共同通信ニュース用語解説 「フィンランド」の解説
フィンランド
スウェーデンとロシアに挟まれた北欧の国。人口約550万人。13~19世紀はスウェーデン、19~20世紀はロシア帝国に統治された。1917年のロシア革命を機に独立。冷戦期は中立を保ち、民主主義と資本主義に立つ一方でソ連との友好路線を堅持した。ロシアがウクライナへ侵攻した翌年の2023年4月、北大西洋条約機構(NATO)加盟。
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翻訳|Finland
スウェーデンとロシアに挟まれた北欧の国。人口約550万人。13~19世紀はスウェーデン、19~20世紀はロシア帝国に統治された。1917年のロシア革命を機に独立。冷戦期は中立を保ち、民主主義と資本主義に立つ一方でソ連との友好路線を堅持した。ロシアがウクライナへ侵攻した翌年の2023年4月、北大西洋条約機構(NATO)加盟。
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基本情報
正式名称=フィンランド共和国Suomen Tasavalta/Republic of Finland
面積=33万6861km2
人口(2010)=534万人
首都=ヘルシンキHelsinki(日本との時差=-7時間)
主要言語=フィンランド語,スウェーデン語
通貨=マルッカMarkka(1999年1月よりユーロEuro)
ヨーロッパの北部を占める共和国。フィンランドは英語名で,自称名はスオミSuomi。国土の面積は日本より少し小さい。その約3分の1は北極圏にあり(最北端は北緯70°05′30″),アイスランドに次いで世界で最も北に位置する国である。南北の長さ最大1160km,東西の最大幅540km。国境は西のスウェーデン側586km,北のノルウェー側716km,東の旧ソ連側1269kmである。
土壌は主として氷河時代の氷河が残したモレーン(氷堆石)から成り,通常は薄い。地形は太古の岩盤の等高線に従っている。国土の大部分は低地で,南南西から北北東に向かってしだいに高くなり,ラップランドの高原につながっている。最高点は北西隅のハルチャ山で標高1324m。平らな低地はなく,岩肌の丘の起伏の間に谷や湖があって,変化に富む。湖は国土の約9%を占め,とくに南半の内陸部の湖沼地帯では20~50%が湖で,サイマー,パイヤンネ,イナリ,カラベシなど,周囲100kmを超える湖は60を数える。ボスニア湾とフィンランド湾に臨む海岸線は1100kmで,屈曲が多く,散在する島の数は3万に上り,南西岸に密集している。またトゥルクの東方100km余りの海上にアハベナンマー(オーランド)諸島がある。
メキシコ湾流とバルト海の影響で,フィンランドの平均気温は同緯度に位置している他の国よりも温和である。ただ,国土が北に偏し緯度が高いため,夏と冬の日照時間の差が著しい。南フィンランドでは真夏の日照時間が1日19時間になる。すなわち日没から日の出までわずか5時間しかない。北フィンランドの北緯70°地点では夏に太陽の沈まない日が73日間,逆にクリスマスの頃には果てしない夜が51日間も続く。平均気温が10℃を超える夏は,南部で110~122日間,北部で50~85日間を数える。また南部では1年のうち約5ヵ月,ラップランドでは7ヵ月もの間雪に覆われる。このためラップランドは夜のない5月にスキーを楽しむことができる。気温は7月の平均が13~17℃で最高が30℃,また2月の平均が-3~-14℃で最低は-30℃に達する。平均湿度は83%,冬の沿岸部で86~92%,夏の内陸部で65~70%である。年降水量は南部と中部で平均620mm,北部で520mmとあまり差がない。降水量のうち雪の占める割合は30~40%。北西部のラップランドでは9月中旬から,南部のヘルシンキでは10月末ころから雪になる。積雪量は前者で70cm,後者で40cmくらい。要するに沿岸部の雪の量はたいしたことはない。しかし湖と川と海は冬季は結氷する。その期間は南西部で18週間,ボスニア湾の奥では24週間に及び,砕氷船により水路を開かなければならない。
〈森と湖の国〉と呼ばれるフィンランドでは森林は重要な資源であって,陸地の71%を覆っている。マツ(53%),エゾマツ(トウヒ。28%)のような針葉樹が中心で,カバノキ(17%)もよく見かける。南西部はナラの樹林地帯でヨーロッパの中央部に類似している。これら森林の下生えから各種の野イチゴ類やキノコ類が採れ,食用に供される。北に進みラップランドに入るとマツ科の木もなくなり,全体が背の低いカバノキ系統の樹木となる。
動物としてはクマやオオカミは東部国境地帯やラップランドの未開地帯に限られる。ラップランドにはトナカイの大群が飼育されており,3万頭以上の大鹿もいる。毛皮獣ではリス,テン,キツネなどが生息する。猟鳥としては各種のライチョウやカモ類が多い。河川ではサケ,マス,湖ではコイなどがとれる。
フィンランド人は一般に色白で,ひとみは青もしくは灰色が多く,フィンランド語を話す男性の86%,女性の81%が青もしくは灰色のひとみをもつ。また男性の76%,女性の82%は金髪もしくは亜麻色の髪をしている。フィンランド人はほとんどのヨーロッパ人と同じように人種的には混血で,主として東バルトおよびノルディック人種(北方人種)の血を受け継いでいる。平均身長は男性が168.7cm,女性が157.4cmである。出生率は19世紀末以来下がる傾向にある。第2次世界大戦後わずかに上昇したが,1958年には再び1000人当り18.5人に下がり,88年は12.8人。死亡率も19世紀末から急速に下がってきて,平均寿命は男73.8歳,女77.2歳(1996)。また男女の割合は女100人に対し男96.0人と女性のほうが多い。
この国の人口の92%がフィンランド語を話すが,フィンランド語はウラル語族のフィン・ウゴル語派に属し,西部のスウェーデン語や東隣のロシア語とはまったく系統を異にする。発音は明快で,語形が複雑に変化する個性的な言語である。なお,フィンランドには6.6%ほどスウェーデン語を母国語として話す住民がいる。このためフィンランド語とスウェーデン語がフィンランド共和国の公用語とされている。さらにフィンランドの北辺ラップランドには2240人ほどのサーミ人(ラップ人)が住んでいる。サーミ人は人種的にフィンランド人と異なっているのに,サーミ語は言語的にフィンランド語に近い。
フィンランド人の国民性は温和で気まじめ,しかも粘り強い性格にある。フィンランド人の精神構造は,言語と民俗がウラル語系でありながら,歴史的・社会的にはゲルマン系の北欧文化国家に組み込まれるという複合性に基づいているといえよう。
1919年7月17日に制定された憲法によれば,立法権は大統領と国会に属し,最高執行権は大統領にあって内閣が補佐する。大統領は任期6年で,直接選挙で選ばれる。初代大統領はストールベリKaarlo Juho Ståhlberg(1865-1952。在任1919-25)。第2次世界大戦中の政局は5代目のリュティRisto Ryti(1889-1956。在任1940-43)が,その末期の混乱期はマンネルヘイム元帥(在任1944-46)が担当した。続いてパーシキビ(在任1946-56)が2期務め,56年からケッコネンが5選され25年間も大統領の座にあった。1982年以降はコイビストMauno Koivisto(1923- )が第9代大統領の職にあった。1994年にはアハティサーリMartti Ahtisaariが大統領に選出されている。
