精選版 日本国語大辞典 「プルースト」の意味・読み・例文・類語
プルースト
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20世紀文学に変革をもたらしたフランスの作家。父はカトリックで医学界の重鎮。母はユダヤ人の金融業者の娘。反ユダヤ主義が急速に広まった19世紀末フランスでのこの母方の家系と,母の過度の愛情が,プルーストの素質決定に大きく作用したと思われる。2歳下の弟は後に父の後を継いで医学を選ぶが,プルーストは幼いときから母に似て文学好きだった。とりわけ9歳のときの激しい喘息の発作以来,生涯にわたりこの病気に悩まされ,そのために人並みの職業につけなかったことも手伝って,やがて彼は文学を天職と見なすようになる。その上,彼は20歳を過ぎるころから,同性愛者としての傾向を自覚するようになり,そのことが彼の後の作品に特異な主題と雰囲気を与えるようになる。
若い頃から,プルーストは社交界に出入りしているが,そこは彼にとってスノビスムを満足させる場所であるとともに,屈強な観察の場所でもあった。処女出版《愉しみと日々》(1896)は,同人誌に発表した文章に新たな詩文を書き加えたもの。また1895年ごろから,自分の分身のごときジャン・サントゥイユという人物を主人公とする長編に取り組むが,完成に至らず放棄する。ついでジョン・ラスキンに傾倒し,多くのエッセーと,ラスキン作《アミアンの聖書》《胡麻と百合》の翻訳とを発表。1903年に父を,05年に母を失い,一時は失意のどん底に陥るが,立ち直って08年ごろから,さまざまな作家の模作による批評を試みるとともに,サント・ブーブの方法を批判すべく多くのノートや断章を執筆する。これが後の大作《失われた時を求めて》を準備することになる。プルーストの創作の根底にはこのように,厳密な批評意識と方法論がひそんでおり,それが彼をして,象徴派以後のフランス文学の最も正統的な作者たらしめたのである。
病身で神経質なプルーストは,この頃,自分の部屋をコルク張りにして外部の音を遮断し,日夜創作に励んだあげく,《失われた時を求めて》はいったん完成し,第1編が刊行されたが(1913),第1次大戦のために出版は中断される。大戦中にプルーストは多くの加筆を行い,作品は大幅に膨張。戦後,第2編《花咲く乙女たちのかげに》(1919)がゴンクール賞を獲得し,作者の名声は大いに上がる。健康がますます衰えたプルーストは,けんめいに作品の完成に励むが,第4編までを出版して第5編の校正刷りにとりかかっていた段階で,ついに力尽きる。したがって,全7編の大作の第5編以後は,未定稿のまま作者の死後に出版された。
プルーストの一生は,この未完の作品に収斂される。またその作品は,ひとりの作家が自分の全存在を虚構化する試みということができる。したがって自伝的な要素も強いが,同時にそこには小説による救済,小説による実人生の正当化の契機も含まれており,その意味においてもプルーストの作品は,小説の根本問題を後世に投げかけたものである。
日本の現代文学に与えた影響も大きいが,とりわけいち早くすぐれたプルースト論を書いた堀辰雄や,《方舟》グループの作家たち(とくに初期の中村真一郎)には,その影響が顕著な形であらわれている。
執筆者:鈴木 道彦
フランスの化学者。父親の薬局を継ぐべく薬学を学んだが,パリに出て病院の薬剤師となった。しかし,途中の5年間の一時帰国を除き,24年間,スペイン(おもにマドリードとセゴビア)において物理,化学,鉱物学等を教授した。おもな研究はスペイン滞在中になされたが,金属の酸化物,硫化物の定量分析に関するものが多い。帰国後,アカデミー・デ・シアンスの会員となる。
現在プルーストの法則として知られている〈定比例の法則〉の発端は,鉄はそれまで考えられていたように,ある範囲内ではどんな割合でも酸素と結合するのではなく,2種の酸化鉄しかないことを確かめたことにある(これは1794年の《ベルリン青の研究》という論文で発表された)。19世紀の初め,この法則の是非をめぐって,C.L.ベルトレと論争を行った。このほか,銅の化合物の分析から水酸化物という新しい化合の形を発見してもいる。
執筆者:吉田 晃
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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フランスの化学者.薬剤師であった父親から,後を継ぐため薬学を学んだが,パリに出て化学を学び,サルペトリエールの病院に薬剤師として一時期職を得た.1786年スペインへの2度目の招待を受け,はじめはマドリッドで教えた後,セゴビアの砲兵学校の化学教授となった.このころから,鉄の酸化物の定量分析研究をはじめ,化合物の組成比が変化することはないことを実験によって示そうとした.いわゆる定比例の法則である.そこから,化合物の組成比は可変であるとするC.L. Berthollet(ベルトレ)との論争がはじまった.当時は,結合と混合の定義のあいまいさもあって,定比例の考えはすぐには支持されなかった.1806年にフランスに帰国したが,晩年の1816年になって,ようやくフランス学士会員に選ばれた.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
1871~1922
フランスの作家。青年時代を社交界と文学趣味に過ごしたが,1905年頃両親の死と持病の悪化を機に社会と絶縁し,一室に閉じこもり『失われた時を求めて』の執筆に全力を傾けた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…一つの化合物に含まれる成分元素の質量の比はつねに一定であるという法則で,1799年J.L.プルーストにより見いだされた。この法則が成り立つのは,原子量の一定な成分元素がつねに一定の原子数の比で化合物をつくるからである。…
…フランスの作家プルーストの,自伝的要素を盛りこんだ作品で,名前も明記されていない語り手の物語る一人称小説。1913‐27年刊。…
…ポーの諸短編が素描した〈あまのじゃく〉の心理は,ロシアのドストエフスキーによって無意識の深淵にまで追求され,心理分析小説の前提である古典力学的決定論を完全に無効にした。こうした傾向を集約した人間学の新しい理論として登場したのが,フロイトの精神分析学であるが,それと呼応するかのように,プルーストは畢生の大作《失われた時を求めて》(1913‐27)で,〈私〉の独白に始まる自伝的回想が,そのまま写実的な一時代の風俗の壁画でもある空間を創造して,心理小説に終止符を打った。人物や家屋や家具の純粋に視覚的な描写の連続のしかたが,そのまま観察者=話者である主人公の嫉妬の情念の形象化でもあるようなロブ・グリエの《嫉妬》(1957)は,プルーストの方法をいっそうつきつめた成果であるが,その先駆者は《ボバリー夫人》(1857)のフローベールにほかならない。…
…プラトンを教皇としソクラテスを使節とする善なる教会の従僕であることを誇ったP.ベルレーヌとその相手のJ.N.A.ランボー,民衆詩人W.ホイットマン,社会主義運動にひかれた詩人E.カーペンター,男色罪で2年間投獄されたO.ワイルド,S.ゲオルゲなどがとくに知られているが,彼らばかりではない。ゲーテは《ベネチア格言詩》補遺で少年愛傾向を告白し,A.ジッドは《コリドン》で同性愛を弁護したばかりか,別の機会にみずからの男色行為も述べ,《失われた時を求めて》のM.プルーストは男娼窟を経営するA.キュジアと関係していた。J.コクトーと俳優J.マレーとの関係も有名である。…
※「プルースト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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