さらにダンピングによって外貨を獲得し必需物資の購入にあてる方法もとられた。工業上では鉄と石炭の増産が図られ、鉄鉱石の産出額は6年間で6倍に増大、石炭産出額も激増した。政府は、採算を無視して劣悪な原鉱石の精錬を強行し、国営ヘルマン・ゲーリング工場が設立されて、ドイツ最大の工業企業となった。合成ゴムや、石炭液化による人造石油の生産も進んだ。重工業界にはナチス党の戦争政策に賛成する者も反対する者もあったが、化学工業界には戦争支持派が多かった。ナチスは、国民の人気を維持するために消費生活を重視し、耐久消費財や住宅建設にも力を注いだ。また大企業を優遇し、彼らの経営自主権を尊重したから、大企業は各種の国家統制を受けたにもかかわらず繁栄し、強大な実力をもち続けた。再軍備が進むとともに完全雇用状態が出現し、労働力不足が痛感されたので、労働者の収入と社会的地位も向上した。民衆がナチスを支持したのは、主として生活水準の向上のゆえである。農業上では農業生産者団が組織され、農産物の販売、市場統制、価格がそこで決定され、農産物価格は安定した。労資協調団体としてのドイツ労働戦線は、労働運動の強力な伝統を無視することができず、しばしば労働組合的役割を演じて資本家と対立した。労働戦線内の「歓喜力行団」Kraft durch Freudeは、労働者の余暇利用や生活の向上に貢献して注目された。
[村瀬興雄]
ナチスは労働者の賃金を固定したうえに1935年2月労働者に労働手帳を交付し、彼らの職場移動をきわめて困難にしたが、労働力が不足し各工業が労働者の非合法な引き抜きを競うようになると、労働者はサボタージュや小規模のストや仮病つかいなどによって職場移動の許可をかちとった。また労働能率を低下させ、賃金を増額させて生活を防衛した。農業労働者や僕婢(ぼくひ)も工業への転職を禁止されていたが、工業側の誘いに応じて非合法な転職を実現し、農業労働力が極端に不足していたのでその賃金は暴騰した。
文化生活の面では、1933年5月に「好ましからざる」書物が宣伝啓発省の指導下にナチス学生同盟によってドイツの大学都市の街頭で焚(た)かれ、公共図書館からそれらの書物が撤去された。執筆禁止処分を受けた著作家や国外に亡命した知識人も少なくなかったが、書店では街頭で焚かれた書物も販売され、非ナチス的知識人の良心的な研究書や芸術作品が広く読まれていた。外国の文学書や刊行物はナチスを直接に攻撃していない限り輸入され、翻訳された。
音楽については、ジャズは黒人的として弾圧されたが、一般の演奏会や、カフェー、ダンスホールでは演奏されることが多く、とくにテンポの早いスウィングが好まれて、その演奏につれて人々は熱狂して踊り狂った。映画でも政府の推奨するナチス映画は喜ばれず、アメリカ映画がいつも満員となった。
ヒトラー・ユーゲントは、法律によって青年の教育と訓練を管理する独占的組織となったが、1939年3月、10歳から18歳に至るすべての青少年男女を残らず入団させる強制組織となった。青年男女は同団の各種の奉仕活動や軍事予備訓練を嫌い、しばしばその動員令を拒否して、自分らのかってな服装をして自由なグループで集まり、楽しみ、気の向く所へと旅行した。一般に、各種の統制機関や官庁諸組織が相互に競争し対立していたことが、第三帝国の各方面で統制から自由な領域を残す結果となった。
[村瀬興雄]
第三帝国初期の外交では、戦争を避けながら国力を強化し、国際的地位を高める方針がとられた。国際対立も巧みに利用された。1933年10月、軍備平等権が認められないとして国際連盟を脱退した。35年3月にはベルサイユ条約の規定を破って一般徴兵制を採用、陸軍を一挙に5倍に拡張し、同年6月英独海軍協定によって海軍も4倍に拡張した。36年3月にはロカルノ条約を破棄してラインラント非武装地帯に進駐し、独仏国境を要塞(ようさい)化した。同年8月に行われたオリンピック・ベルリン大会は、ドイツの国力を内外に示す機会となった。スペイン内戦でのフランコ軍(反乱軍)側に対する援助はイタリアとの接近をもたらして36年10月25日独伊条約が成立、ベルリン・ローマ枢軸の結成となり、同年11月25日の日本との防共協定が英仏に対するドイツの地位をさらに強化した。