大統領は国会の解散および総選挙を命じることができ,内閣の閣僚(18名以内)を任命する。国会は定数200の一院制で,任期は4年。18歳以上の男女が選挙権をもち,20歳から被選挙権が与えられる。フィンランドは,すでに帝政ロシアの自治大公国時代の1906年に普通選挙の比例代表制をとる国会改造に伴い,ヨーロッパで最初に婦人参政権が認められた国である。比例代表制のため独立以来議会で一つの党が絶対多数を占めたことはない。ほとんどの政府が連立または少数派の内閣である。政党としてはイギリスの労働党に似たフィンランド社会民主党,左派のフィンランド人民民主同盟,農民と中間派に支持されている中央党,保守の国民連合党,スウェーデン人民党などがある。95年の総選挙では,社会民主党が63,中央党が44,国民連合党39,左派連合が22議席を獲得した。なお,200議席のうち女性が67議席を占めている。
戦後,自由主義国家と共産主義国家との対立から,フィンランドは経済と政治の間に明確な線引きが行われ,西側と東側の利益の均衡が保たれる限りにおいて,経済分野では西欧への協力参加が可能であったが,政治的には中立を余儀なくされた。まず,フィンランドは1955年に国際連合と北欧会議に加入した。北欧会議の加入国の国民は,自由にスカンジナビア諸国に滞在して働くことができ,社会的給付を受けられるようになっている。また北欧地域内をパスポートなしで旅行できるし,自国以外に居住する場合でも,その国の地方自治体選挙の投票権が与えられている。61年にはヨーロッパ自由貿易連合に参加し,政治的にも経済的にも北欧諸国の一員となった。
フィンランドの外交は,いかなる強国にも依存しない中立と,相互信頼の上に築かれた隣接諸国との友好関係を保持することを根幹とし,この平和的中立政策は1975年ヘルシンキで開催されたヨーロッパ安全保障協力会議のいわゆるヘルシンキ宣言の中に生かされ,国際的にも広く認められるところとなった。
だが,ドイツの統一,ソ連の崩壊,ヨーロッパにおけるイデオロギーの分裂が消滅したので,95年にはヨーロッパ連合(EU)の加盟国となった。なお,北大西洋条約機構(NATO)にあっては平和のための協調協定(PFP)の枠内で協力している。さらに,エストニア,ラトビア,リトアニアのバルト3国との接触を深め,その経済と政治の安定に尽力するとともに,EU内で,ロシアとの関係を積極的に築きあげている。
17~60歳の男子は,国民全員を対象とした徴兵制度に従って,すべて兵役義務をもつ。20歳で入隊し普通徴兵の場合は8ヵ月,特別任務の場合は11ヵ月の訓練を受ける。1947年のパリ条約により,核兵器,ミサイル,爆撃機,潜水艦の保有と製造・実験は禁止され,陸海空の兵力も総数4万1900人,艦艇1万トン,航空機60機までと制限されている。現有総兵力3万2500人。しかし,フィンランド人は愛国心に富み,忍耐強く勇敢であって,58年に制定された民間防衛組織により補習訓練を受けた50万の予備兵からなる予備軍が国土防衛のために組織されている。
フィンランドは19世紀中ごろまで農業を主体としていたが,第1次世界大戦までに工業化が急速に進んだ。1917年に独立して共和国となるに及び,海外貿易の新しい機会が生じ,両大戦間期の20年間に経済は目ざましい発展を遂げた。30年代初めの世界恐慌も早めに乗り越え,30年代末期には再び繁栄の時期を迎えた。とくに木材および紙製品の生産と輸出において世界有数の国となった。フィンランドの豊かな森林資源は国民経済の中で最も重要な地位を占めていたが,その状況は現在も変わっていない。鉱物資源や石油・石炭のような燃料資源を欠いてはいるが,金属工業,土木建築産業の面が著しく進展した。農業も近代化,集約化され,第2次世界大戦直前には穀物は自給が可能となり,乳製品の輸出も行われた。
しかし第2次世界大戦はフィンランドに深刻な打撃を与えた。生産能力と資源の10分の1を失い,40万以上の人々が家と土地を奪われた。しかも賠償金として3億ドル相当の製品をソ連に支払わなければならなかった。しかし,戦後の復興は目ざましく,52年には賠償金を完済したうえ,同年ヘルシンキで第15回オリンピック大会を主催する余裕を示した。これ以来,工業化は一段と速度を増し,50年代および60年代におけるフィンランドの総生産高は平均5%,工業生産高は6%の伸びを示している。とにかく1957年の平価切下げにより戦後は終わったといえる。経済は70年代初めも快調な伸びを続けたが,75年に後退期に入った。諸種の経済対策が効を奏し,80年には成長率6%まで回復したが,西側市場の低迷と対ソ輸出の停滞から景気は再び底をついた。しかし現在では安定した状態を取り戻している。88年の国民総生産は920億ドルで1人当り国民総生産1万8610ドルとなっている。
フィンランドの経済は私有制度と自由企業に立脚している。国家はアルコール飲料の専売や国有鉄道のほかに森林の28.5%を管理している。
(1)農林業 農業人口は総人口の約15%にのぼるが,農業生産は国民総生産中約5%を占めるにすぎない。耕地面積10ha,森林面積35haの小家族農場がフィンランド農業の特徴となっている。農業収入の45%は乳製品,34%が食肉,11%が穀物販売から得られている。小麦,ライ麦,大麦,カラス麦,ジャガイモ,テンサイ,野菜などの栽培は生育の北限まで行われ,砂糖を除き国内消費をまかなうことができる。酪農製品は輸出される。森林はフィンランド第1の天然資源である。森林面積は2200万haで国民1人当り約5haとなる。立木総量は15億0100万m3(樹皮を含む),年間出荷量は5400万m3で,松やトウヒはパルプ産業および製材産業に向けられている。森林資源の4分の3が個人所有で手入れもよく行きとどいている。
(2)鉱工業 第2次世界大戦以前はフィンランドは工業化の初期段階にある農業国であった。1938年における輸出生産は,林産加工業のみで輸出総額の80%以上を占めていた。工業製品の多様化と輸出の増大が第2次大戦後の興隆を特徴づけている。すなわち化学工業の役割が増大し,金属・機械部門が成長してきた。林産加工業の製材および紙・パルプ部門は完全に国際市場と連結していて,製品の80%以上が輸出される。フィンランドはヨーロッパにおけるパルプの19%,紙32%,木材22%,合板42%のシェアをもっている。フィンランドのパルプ工場は規模が大きく近代化されていて,輸出収益の36%を占め,林産加工業の工場も統合され,加工工程が一つの生産複合体にまとめられているので効率がよく,輸出収益の約50%を稼いでいる。1995年金属・機械工業部門は輸出総額の40%を占め,森林資源工業がこれに続き,ハイテク製品の輸出も盛んである。
フィンランドは銅,ニッケル,コバルトの産出国で,とくにコバルトは世界の供給量の約5%に達している。金属・機械工業では生産高の60%が国内市場に出され,40%は輸出されていて全輸出額の32%を占める。おもな輸出国はスウェーデン,ロシア,ノルウェー,イギリス,ドイツで,船舶,機械,金属,電気製品がおもな輸出品目である。とくに木材加工機械の生産は世界有数であり,造船業では砕氷船,豪華客船,貨物船,カーフェリー,石油採掘装置などがつくられている。また繊維衣料工業および家具,陶器,ガラス製品から建築や都市計画に至るまでのフィンランドのデザインは世界でも高く評価されていて,外貨獲得に一役買っている。このようにしてフィンランドは1人当りの所得が世界で最も豊かな15ヵ国の中に入り(1980年市場経済工業国では14位),国内総生産高(GDP)の67.4%をサービス業,28%を工業が占めている。最近は通信機器類,コンピューターなどのハイテク産業が急成長し,1994年度の輸出総額は240億フィンランド・マルッカに達している。
フィンランドには7万3500kmに及ぶ公共道路があり,そのうち3万km以上が舗装されている。路上車両の登録台数は100万台で,その5分の4が乗用車である。また,全土にバス網が整備されており,ラップランドではケミヤルビKemijärvi以北には鉄道がないので,これが唯一の陸上交通手段である。鉄道はほとんどが国営で,鉄道網の建設は1862年に開始された。軌道の長さは約6000kmに及ぶ。鉄道はもっぱら大型貨物の輸送や融通性のある長距離輸送および人口密集地と首都圏の交通を結ぶ高速乗客輸送を受け持っている。
海上交通での貿易港は中世のハンザ同盟の頃につくられたが,19世紀に木材商品の輸出のため活況を呈した。港の凍結は砕氷船により克服されている現在,貨物と乗客の国外への輸送はおもに海上交通によっている。また湖を運河によって結ぶ内陸水運も盛んである。船の数483隻,総トン数247万9000トン(1981)となっている。国内航空網では空港が25あり,その半分に定期便が発着している。運航の中心はフィン・エアFin-Airで,1984年にはヘルシンキと成田が国際線で結ばれるようになった。現在,東京と大阪からヘルシンキへ直行便が週2回運行している。
フィンランドの社会保障は社会保険,社会補助,社会福祉の3本立てで,このための支出は国民所得の5分の1を占めている。社会保険では,国民年金法(1937制定,72改正)により,フィンランドに永住する者は最小限度の生活を保障される国民年金を受ける権利をもち,年金は生活費(給与)の指数に比例する。老齢年金の支給は65歳で開始されるが,職業により差がある。身体障害者年金も老齢年金とほぼ同額で,遺族年金は孤児と未亡人に支払われる。雇用年金制度としては,公務員に自営業や農民も含めて1970年代に年金制度が定められ,雇用年金の最高額は退職時の給料の60%とされている。疾病保険は1964年に実施され,被保険者の収入にある程度基づいて保険金を支払うことになっている。病気の場合は医療費は不要であるが,特定の疾患については患者が経費の一部を負担する。また,1ヵ月の有給休暇があり,夏はいなかでバカンスを楽しむ人が多い。以上のほかに家族手当と軍人手当があり,前者の児童手当(1948制定)では17歳以下のすべての児童が児童手当を受けている。後者は傷病軍人,戦争未亡人,軍役服務者の最近親者で,資力をもたない者に給付される。退役軍人には兵役年金が支払われる。社会福祉では妊産婦と児童のための福祉センターが全国的に組織化され,老人や身体障害者を対象としたホームヘルプ・サービスが活発に行われている。
1970年に総合義務教育法が施行され,新しい学校制度に転換した。7歳から16歳までの国民が義務教育として9年制の総合学校で教育を受けている。給食,医療,通学,そして必要ならば宿舎まで無料である。総合学校は初級の6段階と上級の3段階に分かれ,二つの外国語が必修とされる。第1外国語は第3段階,第2外国語は第7段階から始められるが,英語とスウェーデン語が中心である。中等教育は3年制の高等学校と各種の職業学校や専門学校によって施される。
大学進学は4月に全国一斉に行われる大学入学資格試験による。大学は21で,総合大学10校,単科大学11校がある。1640年創立のトゥルク大学が最も古く,1828年から始まったヘルシンキ大学が最も大きい。ほかに図書館学のタンペレ大学や教育専門のユバスキュラ大学,それにオウル大学などがある。ヘルシンキ工科大学やヘルシンキ商科大学のような有名な専門別の高等教育機関もある。1992年には全日制高等学校460校,それに約520校の職業専門学校において職業訓練が行われている。他に93校もの市民大学で北欧式成人教育が行われている。さらに全国に2万以上もの公共図書館が設立されていて,その設備と利用状況は世界でも最高の水準にある。
1923年以来,完全な信教の自由が認められているが,国民の88%が福音ルター派教会,1%未満がフィンランド正教会に属している。国は8大教区に分けられ,それぞれに監督1名と聖職会が置かれている。1817年以来トゥルク大教区が大監督の地位を占め,中教区72,小教区592に分かれている。各小教区は信徒全員,会社その他の組織から税金を徴収する権利をもち,牧師を選出する。牧師は信者の出生,結婚,葬儀に関与するだけでなく,地区の民生や社会活動をも指導している。
フィンランド正教会は東方正教会系で,コンスタンティノープルの総主教に忠誠義務を負っている。教会はカレリアとヘルシンキの2主教区に分立し,これが25教区に分かれている。現在はカレリアのクオピオKuopioの主教が大主教を務めている。
フィンランド文学の創始者はトゥルクの主教M.アグリコラで,彼の著した《ABC読本》(1543)はフィンランド語で書かれた最初の文献である。また彼の訳した《新約聖書》(1548)はフィンランド文語形成の基盤をつくった。次にペトラエウスEskil Petraeusを中心とする委員会による《決定訳聖書》(1638)は信仰面だけでなく語法の定立に大きく作用している。19世紀前半,民族主義が高揚する中で,医師リョンロートが東カレリア地方で伝承されている詩歌を採録してまとめた叙事詩《カレワラ》(1835。増補改定版1849)の発表は,フィンランド人の祖国愛を刺激し,民俗学や神話学に尽きない研究素材を与え,美術や音楽に華麗な主題を供した。
19世紀前半の前期ロマン主義時代では国民的詩人ルーネベリと,愛国的歴史小説および児童文学作家トペリウスがスウェーデン語でフィンランド固有の魂を鼓吹した。後期ロマン主義時代にはA.キビにより真の意味のフィンランド文学が出現した。彼の代表作の長編小説《7人兄弟》(1870)は各国語に訳され広く読まれているし,6編の戯曲のうち喜劇《寒村の靴屋》(1864)が親しまれている。続いてフィンランドに写実主義が波及し,M.カントは《労働者の妻》(1885)のような労働者や女性が耐えてきた不平等について訴えた。文豪アホは自然主義の流れに沿って《鉄道》(1884)や《牧師の娘》(1885)を発表した。またパッカラTeuvo Pakkala(1862-1925)には心理的洞察により貧困と子どもたちを扱った《子どもたち》(1895)がある。さらにリンナンコスキは《真紅の花の歌》(1905)などで巧みに人間性を表出しているし,レヒトネンJoel Lehtonen(1881-1934)は東部フィンランドの農民生活を描いている。女流作家としてはタルビオが才筆を振るい,ヨトゥニは短編に優れている。またカッラスAino Kallas(1878-1956)のエストニアに取材した作品も忘れてはならない。
フィンランド文学の最高峰とされるノーベル賞作家シッランパーの作風は人間を生態的,自然神秘的にとらえる点に特色がある。代表作に《聖貧》(1919)と《若くして逝く》(1931)がある。前者は独立直後の内戦期のある貧農の運命を,後者は農家の清純なひとり娘シリヤが胸を病んで死ぬまでを描いている。世界的に高名なワルタリは歴史小説が得意で,《エジプト人シヌヘ》(1945)などを著した。両大戦間期は,農民や自然の動物を素朴に力強く表現したハーンパーや,工業化された社会を批判したペッカネンが活躍した。最近ではリンナが《無名戦士》(1954)で戦争と階級に正面から取り組み,彼の農民小説三部作《ここ北極星の下で》(1959-62)ではフィンランドの盛衰を歴史的断面図法でとらえている。またメリはユーモラスな戦争小説で名声を得た。また,アンッティ・トゥーリAntti Tuuri(1944- )の歴史小説《ポホヤンマー》(1982)が注目されている。なお,スウェーデン語の児童文学作家ヤンソンの幻想的な《ムーミン物語》は日本でも愛読されている。
詩作面では,まず女流詩人ソーデルグランがフィンランドとスウェーデンの近代詩に大きな影響を与えた。20世紀に入ると抒情詩人レイノが多くの詩作を発表したが,代表作として民族風の美しい詩集《ヘルカの歌》(1903-11)を挙げることができる。次にコスケンニエミは明るいロマン的な作品を残した。さらにヘッラーコスキAaro Hellaakoski(1893-1952)とイユルハYrjö Jylhä(1903-56)は簡潔な男性的文体を特徴としている。現代フィンランド詩壇ではハービッコPaavo Haavikko(1931- )が活躍している。