38年2月、支配勢力内部の穏和派が罷免されてドイツの強硬な外交姿勢が明らかになった。38年3月13日、ドイツはオーストリアを軍事占領して合併した(アンシュルス)。ついでチェコスロバキアのドイツ民族居住地ズデーテン地方を同年9月のミュンヘン協定によって併合し、ドイツの国力はヨーロッパを圧倒するほどになった。39年になるとスロバキア民族の独立運動を口実に3月チェコ地方を占領してドイツの保護領とし、スロバキアを独立させてドイツの保護国とした。ついでポーランド回廊とダンツィヒ(グダニスク)のドイツへの復帰を要求し、5月22日イタリアと軍事同盟を結び、8月23日独ソ不可侵条約を結んで戦略上有利な立場にたったうえで、9月1日ポーランドに侵入して第二次世界大戦を引き起こした。40年9月27日、日独伊三国同盟を結び、41年6月22日ソ連に侵入して独ソ戦争を起こし、ついに敗れて45年4月30日ヒトラーは自殺し、5月8日ドイツ全軍が無条件降伏して、5月9日ヨーロッパに平和が回復した。
戦争中の日常生活は、配給物資が比較的に多かったので、第一次大戦下のように国民が欠乏に悩むことはなかった。初期には国民は戦勝気分に酔ったが、それは永続せずすぐに平和を求めた。しかし1943年1月のカサブランカ会談で米英がドイツ無条件降伏を求め、同年夏からドイツへの空襲、とくに無差別爆撃が激化すると、国民はナチス政権とドイツ国家とを一体化して考えるようになり、抵抗運動はまったく振るわなかった。青年や労働者などの自然発生的な反抗行為は強まって、政府の権威は衰えたものの、ヒトラー崇拝心は国民の間に残り、政権の維持に役だった。
戦争中は労働力不足を補うために1200万人に及ぶ外国人男女労働者および戦争捕虜を国内の軍需工場や農場で働かせたが、東ヨーロッパ出身労働者と捕虜の労働条件が非常に悪かったために死亡率が高く、終戦まで生き延びたのは全外国人労働者と捕虜のうち750万人にすぎなかった。
[村瀬興雄]
1910年にはドイツ国内に61万人余のユダヤ人がいたが、33年には50万人余に減っていた。彼らはユダヤ教徒であったがドイツ文化に同化しており、愛国的ドイツ国民であった。ドイツ人は昔からユダヤ人に対して差別意識をもっていたが、反ユダヤ主義宣伝には一般の人気は沸かなかった。ナチスは33年4月にユダヤ人商店に対するボイコットを組織し、また同月の職業官吏再建法でユダヤ人を公職から追放した。35年9月15日ニュルンベルク法が発布されてユダヤ人との結婚が禁止され、38年11月9日の夜から10日の早朝にかけては、ユダヤ人居住地や教会に対するSAの襲撃が行われた(水晶の夜)。これ以後ユダヤ人の全商店が閉鎖され、劇場などにも入場が禁止されたので、彼らは強制労働に従事する以外に生きる道がなくなった。多くのユダヤ人は財産を没収されながら先を争って出国したので、39年には彼らの数は21万5000人に減少した。第二次大戦が始まるとドイツ軍占領地でのユダヤ人迫害と虐殺が始まり、42年1月20日のワンゼー(現ベルリン)会議では、全ヨーロッパのユダヤ人を東ヨーロッパに輸送して強制労働に従事させ、できるだけ死亡させるという「絶滅政策」が決定され、実施されて、病弱者は初めからガス室などで殺された。殺された者は450万人内外と推定される。これは独ソ戦争の結果、ユダヤ人をヨーロッパ以外の地に追放できなくなったために行われた政策で、軍部と占領地官僚の広範な層がこの政策を支持し、実行した。
[村瀬興雄]
第三帝国の時代には、ナチスを賛美する研究がドイツでも欧米でも少なくなかったが、亡命者や欧米の近代政治学者によってナチスを現代社会の異常現象とする研究が行われた。F・ノイマン著『ビヒモス』(1942)(岡本友孝・小野英祐・加藤栄一訳・1963・みすず書房)は現在でも読まれているが、この派は第三帝国を、ヒトラーとナチス党が無制限な権力を振るう「狂気の」独裁体制として描いている。戦争後もこの派の研究者は民主主義擁護の立場から、ナチスの強力な宣伝によりドイツ国民がロボットのように踊らされたこと、地獄のように悲惨な国民生活などを描いた。A・ブロック著『ヒトラー 専制政治の研究』(1952)(大西尹明訳『アドルフ・ヒトラー』2巻・1958~60・みすず書房)も膨大な史料に立脚する労作であるが、この系統のナチス観にたっている。1950年代になると、ナチス政権の二級幹部たちが自由を回復して、自己弁護を含む回想録を執筆し、戦争責任と戦争犯罪のすべてをヒトラーとナチス大幹部に押し付けたが、その回想のなかでは各指導者間の意見や立場の相違も明示されていた。シャハト著『わが76年の生涯』(1953)(永川秀男訳『我が生涯』2巻・1954・経済批判社)などはその代表である。各種史料の公開が進み、第三帝国の実際の姿が客観的に検討されだしたのは60年になってからで、F・フィッシャーは、ナチズムを第二帝政からワイマール共和制を経て第三帝国に至る戦争目的と支配勢力の連続性のなかで考察し、彼の弟子ベント著『ミュンヘン』(1965)は、英独帝国主義政策の衝突という見地からイギリスの宥和(ゆうわ)政策を見直した。フィッシャー著『エリートの同盟』(1979)では、1945年に至る支配勢力の連続性がさらに具体的に追究された。フィッシャーは、ドイツ史のマイナスの伝統がナチス政権を生んだと指摘したのに対して、ドイツ官学と知識人の大部分は、第二帝政にはナチス政権と共通するものはなにもない、ナチスはドイツ史の突然変異現象だ、と反駁(はんばく)した。この間シェーンボウム著『ヒットラーの社会革命』(1966)(大島通義・かおり訳・1978・而立書房)が出版されて第三帝国における近代化の進展、その支配勢力の連続性と断絶性の問題がさらに深く理解されるようになり、第三帝国内にいろいろな政治・社会勢力が存在し争い合っていたことが明らかになった。こうしていろいろな支配勢力の対立と妥協のなかから第三帝国の動きが理解されるようになり、ミヒャルカ著『リッベントロップとドイツの世界政策』(1980)は外交政策決定に際しての多元的な支配構造を明らかにした。さらにナチス支配におけるたてまえと現実の大きな相違も注目され始め、ドイツ民衆の日常生活の連続と変化、民衆のしたたかな生活態度とナチス党の支配力の限界が各種の実状調査によって明らかになってきた。ブロシャート他編『ナチス時代のバイエルン』6巻(1977~83)は貴重な史料集で、シェーファー著『分裂した意識、ドイツ文化と生活の実際、1933―45年』(第三版・1983)、ポイケルト著『民族同胞と共同体の敵、ナチス治下における順応、除去、反抗』(1982)は、ナチス独裁下に生き抜いた民衆の姿とナチス支配力の弱さとを明らかにしたものである。
[村瀬興雄]
『ブラッハー著、山口定・高橋進訳『ドイツの独裁』全2巻(1975・岩波書店)』▽『シェーンボウム著、大島通義・かおり訳『ヒットラーの社会革命』(1978・而立書房)』▽『ウィーラー・ベネット著、山口定訳『権力のネメシス 国防軍とヒトラー』(1984・みすず書房)』▽『村瀬興雄著『ナチズム』(中公新書)』▽『シュペール著、品田豊治訳『ナチス狂気の内幕』(1970・読売新聞社)』▽『村瀬興雄著『ナチス統治下の民衆生活』(1983・東京大学出版会)』
ドイツの政党。正称は国民社会主義ドイツ労働者党Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP)。国家社会主義ドイツ労働者党とも訳す。ナチスという呼称は,国民社会主義者Nationalsozialistの略称ナチNaziの複数形である。
1919年1月5日ミュンヘンの国有鉄道中央工場の仕上工ドレクスラーAnton Drexler(1884-1942)が労働者をナショナリズム,反マルクス主義,反ユダヤ主義の立場に獲得することをめざして,同僚の労働者24名とともに結成,党首に就任した。最初ドイツ労働者党Deutsche Arbeiterparteiと名のり,《ミュンヘン・アウクスブルク夕刊》紙のスポーツ担当記者ハラーの仲介で反革命結社〈トゥーレ協会Thulle Gesellschaft〉の援助を受け,かつ活動もハラーの方針に従い小規模な人数の演説集会に終始した。19年9月ヒトラーがドイツ労働者党へ入党,宣伝担当の役をまかされる。党の大衆化の方針をめぐってヒトラーはハラーと対立,20年1月ハラーは離党。これによりドイツ労働者党は,トゥーレ協会の後見から独立することとなった。