執筆者:小泉 保
フィンランドの音楽と舞踊の歴史・現状は,固有の伝統にアイデンティティを見いだそうとする意識と,近隣諸民族や西ヨーロッパとの葛藤や交流を通じて表現を多様化しようとする努力という二つの柱をもっている。原初的な芸能は,シャマニズムによる儀礼的な身体運動によるパフォーマンスであったと思われる。少数民族である北部のラップ人や東部のカレリア人は狩猟に関連した呼び声や語り物に繊細な音楽性を発揮してきた。主要民族としてのフィンランド人はスウェーデンからの移住者と共有する輪舞,哀悼歌,バイオリンなどの伝統をフォークロアとして伝承してきたが,最も貴重で影響力が大きいのは叙事詩《カレワラ》の歌唱である。無伴奏あるいはカンテレkantele(チター属の撥弦楽器)伴奏による歌唱,あるいはカンテレタルと呼ばれるカンテレ伴奏の別の声楽が,後世の音楽創造上のよりどころを提供した。他の伝統楽器としてはヨウヒッコ(カンテレから発達した弓奏の楽器),樺(かば)皮のらっぱ,角笛,柳笛,クラリネットなどがある。
西ヨーロッパからの影響はキリスト教化から始まり,グレゴリオ聖歌その他が歌われていた記録がある。16世紀には独自の聖歌や世俗歌曲もフィンランド風の味をつけてつくられるようになり,19世紀にはドイツ人との交流により,ヨーロッパ音楽文化圏の中に徐々に入っていくことになる。しかし,西ヨーロッパに同化するのではなく,シベリウスに代表される国民音楽の様式,キルピネンYrjö Kilpinen(1892-1959)のようにドイツ・リートの雰囲気を強く残しながらわずかにフィンランドらしさを示す方法,さらに最近ではアジア的色彩をフィンランドと関連づけようと試みるノルドグレンPehr Henrik Nordgren(1944- )の模索のように,作曲家たちの主張が明確である。演奏の分野でもレベルが高い。他方,地方に根強く残存する民俗音楽,民俗舞踊を,特定の共同体に限定するのでなく,交流を通じてさらに活性化するために,中部の町カウスティネンで毎夏盛大な民俗音楽祭が催されている。カウスティネンには公立の民俗音楽研究所もあり,ドキュメンテーションを綿密に実行し,ヘルシンキ大学の音楽学者との連携が進んでいる。
執筆者:山口 修
フィンランド美術協会(1848設立)が,フィンランドにおける近代美術の発展に大きく寄与した。〈デュッセルドルフ派〉に心酔したフィンランド最初の風景画家はホルムベリWerner Holmberg(1830-60)により代表される。フィンランド近代美術の黄金時代は19世紀末に始まり,その最初の著名な画家はエーデルフェルトAlbert Edelfelt(1854-1905)で,日常生活の描写や肖像画を通じて同国に新しいフランス絵画の息吹きを紹介した。民族主義的ロマン主義の第一人者ガレン・カレラは,《カレワラ》の精神を色と線で表現することに成功した。ヤールネフェルトEero Järnefelt(1863-1937)も抒情的風景画家で肖像画にも長じている。サリネンTyko Sallinen(1879-1955)は男女を野性的な力強さで描き,表現主義を標榜する〈11月グループ〉(1917結成)を率いた。〈11月グループ〉の精神的遺産を受け継いだ〈10月グループ〉(1933結成)の中ではカネルバAimo Kanerva(1909-91)が傑出し,これに近いコイスティネンUnto Koistinen(1917-94)は幻想的表現主義の作風を示している。
彫刻と建築には,色彩よりも立体的造形を好むフィンランド人の国民性がよく反映されている。彫刻の巨匠アールトネンWäinö Aaltonen(1894-1966)は堂々たる造形美と簡素な抒情主義に特色を見せている。《アレクシス・キビの座像》(1939)や《パーボ・ヌルミの走る姿》(1924)がその代表作である。古典主義を代表するルーネベリWalter Runeberg(1838-1920)の作品として《J.L.ルーネベリ像》(1885)がある。現代の彫刻家ではヒルトゥネンEila Hiltunen(1922-2003)がヘルシンキのシベリウス記念建造物で大胆な想像力と変化に富んだ技術を見せている。またトゥキアイネンAimo Tukiainen(1917-96)の《マンネルヘイム元帥馬上像》(1960)も優れている。
フィンランド建築において国民的ロマン主義を代表するサーリネン(父)は洗練されたヘルシンキ駅(1914)を建てたが,1923年にアメリカへ渡り学校建築などに手腕を発揮した。機能主義に拠りながら,北欧の風土に根ざした造形を探求しつづけた建築家アールトーは,都市計画,地域計画,室内装飾と工芸にも影響を及ぼした。白大理石のフィンランディア・ホール(1971)は彼の優美な記念碑で,またヘルシンキ郊外のタピオラは田園都市計画の見本とされている。
フィンランドでは民間伝承や民俗信仰に関する資料が全国で組織的に収集されていて,これに基づき民話を地理的・歴史的に比較考証してその原型と伝播経路を探究する民俗学的研究法がクローンにより打ち立てられた。またアールネの提起した昔話分類法は世界的に利用されている。さらにU.ハルバはウラル・アルタイ語系諸民族の民俗と神話を広く論究した。
言語学者カストレンMathias Alexander Castrén(1813-52)はサモエード諸語とアルタイ諸語の研究に,ラムステッドはアルタイ諸語の比較研究に大きな業績を残している。カヤンデルの森林形態理論とウェスターマークの婚姻と道徳の起源に関する研究が有名である。
天文学ではバイサラYrjö Väisälä(1895-1971)が基線測定に貢献し,スンドマンKarl Frithiof Sundman(1873-1949)は〈三体〉問題を解決した。フィンランド数学は関数理論で世界のトップレベルにある。生化学のビルタネンはノーベル化学賞を受けた。またユルッポArvo Ylppö(1887-1992)は小児科および未熟児の研究で先駆的仕事をしている。
スキー,ボート,陸上競技,レスリングなどでフィンランドは長い伝統をもつ。1870年代にスポーツは組織化された。オリンピックで9個の金メダルを獲得したヌルミは国民的英雄である。フィンランド選手は槍投げやマラソンに強く,冬のスポーツではジャンプやスケートなどで活躍している。また,フィンランド人は野球を変形したペサパロpesäpalloを好む。投手は打者のかたわらでボールを投げ上げ,これを打つ。1塁,2塁,3塁と進むほど塁間は遠くなる。
宗教行事ではクリスマスと復活祭を盛大に祝う。季節的行事としては2月28日にカレワラ祭,2月5日にルーネベリ祭がある。5月1日の〈バップVappuの日〉には男女の大学生および卒業生が白い覆いの学生帽をかぶって街を練り歩く。バップは780年代に殉教したカトリックの聖女の名バルプリValpuriの縮約形で,彼女の記念日と異教時代のゲルマンの夏祭とが混和して発生したものである。また夏至の日に催される聖ヨハネス祭では大きなかがり火をたき,まわりで民族衣装を着た男女が歌い踊る。国家的祝日は12月6日の独立記念日である。
フィンランドの東カレリアの奥地にはキリスト教改宗以前の異教信仰が残存している。万物が精霊と結びつけられ,家には守護霊がすみ,サウナは神聖な場所とされる。森の神タピオTapioは猟人の獲物を管理し,水の神アハティAhtiは川や湖を支配する。人びとは雷神ウッコUkkoに雨と豊饒を祈り求める。天地は宇宙卵より発生し,冥府トゥオネラTuonelaの川には白鳥が泳いでいると民族詩《カレワラ》は述べている。