20年はじめ国民社会主義ドイツ労働者党と改称。同年2月24日ヒトラーとドレクスラー共同執筆の25ヵ条からなる党綱領を発表,大ドイツ国家の建設,ベルサイユ条約反対,反ユダヤ主義の主張と並んで,中間層や労働者の利益を考慮した要求(不労所得の廃止,利子奴隷制の打破,トラストの国有化,大企業の利益への参加,大百貨店の自治体への移管,土地改革,地代の廃止)を盛り込む。21年7月ヒトラーが党首に就任,選挙による上級指導者の選出,合議制の機関を廃止し,党首を頂点に上下の厳格な命令・服従関係が刻みこまれた党運営の原理(〈指導者原理〉)を樹立する。党活動のスタイルとしては演説集会を重視し,20年末~21年1月にかけてミュンヘン市内で46回の演説集会を開催,6万2000人の聴衆が参加した。ヒトラー個人を例にとれば,ミュンヘン市内において22年11月30日に5ヵ所の会場で,12月13日には10ヵ所の会場で演説を行い,聴衆の間にナチスへの支持をつくりだすために精力的に活動。他方で21年11月に突撃隊Sturmabteilung(SA)を結成,褐色の制服を着用する突撃隊による街頭でのポスターはり,ビラまき,ミュンヘン市中での示威行進,また他の都市に〈進軍〉して示威行進や左翼勢力との乱闘(22年10月,コーブルク市)を通じて,大衆の注目を引くことに努めた。
20年4月ナチスの運動はミュンヘン市外に拡大し,ローゼンハイムに最初の支部が設立され,翌年7月には運動はバイエルンの境を越え,ハノーファーに支部が結成された。またニュルンベルクに本拠をおくシュトライヒャーのドイツ社会主義党Deutsche Sozialistische Parteiや北部ドイツの反ユダヤ主義の小政党を吸収合併し,党員数は23年10月までに5万6000人に達した。しかし党組織は,基本的にはミュンヘンを中心とするバイエルンにまだ限られていた。この当時,ナチスの激烈な反マルクス主義,反ユダヤ主義,反ベルサイユ条約の宣伝は,一部の労働者の支持を獲得できたが,第1次世界大戦後の混乱の中で経済的にも心理的にも窮迫した中間層(手工業者,商人,ホワイトカラー)や失業軍人の間に大きな共鳴盤を見いだした。19年から23年のナチス党員における労働者の比率は21.7%であったのに対し,中間層は68.5%であった。権力獲得の方策としては,議会選挙への参加を拒否して突撃隊を強化し,バイエルン国防軍や民間の準軍事団体と提携してクーデタによる権力奪取の構想に専念した。23年1月フランス軍のルール占領以後には突撃隊の武装は,レームを仲介とするバイエルン国防軍の援助で強化された。同年秋ごろ突撃隊は棍棒や鞭に代わり小銃,機関銃,大砲を具備した本格的な戦闘部隊にまで成長した。同年11月ヒトラーはルーデンドルフとともにミュンヘン一揆を企てたが失敗,ナチスと突撃隊は禁止され,ヒトラー自身も24年4月1日に5年間の禁固刑に処せられた。
ヒトラーの入獄中,ナチスは〈大ドイツ民族共同体〉(エッサー,シュトライヒャー),〈国民社会主義解放運動〉(ルーデンドルフ,G. シュトラッサー,フェーダー),〈戦線命令隊〉(レーム)の三つのグループに分裂した。この対立の結果,24年7月ヒトラーはいっさいの党指導からの引退を表明し,同年12月末ヒトラーは釈放され,25年2月にナチスを再建。議会を通じての合法的な権力獲得へと戦術を転換する。26年11月突撃隊も再建,ただし武器の携行は禁止された。このような戦術転換は,ヒトラーとルーデンドルフ,レームとの分裂を招いた(レームは1931年1月突撃隊幕僚長として復帰)。ヒトラーの入獄中に独自な行動の気風を身につけた北部・西部ドイツのナチス指導者たちは,G.シュトラッサーを中心に25年9月〈ナチス北部・西部ドイツ大管区指導者労働共同体〉を結成,同年11月と翌26年1月の2回にわたりハノーファー会議を開催,20年2月の25ヵ条綱領にとって代わるシュトラッサー起草の綱領草案を審議した。これに対しヒトラーは26年2月南部ドイツのバンベルクに会議を開催,北部・西部のナチス有力指導者の動きを封じこめるのに成功,同年5月ミュンヘンの党員総会で25ヵ条綱領の不変更を宣言して今後の綱領問題の討議を禁止し,また〈指導者原理〉を再確立した。