フィンランド人の起源はウラル語族の主流フィン・ウゴル語系集団に求められる。ウラル山脈の西のボルガ川流域がフィン・ウゴル語系集団の原郷と推定されるが,ここから西へ向かい,前500年ころバルト海沿岸に進出したのが原フィン人Kantasuomalaisetである。彼らは移動中に農耕を習得したが,バルト・スラブ族と接触してその文化を吸収し,さらにゲルマン人と遭遇して社会制度や生活様式を学び取った。原フィン人はやがて主力のスオミ族(フィンランド)とエストニア族(エストニア),それにオネガ湖付近のベプス族,イングリア(現在のロシアのレニングラード州西部)のボート族,クールランド(現在のラトビアのリガ湾南岸,南西岸地方)のリボニア族に分裂していった。
スオミ族Suomalaisetは現在のエストニアの地からいくつかの集団を組んで船で北上し,フィンランドの南西部に上陸した。ここから先住民のラップ人を追いながら東方へまた北方へと広がっていったが,この部族をハメ人Hämäläisetという。その頃カレリア人Kalialaisetはラドガ湖の周辺に定着していた。やがて両者が接合した部分にサボ人Savolaisetが発生し,ここに3部族が鼎立する形となった。そして堅実なハメ人,音楽好きなカレリア人,陽気なサボ人と部族的気風も育ってきた。こうした原始部族時代のフィンランドは後に東西二大勢力の衝突の場となった。
スウェーデン王エーリク9世Erik Ⅸ(?-1160)は1155年北方十字軍の名の下にフィンランドに兵を進め,トゥルクに根拠地をつくった。そのとき王が伴った司教ヘンリックはフィンランドにカトリック信仰の基を開いた。王はさらに勢力を東へ伸ばしビボルグまで達したが,これに対し東方正教会の勢力の強いノブゴロド公国は,東からのモンゴル人の侵入に押され,カレリアの東半を保持するにとどまった。かくて両国の間にパハキナサーリの和議(1323)が成立し,フィンランドの南半はスウェーデンの支配下に入った。1397年ノルウェー王ホーコン6世の妃マルグレーテの下でデンマーク,ノルウェー,スウェーデン3国の国家連合としてカルマル同盟が結成されたが,これもその後の内紛により崩壊した。これから離脱自立したスウェーデンのグスタブ1世(在位1523-60)は宗教改革を断行してルター派を受け入れ,フィンランドにおける勢力を北方へ伸ばすとともに領内をルター派に改宗させていった。次いでヨハン3世Johan III(在位1568-92)は1581年フィンランドを大公国に格上げしてロシアに対抗しようとした。またカール9世Karl Ⅸ(在位1599-1611)は重税のために蜂起したフィンランドの農民一揆〈棍棒戦争〉を利用してフィンランド貴族を一掃し(1599),ここに王権を確立した。
次に勇王グスタブ2世のもとで強力となったスウェーデンは,武力によってロシアを封じ込め,1617年ストルボバの和議により東カレリアとイングリアを手に入れ,エストニアを合して,さらにポーランドを押さえ,リボニアまで手中に収めた。かくて北方戦争に突入したが,これら対外戦争で先頭に立って勇猛に戦ったのはフィンランド人であった。このためスウェーデンとフィンランドは政治的・軍事的に深く結びついていった。
スウェーデン人のフィンランド総督ブラヘPer Brahe(1602-80)の時代には工業が興り,交通が整備され,トゥルク大学が設立(1640)された。しかしカール12世はピョートル1世の率いるロシア軍と戦い,1709年ポルタワで大敗を喫した。スウェーデンが兵を引き揚げたため,フィンランド人の必死の抵抗も空しく,ロシア軍はフィンランドを侵略し,戦火と飢饉により住民は30万に減ったといわれる。21年ニースタードの和議でスウェーデンは17世紀に獲得したすべての土地を失った。
ナポレオン戦争において,ナポレオンはスウェーデンをイギリスに対する大陸封鎖に参加させるため,ロシアがフィンランドを占領してスウェーデンに圧力をかけることを認めた。そのためロシア皇帝アレクサンドル1世は,1808年フィンランドに出兵した。フィンランド人は善戦したが,スウェーデン人が援兵を送らなかったので,フィンランド全土をロシアに占領された。09年ハミナの講和でフィンランドは正式にロシアに割譲された。ロシア皇帝はフィンランド大公を兼ねたが,フィンランドには自治を許した。しかし,しだいにロシア化が強行されるようになる。それに伴ってフィンランド人に民族的自覚が燃え上がり,独立の気運が高まった。ロシア側の圧力に耐えかねて,1904年にはロシア総督が暗殺されるという事件が発生した。そして17年のロシア革命による帝政ロシアの崩壊に乗じ,同年12月フィンランドはついに宿願の独立を達成した。
独立と同時に,都市の資産階級と農民を代表する白衛軍と,労働者・小作農を中核とする赤衛軍との間で内戦が生じ,前者の勝利に終わった。このようにしてフィンランドは自由主義の国家として繁栄の道を突き進んだ。しかし,1939年第2次世界大戦が始まると,ソ連はレニングラード防衛の見地からカレリア地峡の土地を要求してきた。これを拒否されたソ連は50万の大軍を動員してフィンランドに攻め込み,フィンランド人はよく防戦した(ソ・フィン戦争)。41年ナチス・ドイツの対ソ戦が始まると,これに巻き込まれたフィンランドはドイツ軍に協力し,ソ連と戦うことになる。しかし,戦局の不利から44年にソ連と休戦条約を結び,戦線から離脱した。このためフィンランドは47年の講和でソ連へのカレリア地方,バレンツ海に臨むペッツァモ(現,ペチェンガ)地方の割譲,バルト海北岸のハンコ半島とポルカラ地区の貸与を余儀なくされ,さらに,国民所得の1割に及ぶ巨額な賠償金を支払わされることとなった。44万人の引揚者も受け入れねばならなかった。しかし,短期間で世界各国が驚くほどの経済復興を遂げ,以後,努めてソ連と友好を保ちながら,西側陣営に接近する政策をとってきている。
日本が初めて接触したフィンランド系の人物はA.ラクスマンで,漂流民大黒屋光太夫らの送還と通商交渉のため,1792年(寛政4)ロシアの使節として根室を訪れた。彼の父キリル・ラクスマンはフィンランド生れの博物学者で,イルクーツクに滞在中の光太夫と親しくなり,エカチェリナ2世に日本への使節派遣を進言した人物である。
次いで日露戦争の頃,帝政ロシアの内部攪乱工作の任務に就いていた明石元二郎は,フィンランドの活動家ツィリアクスKunni Zilliacusと1904年に協議している。フィンランドはロシア革命に乗じて17年に独立したが,帝政の崩壊は日露戦争により促進されたと考えられており,またアハベナンマー(オーランド)諸島の帰属が問題となったとき,国際連盟で日本がフィンランド側を支持したということで,フィンランド人の対日感情はきわめてよい。1919-29年初代駐日公使を務めたラムステッドは,日本語と朝鮮語をアルタイ諸語系として位置づけた著名な言語学者であり,言語と民俗の研究面で日本の関係者に直接大きな影響を与えた。そしてシベリウスの音楽や,ヌルミらのスポーツ選手の活躍を通じて,この国はしだいに一般の日本人にも身近に感じられるようになった。森本覚丹が訳出した《カレワラ》(1937)も,フィンランド文化の認識を深めるのに,小さくない役割を果たしている。
執筆者:小泉 保
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ヨーロッパ北部、スカンジナビア半島の付け根に位置する共和国。フィンランド語の正称はスオミ共和国Suomen Tasavalta、スウェーデン語名Republiken Finland。北緯60度から70度にわたり、南北に細長い。南はフィンランド湾、西はボスニア湾に面し、東はロシア、北はノルウェー、北西はスウェーデンと国境を接する。国土の3分の1弱が北極圏で、気候は寒冷であるが農林業は盛んである。面積33万8145平方キロメートル。うち3万3522平方キロメートルが内水面で、森と湖の国といわれ、正称「スオミ」のsuoは湖沼を意味する。人口520万6295(2003)。首都はヘルシンキ。
国旗は白地に青十字で、雪の白、湖の青、キリスト教の十字を象徴する。国歌はJ・L・ルネベルィ作詞、F・パシウス作曲の『Maamme』(たたえよ 祖国を)。
ロシアとスウェーデンの間にあって、歴史的にその支配・影響を受けてきたが、両国のいずれとも異なる民族的・文化的特質が1917年の独立でようやく国際的に認められた。国民の文化的・経済的水準は高く、国民性は勤勉でまじめである。第二次世界大戦後は東西両勢力の緩衝地帯としての役割を果たし、冷戦終結後は立場は変わったが、いまも難民支援など平和への努力をつねに怠らない。
[塚田秀雄]
ほぼ全域が先カンブリア時代の花崗(かこう)岩と片麻(へんま)岩からなり、南東部にはラパキビrapakivi(本来は「砕かれた岩」の意)とよばれる特殊な花崗岩がある。ボスニア湾沿岸では氷河の消滅以後、地盤が隆起しつつあるために、新しい粘土質の沖積土がある。古い安定陸塊が侵食によって楯状地(たてじょうち)の平坦(へいたん)面を形成したところに、地質学的にはもっとも新しい氷期と後氷期の作用が加わったと考えられる。全体として北から南、東から西へと低くなっている。6万に達する湖の大部分は、中南部の湖水地帯に集中する。それらの湖の成因の多くは、東北東―西南西に走る長大で複数のエンド・モレーン丘(終堆石(しゅうたいせき)丘)であるサルパウスセルカが、国土の傾斜に沿う南北の流れをせき止めたために湛水(たんすい)したものである。氷河を消滅させた温暖な気候は海水位を上昇させたために、低平な楯状地からなる国土のほとんどが一度は水面下に沈み、その後の地盤の隆起で沖積層を表面にのせて陸化した。その沖積層は肥沃(ひよく)な海岸・湖岸平野をなすが、最高海水位より高くとどまった地域は氷食された裸岩に覆われており、ドラムリン、エスカーなどの氷河地形が全域を支配していて農業は困難である。
気候は、北大西洋の低気圧の侵入があり、内海の影響もあって、高緯度のわりには冬が温暖である。年平均気温はラップランドのソダンキュラで零下0.4℃(1月零下13.5℃)、南部のヘルシンキで4.7℃(2月零下6.8℃)である。年降水量は500~600ミリメートルの所が多く、年間通じて降水があるが、南部では秋に比較的多い。初夏の干魃(かんばつ)と夏の霜が農業には危険であるが、冬の寒さは当然のこととして国民に受け止められている。気温以上に日照時間の季節差が、文化、社会、経済のあらゆる面に影響している。ヘルシンキでも12月の日照時間は、曇天の影響もあって、わずかに17時間である。ラップランドの山岳地域にツンドラ気候がみられるほかは、全域が亜寒帯多雨気候に属している。フィンランド湾やボスニア湾は塩分濃度が低く、2~6か月間は凍結する。
植生はマツ、モミの針葉樹林帯が支配的で、これにシラカバ、ハンノキなどが加わるが、南端部ではカシなどを含む混交林となり、北部ではしだいに矮化(わいか)し、ツンドラに変わる。クマなど大形の野生動物は減少したが、オオジカは都市の近郊にもなお数多い。
[塚田秀雄]
行政上は12県に分けられていたが、1997年9月より5県となった。一般的には自然によるラップランド、漸移地域、海岸平野、湖沼台地の4区分が基本となる。
ラップランドはラッピ県に相当し、いまもサーミ人のほとんどがここに住む。フィン人の進出は遅く、開発が遅れ、農業は寒冷な気候のために振るわず、トナカイ飼育が行われる。天然林を利用した製材などはケミ市を中心に行われているが、樹木の成長に要する期間が長く、植林は採算がとれない。もっとも未開発な地域である。
漸移地域は、県都オウルを中心とするオウル県に相当し、北ポヒャンマー地方にあたる。歴史的には長く北のサーミ人と南のフィン人やスウェーデン人の地域を隔てる緩衝地帯であった。南部の定住的な農耕民が広大な未開地を狩猟・漁労の場とし、しだいに農業地域が北進して、サーミ人を圧迫したのである。沿岸部の農業は酪農が主で、内陸部はかつての焼畑やタール焼成にかわって原木の切り出しが盛んである。
海岸平野は、バーサを中心とした南ポヒャンマー、トゥルクを中心都市とするワルシナイススオミ、タンペレなどを含むハメ、ヘルシンキの東西に広がるウーシマーの各地方と南カリャラ(カレリア)の一部からなる。古くからスウェーデン系住民によって定住農耕が行われた先進経済地域であり、農業では穀作、混合農業の比率が高く、林業はあまり盛んではない。都市化が進み、工業も活発で、全人口の約70%がこの地域に集中する。もっともゲルマン的な地域ともいえる。
湖沼台地はハメと南カリャラの一部を含むが、クオピオ県とミッケリ県からなるサボ地方が中心で、ヨエンスーを中心都市とする北カリャラが加わる。やや閉鎖的な森林地域で、19世紀末まで焼畑が行われた。方言、民俗文化の点でも強い個性をとどめている。小規模農家による酪農と林業は生産性が低く、農村人口は急速に減少しつつある。もっともスオミ的な地域といえる。
国土を北西―南東の線で区分して、南西部を文化的フィンランド、北東部を自然的フィンランドとよぶこともある。また、アハベナンマー諸島(スウェーデン語名オーランド諸島)は、高度の自治権を有する以上の4区分された地域とは別個の地域となっている。
[塚田秀雄]
最初の人類文化の痕跡(こんせき)がみいだされるのは紀元前7000年ごろからである。しかし現代フィンランド人はその直接の子孫ではなく、紀元後1世紀ごろにフィンランド湾南岸から移住するようになった民族とするのが定説である。その後、南西部からラドガ湖にかけて、スオミ、ハメ、カレリアの三大部族が形成された。12世紀になると、スウェーデンからの十字軍によってこれらの部族は次々とその支配下に入る。一方、南東からはノブゴロド共和国が勢力を伸ばし、1323年スウェーデンとノブゴロド共和国との間にパヒキナサーリ条約が結ばれ、国境が確定されたが、これによってカレリアは東西に二分された。
16世紀に入り、スウェーデンがデンマークの支配を脱し宗教改革が断行されると、『新約聖書』のフィン語訳(1548)もなされる。17世紀のスウェーデン興隆期にはフィン人部隊は勇名をはせたが、大北方戦争を機にフィンランドは何度かスウェーデンとロシアの角逐の場と化した。1809年には、ナポレオン戦争のあおりを受けてロシア皇帝を君主とする自治大公国としてロシアに併合されるが、スウェーデン時代からの諸制度は温存され、初めて国としての輪郭ができるなかでフィンランド人としての自覚が高まった。民族叙事詩「カレバラ」(カレワラ)集成などの文化運動も、しだいに支配言語であるスウェーデン語との闘争へと高揚していった。
しかし19世紀末からは汎(はん)スラブ主義の高まり、国際対立のなかでのペテルブルグ(社会主義時代のレニングラード)防衛の必要などから、フィンランドの自治権を奪おうとするロシア化政策が強行される。日露戦争の影響で一時ロシア皇帝の勢力が後退した1906年には、それまでの身分制議会が一挙に普通選挙による一院制の国会に変革された。ロシア化には暴力・非暴力による抵抗が試みられたが、ロシア革命(1917)がそれに終止符を打ち、レーニン政権から独立の承認を受けた。
翌1918年ブルジョア政府勢力と社民党革命勢力との内戦が勃発(ぼっぱつ)し、前者の勝利に終わった。共和国として新生したフィンランドは、このあと、国の安全保障を求めて苦難の道を歩み始める。1939年9月、ドイツがポーランドに侵入し第二次世界大戦が開始されると、その直後の10月、ソ連はレニングラードの防衛を理由としてフィンランドに領土の交換等を求めた。フィンランド側の非妥協的姿勢により交渉は決裂し、ソ連軍が侵攻を開始、「冬戦争」(第一次ソビエト・フィンランド戦争)に突入する。フィンランドは善戦及ばず、南東部を割譲せざるをえなかった。1941年独ソ戦が勃発し、フィンランドは第二次ソビエト・フィンランド戦争(継続戦争)に巻き込まれる。1944年休戦協定を結んでフィンランドが戦線を離脱すると、ドイツ軍はラップランドを徹底的に破壊した。一方、ソ連に対しては、占領は免れたものの海軍基地の提供、大幅な(12%)領土割譲、賠償などを強いられた。