ナチスは25年から32年にかけて,全国指導部を頂点として大管区,管区,支部,細胞,ブロックへと下降する党組織を整備した。これと並行してドイツ幼年団,ドイツ少女団,ヒトラー青年団,ナチ学生同盟,ナチ婦人団,ナチ教師同盟,ナチ・ドイツ医師同盟,ナチ・ドイツ法律家同盟,ナチ官吏同盟,ドイツ文化擁護同盟などの年齢別,性別,職業別の付属組織を樹立して党の大衆化に尽力した。また30年9月までに機関紙《フェルキッシャー・ベオバハターVölkischer Beobachter》や《絵入りベオバハター》をはじめとして,六つの日刊紙と43の週刊紙,《国民社会主義通信》や《国民社会主義月報》などの定期刊行物,《国民社会主義文庫》などの双書を発行してナチズムの理念の普及に努めた。32年までにナチス新聞は,121種類に達した。さらにナチスは,宣伝の際にいち早くマイクロホン,ラウドスピーカー,演説を吹き込んだレコード,演説者を迅速に移動させるため自動車,飛行機など最新の技術を駆使した。32年春の大統領選挙戦でヒトラーがユンカースD1720型の飛行機で6日間に21の都市を訪問したことは名高い。ヒトラーは,選挙戦に飛行機を利用したドイツで最初の政治家であった。
28年5月の国会選挙に参加,得票率は2.6%に止まる。この選挙で伸び悩んだ結果,ナチスは宣伝の重点を従来の工業都市,大都市から,あらたに農村へと置きかえる。29年8月右派勢力の国家人民党(フーゲンベルク),鉄兜団(デュスターベルク,ゼルテ)とともにヤング案受入れ反対闘争を組織し,29年秋以降,経済恐慌が深刻化する中で,主として都市ならびに農村のプロテスタント中間層の間に勢力を浸透させるのに成功する。その際,ナチスの戦術として特徴的なのは,既存の農業,手工業,商業,ホワイトカラーの利益団体の下部組織に浸透し,これらの団体の上部指導機関をナチスの影響下に置くことであった。ドイツ最大の農業利益団体である〈全国農村同盟Reichslandbund〉の場合,31年12月に4人の会長のうち1人にナチス党員が就任,小売商人の利益団体〈ドイツ小売商中央共同体Hauptgemeinschaft des deutschen Einzelhandels〉の中央事務局には32年11月にナチス系の組織〈百貨店,消費組合に反対する闘争共同体Kampfgemeinschaft gegen Warenhaus und Konsumverein〉の代表者が入りこみ,〈北西ドイツ手工業者同盟Nordwestdeutscher Handwerksbund〉の場合には31年末,第2議長の地位にナチス党員が就任した。ホワイトカラーの利益団体〈ドイツ国家商店員連盟Deutschnationaler Handlungsgehilfen-Verband〉の場合,31年末に国会から地方自治体レベルの議会に至るまで,この連盟の支持を受けたナチスの議員が他の政党をしのいで201人を数え,最多数を占めていた。そしてナチスは,一方ではこれらの中間層に各自の利益を徹底的に叫ばせ,他方では利益貫徹の前提として議会主義体制と多党政治の排除という共通の目標を提示。この二重戦略にナチス成功の秘訣があった。さらにナチスは31年1月に全国指導部内に全国経営細胞部を設置し,この年秋以降,〈経営の中へ入れ〉というスローガンのもとに労働者の獲得をねらったが,社会民主党,共産党の厚い壁にはばまれ,大きく浸透することができなかった。ただしナチス党員の間では,労働者は1/3強の比率を占めていた。