戦後フィンランドは1948年にソ連と「友好協力相互援助条約」を結び、対ソ協調路線をとりつつ、中立政策を志向した。しかし、東西冷戦の終結とソ連の崩壊はフィンランドをめぐる国際政治環境を一変させた。フィンランドは、1992年にロシアと平等・互恵を原則とする基本条約を結ぶかたわら、西欧への接近を図り、1994年に北大西洋条約機構(NATO(ナトー))との間で平和のためのパートナーシップ協定を締結、さらに1995年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟するなど、冷戦後の時代に適応した新たな外交・安全保障政策を講じている。
[玉生謙一・松村 一]
1919年制定の憲法で任期6年の大統領に広範な権限を与えている。議会は一院制で、比例代表制の選挙が行われる。小党が分立し、従来は第一党の社会民主党およびこれに続く左翼の人民民主同盟と、中間派の中央党の三党で連立内閣を組織することが多かった。1956年以来、1981年10月病気辞任するまで連続して大統領の地位にあった中央党出身のケッコーネンの指導力は、小党分立の状況によって維持されてきた。1987年の総選挙で初めて左右連合政権が成立したが、1991年には、保守中道政権、1995年には、社会民主党を中心にした連立内閣になるなど、ソ連の崩壊など環境の変化を反映しながら、やや不安定な政情が続く。伝統的に社会民主党の勢力が強い。
2000年の大統領選挙ではタルヤ・ハロネンTarja Halonen(1943― )が当選、初の女性大統領となり、2006年再選を果たした。2003年の総選挙では中央党が第一党となり、以後、中央党を中心とした連立内閣が組まれている。
アハベナンマー諸島を含めて国内を5に区分する県は国の行政機関であり、地方自治体は市町村のみである。
ソ連とは友好協力相互援助条約を結んでいたが、1992年に、ソ連崩壊とともにこれを破棄し、1995年にはEUに加盟した。しかし、外交の基本政策は非同盟中立であるから、EUの外交・防衛政策との調和の問題がある。
かつて対ソ連関係を重視せざるをえなかった状況を「フィンランド化」とよんだが、この国の外交はつねに国際平和への貢献を指向しており、国連の平和維持活動にも積極的に参加している。
なお、1994年から2000年まで大統領を務めたアハティサーリが、国際紛争の解決に貢献したとして2008年にノーベル平和賞を受賞している。
[塚田秀雄]
18世紀までは焼畑を含む自給的農業が経済活動の根幹であり、漁業、狩猟、製鉄を含む手工業もほとんどが農業あるいは農村にかかわっていた。林業も木タール製造やマスト材の伐採が行われた。これらの経済活動は、西ヨーロッパとロシアの両経済圏の谷間に置かれていた。19世紀の後半以降、新大陸の開発や産業革命の影響を強く受けるようになり、林業とそれに基づく工業が国家経済の基本となった。しかし産業構造は国内市場の狭小も原因となって、木材関連産業と金属機械や造船など一部の産業に偏っている。石油、石炭の埋蔵は確認されず、鉄、銅の鉱山は小規模である。コバルト、バナジウムがわずかに輸出される程度で鉱物資源には恵まれていない。水力にも、落差が小さく水量が不安定、湖が浅く貯水能力が小さいなど、恵まれてはいない。森林資源のみは大いに活用されているが、生育に要する期間が長いため、人口密度、農業との相対的問題として考えれば過大評価はできない。
農業は、条件に恵まれた南西部で混合農業や小麦、ライムギの主穀農業が行われるが、全体的には10ヘクタール程度の小農家による酪農が中心である。すべての農作物の栽培限界にあたるこの国では、牧草でさえ被害を受ける真夏の霜による凶作が繰り返された。しかし、現在ほとんどの農産物は自給能力を有しており、高コストのために輸出能力を欠く酪製品は過剰生産に悩んできた。農民は現金収入の多くを林業経営と林業労働から得ている。高度の機械化が進んだため林業労働の生産性は高いが、これがかえって農民を林業労働から排除し、少数の専門林業労働者を分離することとなり、農家経営を困難にしつつある。林地は集約管理されるが、植林などの投資が有効なのは成長が比較的早い中部以南である。モミは南部に多いが、マツはラップランド北部を除く全域に分布し、これらとともに、近年はシラカバもパルプ用材として利用されるようになった。水産業はフィンランド湾、ボスニア湾で小規模なイワシ・ニシン漁を主とした沿岸漁業がみられるにすぎない。かつて盛んであったサケ漁は資源量が減少し衰退した。
工業は、国内市場向けの食料、衣料、化学製品などがあるほか、林産加工業とそれに関係する機械製造、砕氷船など地理的条件を生かしたものに特色がある。1993年の統計では、林産加工と製紙業あわせて20.5%、金属・機械が32.9%を占める。輸出収入でみると前者は約35%に達する。機械類ではパルプ・紙製造プラントや多目的林業用機械に特色があり、林産加工では製材製品、紙、板紙、パルプ、合板などの工場が沿岸の港市や湖の排水点の近くに立地する。製材製品のプレハブ住宅、家具などのように付加価値の大きい高次加工品に製造の重点が移りつつある。また、ノキアは携帯電話機製造で世界最大手のメーカーとして知られ、輸出における携帯電話機の占める割合も高くなっている。
1995年のヨーロッパ自由貿易連合(EFTA(エフタ))からの離脱、EU加盟は、貿易については、実態に即したものであり、ドイツ、イギリス、アメリカや隣国スウェーデンとの取引が大きい。2000年の段階では、輸出は約459億5000万ドル、輸入は約341億4000万ドルである。
なお、1999年ヨーロッパ通貨同盟(EMU)に加盟、通貨にユーロを導入している。
鉄道の総延長は5859キロメートル(1995)で、大半が国有である。道路総延長は7万9166キロメートル(1995)。ほかに、河川、運河、数多い湖を通じ、総延長6300キロメートルに及ぶ航行可能水面をもつ。航空はフィンランド航空とカル航空の2社がある。
[塚田秀雄]
公用語はフィン語(フィンランド語)とスウェーデン語であり、西部・南部に約6%のスウェーデン語を話す人々が住むが、出生率が低く国外への移住率が高いためにスウェーデン語人口は減少している。ラップランドにはサーミ人(1726人、1994)が住み、サーミ語を話している。言語上の少数派の利益を擁護せよという声は尊重されてはいるが、困難な問題の一つである。人種的には混血が進んでいるが、フィン語を話すフィン民族は、フィン・ウゴル語族の一語派としてその文化的特質がよく維持されてきた。言語上もっとも近縁であるのは、フィンランド湾を挟んだ対岸のエストニア民族で、相互に意思疎通が可能である。18世紀後半以来、スウェーデンやロシアの文化的支配に対抗して、フィンランド民族主義の出発点となったのはフィン語であり、民族叙事詩「カレバラ」であった。ラップランド、海岸平野、湖沼台地という地域区分は、中世における優勢な言語としてサーミ語、スウェーデン語、フィン語をそれぞれ有していたとも考えられ、フィン語の支配力が強化され、その話される地域を拡大したとみることができる。人口の自然増加率は0.5%台と低いうえに、国外移住が多く、1960年代に約18万人ほどに達した移住者は1970年代に入って減ったものの、なお北アメリカ、スウェーデン、オーストラリアなどへの移住が人口の増加を抑えている。
2000年の1人当り国内総所得(GNI)は2万4900ドルであるが、所得の格差は都市住民の階層間におけるよりも、産業間、地域間の差として強く現れている。都市的産業の水準の高さに対し、農林業は低い。1人当り収入は1966年にヘルシンキで指数164に対し、北部の農村では65(全国平均100)であったが、1976年には135と85に縮小した。これは北部への投資が進んだこともあるが、北部から南部都市域への国内人口移動の結果でもある。北東部の農村では廃村や集落の再編成などの現象もみられ、1960年代以降の経済・社会の変化は急激であった。都市の生活に適応できない村からの流出人口は、失業、アルコール中毒などの社会問題を生んでいる。同時に、都市における住宅不足は深刻な問題である。
老齢年金、就業不能者年金、健康保険を柱とする社会保障制度は年々充実し、医療サービス制度や義務教育の完全無料化などと相まってこの国を高度の福祉国家にしている。教育の面でも、新しい学校制度によって統合学校がつくられ、義務教育は9年制となった。その上に各種の期間の異なる職業学校と高等教育への進学を主目的とする高等学校がある。大学は10の総合大学のほか、工科大学、経済大学、芸術大学などを含めて23あり、そのうち3大学はもっぱらスウェーデン語で授業を行う。中等・初等教育においても、スウェーデン系国民に対するスウェーデン語による教育機会が保障されている。
宗教は福音(ふくいん)ルーテル派教会が国教となっているが、信仰の自由は保障されている。国民の85.9%がルーテル派教会、1.1%が東部を中心にギリシア正教を信じている(1994)。
テレビは公共放送4系統があり、民間テレビ1局が商業放送を行っている。ラジオは公共放送のフィンランド語3系統、スウェーデン語1系統があるほか、ローカル局が59局ある。一般新聞62紙中、10紙がスウェーデン語である(1996)。
[塚田秀雄]
寒冷な気候、季節による昼夜の長さの極端な違い、広大な針葉樹林という自然条件の世界に、フィンランド湾やカレリア地峡を越えて入り込んだフィン人にとって、森林の開墾者、ポヒョラすなわち北の土地を目ざす者というあり方は「カレバラ」に歌い継がれた基本的な性格である。東のロシア、西のスカンジナビアの文化圏の影響を受けながら、ヨーロッパに同化し、変容しつつもなお個性ある文化を受け継いでいる。
フィン人は孤独好きだといわれる。都市生活者にとって、夏の別荘を話題にする場合、それが湖畔にあって気分のよいサウナがついていることはもちろん、他人の別荘からどれだけ離れていて、週末に滞在してもだれとも顔をあわせなくともよいということが最大の自慢の種である。焼畑農業をしていた際に広大な林地を必要としたことの名残(なごり)かもしれない。この別荘で週末や夏の休暇を過ごして、イチゴやキノコを摘むのも大きな喜びである。自然に包まれていなければ不安な人々である。その孤独好きは、長く暗い冬の間、フィン人をして読書に没頭させる。けれども孤独好きというのはかならずしも正しくない。フィンランドの童話作家T・ヤンソンの描いた「ムーミン」の谷間の生活は、協力して働くことの多かったフィンランド農村社会を表している。土地の私的所有の概念が入ったのは、地域によって異なるが、一般に遅かった。客好きでもある。東部ではとくに陽気で、一族集まって時を過ごす習慣が残った。ヘルシンキのセウラサーリ島にある豊かな民家博物館はそのような民族文化・社会の特徴を示している。
長い異民族支配に耐えて独立をもたらしたのは、守り続けてきた言語を核に、独自の文化に対する誇り、農民の勤勉さ、粘り強く不屈のがんばりを発揮する精神すなわちシスsisuであろう。シベリウスの交響詩『フィンランディア』は美しく過酷な自然への愛着、独立への執念、喜びを主題とするといわれるが、フィン人はそこにシスをみいだして満足する。
建築家アルバール・アールトの作品は数多いが、たとえば機能的で美しい図書館が町の誇りになっている。繊維製品、家具、什器(じゅうき)などにおいても、単純・素朴ながら大胆なデザイン、優れた機能をもつものがつくりだされ、世界的な評価を得ているが、その根底には森の自由な農民精神がある。伝統は尊重するが、それにとらわれるばかりではない開拓者精神をうかがうことができる。
[塚田秀雄]
フィンランド国民の対日感は歴史的にはごく友好的である。フィンランド独立の契機となったロシア革命は日露戦争におけるロシアの敗北がもたらしたという認識と、スウェーデンとの間で帰属が問題になったアハベナンマー諸島についての国際連盟の討議に際して日本がフィンランドを支持したことを記憶する知識人も多い。ヨーロッパに日本を紹介した地理学者ノルデンシェルドはスウェーデン系フィンランド人であった。現在では、共通する巨大な隣人ロシアを有するという感じ方も、第二次世界大戦中、ともにドイツと手を結んだという意識もある。一般にフィン人は日本についてかなりの関心をもっている。芭蕉(ばしょう)の『おくのほそ道』はフィンランド語訳が出版されている。日本人音楽家などでフィンランドで活躍する人も少なくない。交換留学生などを通じて、じみながら相互理解は進みつつあり、日本におけるフィン人キリスト教宣教師の活動も古くから活発であった。
2000年には日本への輸出8億6208万ドル、日本からの輸入12億4414万ドルで、日本の大幅輸出超過であるが、貿易額は大きくない。日本への輸出はパルプ・紙、非鉄金属が中心である。輸入は自動車、電気機械、その他機械類が多い。プレハブ住宅、サウナ設備、繊維製品、携帯電話機などの日本への輸出が漸増しているが、対日貿易赤字を解消するまでには至らない。
[塚田秀雄]
『角田文衛編『北欧史』(『旧版世界各国史6』1955・山川出版社)』▽『木内信蔵編『世界地理6 ヨーロッパⅠ』(1979・朝倉書店)』▽『百瀬宏著『北欧現代史』(『世界現代史28』1980・山川出版社)』▽『外務省編『スウェーデン王国・フィンランド共和国』(『世界各国便覧叢書 新版』1983・日本国際問題研究所)』▽『石渡利康著『フィンランドの中立政策』(1992・高文堂出版社)』▽『フィンランド大使館監修『フィンランド』(1993・NTTメディアスコープ)』▽『フィリス・L・シュスター著、青山保訳『フィンランド』(1996・国土社)』▽『百瀬宏他編『北欧史』(『新版世界各国史21』1998・山川出版社)』▽『M・ヤコブソン著、上川洋訳『フィンランドの外交政策』(日本国際問題研究所・国際問題新書)』▽『リョンロット編、小泉保訳『カレワラ』上下(岩波文庫)』
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バルト海の北側に位置し,ロシアと境を接する共和国。この地には古来フィン人が居住していたが,スウェーデン,ロシアの二大勢力の相克場となり,13世紀末にスウェーデンに統合された。以後6世紀間にわたりスウェーデンの支配を受け,時に「公国」とされてスウェーデン文化が定着したが,1809年,ナポレオン戦争の結果ロシアに割譲され,大公国となった。この頃からフィンランド人としての民族的自覚が強まり,19世紀末から始まったロシア帝国の圧迫に対して抵抗を行い,1917年12月6日,独立を宣言した。第二次世界大戦中は,39~40年に第1次ソ連‐フィンランド戦争(冬戦争)を経験し,さらに41年にドイツがソ連に侵攻すると,第2次対ソ戦争(継続戦争)に入り,敗戦国となった。大戦後は48年にソ連と友好協力相互援助条約を結び,ソ連との信頼関係を築きながら,中立政策を確立していった。ソ連崩壊後の95年,EUに加盟。
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…そのため〈ロシア革命〉という名称が〈十月革命〉と同義に用いられる場合もある。
【歴史的前提】
20世紀初めのロシアは,フィンランドに自治を認めつつ支配し,ポーランド,カフカスを完全に併合し,東はシベリアより極東までを版図に収めた広大な帝国であった。大ロシア民族が,この帝国の住民を構成する多数の民族を支配していた。…
※「フィンランド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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