このような活動に支えられて,ナチスは1930年1月にはチューリンゲン邦の内閣に最初の閣僚としてフリックを送りこみ,同年9月の国会選挙で第二党の地位へと躍進したあと,32年7月の国会選挙では第一党へと進出し,また党員数も上昇した。この間,31年10月にワイマール議会体制に反対する〈ハルツブルク戦線〉を右派勢力とともに結成し,工業界,農業界,軍部などの重要人物と提携を深めた。経済界からは,とくにルールの大工業家ティッセン,銀行業の有力者H.G.シャハトの支持を受ける。32年1月27日ヒトラーは,デュッセルドルフの工業クラブで演説,民主主義,マルクス主義排撃を強調して,工業家たちに感銘を与えた。同年春ヒトラーは,大統領選挙戦に立候補,3月の第1回投票で30.2%,4月の第2回投票では36.6%を獲得したが,ヒンデンブルクに敗れた。他方で同年3月のオルデンブルク邦の地方議会選挙でナチスは絶対多数の議席を占め,4月のプロイセン邦の選挙では第一党の地位に進出。同年7月の国会選挙後ヒトラーは,パーペン内閣に副首相として入閣を要請されたが,首相への任命に固執して,これを拒否した。11月の国会選挙で34議席を喪失,党勢の躍進にかげりをみせ始めた。また深刻な資金難に直面し,さらに12月はじめシュライヒャー首相によるG.シュトラッサー入閣をめぐる画策のため党内危機に見舞われるが,ヒトラーの指導力により,これを乗り切る。33年1月4日ケルンにおけるヒトラー・パーペン会談でヒトラー入閣への手はずが整えられ,1月15日のリッペ邦の地方議会選挙に党の全力を傾注,党勢再躍進の印象をかきたてるのに成功する。ナチスを反議会主義,反マルクス主義の方向で利用する思惑をいだく工業界,農業界,軍部の重要人物の支援を受け,1月30日パーペン,国家人民党(フーゲンベルク),鉄兜団(ゼルテ)などの右派勢力と連合して,ヒトラーが内閣を樹立した。国会放火事件を契機に,同年3月には全権委任法を制定,一党独裁体制を確立し,みずからの支配体制を〈第三帝国〉と称した。
北欧においては,スウェーデンに,1926年に〈ファシスト闘争団〉が結成され,29年〈国民社会主義人民党〉と改称。ナチスの突撃隊と類似の制服を着用,また類似の綱領を制定した。デンマークでは,30年に〈デンマーク国民社会主義労働者党〉が結成され(指導者はクラウセン),その突撃隊は褐色の制服を着用,ナチスの25ヵ条綱領をほぼ全文,借用した。ノルウェーにおいては,33年5月クビスリングが〈国家統一党〉を創立,反マルクス主義,反ユダヤ主義をとなえ,階級闘争と政党政治の絶滅を強調。42年はじめ,第2次世界大戦中のドイツ軍占領下にクビスリングは首相に就任,また突撃隊の充実に努力した。
西欧においては,ベルギーに,ドグレルの率いる〈レクシスト〉があり,政党政治を攻撃,中間層の支持を基盤に,36年5月の議会選挙で200議席中,21議席を一挙に獲得,注目をあびた。オランダには,31年ムッセルトAnton Adriaan Mussert(1894-1946)により〈国民社会主義運動〉が結成され,黒シャツ着用の防衛隊も出現した。37年5月の議会選挙で4議席を獲得。ドイツ軍占領下でムッセルトはオランダ民族の〈指導者〉に任命された。イギリスでは,32年10月モーズリーOswald Ernald Mosley(1896-1980)により〈イギリス・ファシスト同盟〉が結成され,反マルクス主義,反ユダヤ主義をとなえ,黒色の制服着用の〈ファシスト防衛隊〉による派手な街頭宣伝が展開され,34年時点では大きな注目をひくのに成功した。フランスには,30年代に指導者原理を掲げ,制服を着用し,旗をかざして行進するピュカール指導の〈フランス主義党〉やナチス・ドイツとの協力を主張するデアの〈国家人民連合〉が活躍した。
中欧では,スイスに31年T.フィッシャーに率いられた〈ナチス・スイス人同盟〉が出現。議会主義,民主主義に反対し,全ドイツ的鉤十字運動を主張した。チェコスロバキアとオーストリアには,30年代後半にヘンラインが率いる〈ズデーテン・ドイツ党〉,ザイス・インクワルトが率いる〈オーストリア・ナチス〉が活躍した。
南東欧においては,ギリシアに〈ギリシア国民社会主義党〉があり,ブルガリアには,ナチスを模倣して32年にクンチェフにより〈国民社会主義ブルガリア労働者党〉が樹立されるが,いずれも発展しなかった。ユーゴスラビアでは,34年11月ナチスに強い共感を寄せる〈ユーゴスラビア民族運動連合〉が誕生,党員は右手をあげて敬礼し,古代スラブ社会のシンボルであるクロウタドリの徽章を着用。これとは別にクロアチアには,〈ウスタシャ運動〉があり,その指導者A.パーベリチは41年4月政権を樹立,深緑色の制服を着用する運動の行動隊を結成していた。ハンガリーでは,32年はじめバサルメーニイによって〈国民社会主義ハンガリー労働者党〉が創立され,運動のシンボルとして鎌十字を採用。まもなく,この党からフェチェティチの率いる〈ハンガリー国民社会主義労働者・農民党〉が分裂して成立し,矢十字をシンボルとして掲げ,党員は緑色の制服を着用した。さらにF.サーラシが35年に〈国民の意志・ハンガリー主義運動党〉を創立,同じく緑色の制服と矢十字のシンボルを採用した。全体主義,反ユダヤ主義を標榜し,39年夏の総選挙で大きく躍進した。ルーマニアでは,激烈な反ユダヤ主義を掲げる〈大天使ミカエル軍団〉がコドレアヌCorneliu Zelea Codreanu(1899-1938)により結成され,団員は緑色の制服を着用した。この運動から30年に〈鉄衛団〉が成立する。37年11月の総選挙で躍進,第三党の地位に進出し,翌38年コドレアヌは政府により射殺された。彼はヒトラーに強い親近感をいだいていた。
日本では,1938年にA.ローゼンベルクの《20世紀の神話》が翻訳されたのをはじめ,ナチスの農本主義の主張者ダレーの《血と土》(1941),ヒトラーの《わが闘争》(上・下,1942)などが翻訳,出版されている。
→第三帝国 →ファシズム
執筆者:中村 幹雄
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ナチ党員,国民社会主義者のこと(ナーツィスが正しい)。Nationalsozialistの短縮形(複数)で,蔑称として用いられたのが始まり(日本では,「ナチ党,ナチズム〈の〉」という意味でも使われる)。これに対し,社会民主党員(Sozialdemokrat)はゾーツィ(ス)(Sozi〈s〉)と俗に呼ばれていた。
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国民(国家)社会主義ドイツ労働者党ないしその党員の略称。1919年に結成され,翌年ヒトラーの指導下で25カ条の党綱領を採択。強烈な国粋主義にもとづく反ユダヤ主義政策や反ベルサイユ条約政策,また利子奴隷制の廃止,大百貨店の社会化など擬似社会主義的な主張を掲げた。23年ミュンヘンで一揆をおこすが失敗。その後は議会を通じた権力獲得をめざす路線に転換し,33年にヒトラー内閣を成立させた。ヒトラー独裁の確立とともに党の権力は形骸化。
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…しかし強制収容所が政治支配の手段として重要な意味をもったのは,ファシズム国家とスターリン主義的社会主義体制のもとにおいてであり,戦争と革命・反革命が広く生じた20世紀の現代国家における統治の方法として注目すべき現象といえる。強制収容所は,国内における特定の社会層,たとえばナチス・ドイツではユダヤ人や少数民族,宗教者,コミュニストや左翼,またスターリン時代にはクラークやインテリ,旧メンシェビキ,トロツキストといった政治的反対者,さらに古参ボリシェビキや少数民族を政治的に隔離するだけでなく,強制的に労働力として利用する目的をもつものであった。これらの現象は制度ではなくテロルや暴力による統治が重要な意味をもつファシズム国家や革命国家において顕著であるが,民主主義国家においても,第2次世界大戦中のアメリカで日系人収容所の例があり(日系アメリカ人),また政治犯の強制収容の例もみられる。…
…現在,南北アメリカやオーストラリアに多数のジプシーがいるのも,ヨーロッパ各国政府による集団追放がそのきっかけであった。 しかし,1933年からのナチスによるジプシー絶滅政策ほど徹底的なものはなかった。ジプシーの存在はドイツ人の純潔をそこない,ドイツ社会を堕落させてしまうと考えたナチス政府は,ユダヤ人とともにジプシーを大量処刑することに踏み切った。…
…しかし,彼らの間からは,賠償問題をはじめドイツに厳しい戦争責任を課したベルサイユ条約に衝撃を受けて,敗戦の責めを革命に帰する〈首(あいくち)伝説〉にとらえられていく人々も数多く出てくるのである。バイエルン・レーテ共和国崩壊(1919年5月)後のバイエルンでは,国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)を率いたヒトラーが,反ユダヤ主義でいっそう先鋭化された首伝説を唱えて,激しいインフレに苦しむ都市中間層の支持を集めたが,23年11月のミュンヘン一揆の挫折とともに,新しい模索の時期を迎えることとなる。
[ワイマール時代の安定と模索]
革命とインフレ,そして1923年の〈ルール闘争〉に続いた〈相対的安定期〉には,外相シュトレーゼマンが国際協調外交を展開し,ドイツ経済の再建と秘密再軍備を外交面から保障するとともに,国際的地位の回復に努めた。…
…ドイツのプロテスタント教会が1933年から45年に至るまで,ヒトラー政権による教会の組織・教義への干渉に抗して行った闘争をいう。それは部分的には,ナチスの非人間的政策そのものに対する批判にまで発展した。33年首相に就任したヒトラーは,最初は教会に対して宥和的な態度を示していたが,まもなくナチズムに迎合する〈ドイツ・キリスト者〉を介して,教会への干渉を始めた。…
…それは民衆にとっても祭りと並ぶ最大の娯楽の一つであった。ナチス・ドイツはこの伝統をうまく統合,利用した。現代のパレードは機構化し,様式はかつてないほど整っているものの,行進するものと観客との間の情念のコミュニケーションはしだいに薄れ,変質している。…
…1926年ナチス再生第1回党大会で,大ドイツ青少年連合を改称して正式発足したナチス党公認のファシズム青少年組織。15~18歳の青少年で構成し,10~14歳までは少国民隊(ユングフォルクJungvolk)に組織されユーゲントへの準備訓練を受けた。…
…政権掌握時の国会議席は35にすぎなかったが,行動隊を中心としたその党組織からいえばイタリア最大の政党であった(イタリアのファシズム運動については後述する)。またドイツのナチ党(ナチス)は,19年1月結成の〈ドイツ労働者党〉を前身とするが,ヒトラーが23年11月にミュンヘンでイタリア方式を試みて失敗し(ミュンヘン一揆),以後方針転換して,議会と選挙を通じた政権獲得を目ざし,世界恐慌のもたらす混乱のなかで急成長した。ナチスの〈突撃隊〉の暴力は選挙戦のなかで,反対党とりわけ左翼政党に向けられた。…
… ドイツ第二帝政期になってアーリア人至上主義や反ユダヤ主義が現れると,民族の意味でのフォルクには人種主義的民族観が反映するようになり,19世紀末にこの語から派生した形容詞フェルキッシュvölkischはもっぱらその意味で使用された。第1次世界大戦後,民族自決権や一民族一国家論が強まると,フォルクは排他的な民族観の意味が強まり,それはナチス・ドイツで頂点に達した。ナチスのユダヤ人追放・殺害,スラブ系民族への蔑視は,こうした人種主義的フォルク観にもとづいている。…
…〈本〉には書いた人間の魂がのり移っており,一種〈人格〉に類するものだという観念が背後にあったためである。現代では,1933年5月10日,政権獲得後のナチスが,〈ユダヤ人〉,共産主義,社会主義者などの本を〈焚書〉にする儀式を大規模に展開して,〈野蛮〉の復活として世界の指弾を浴びたことがよく知られている。【香内 三郎】。…
…そのことを念頭に置くことは,個々の法制度の意義を十分に理解するためにも,また,その運用および将来の動向を予測するためにも望ましい。 法の支配の精神は,第2次大戦後,ナチスが法実証主義的にはまったく正統なルートを通して政権に就き,圧政を行いえたことに対する反省もあって,英米法系以外の国でも,しばしば口にされるようになった,世界人権宣言(1948)の前文3項が〈法の支配によって人権を保護することが肝要である〉とうたっているのも,法の支配の精神の国際化の一つのあらわれということができよう。 日本国憲法が,違憲立法審査制度を採用し,かつ,明治憲法のもとでとられていた行政裁判所制度を採用せず行政事件も最終的には通常裁判所の判断を受けるべきものとしたことも,立法権・行政権の濫用を防止しようという〈法の支配〉の精神に基づいたものである。…
※「ナチス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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