翻訳|Persia
イランにアケメネス朝を建てたペルシア人が支配した古代オリエントの大帝国。ペルシア人はインド・ヨーロッパ語族のアーリア民族の一系統の遊牧民で、同族のメディア人やマンナイ人とともにウルミーエ湖周辺に住んでいた。紀元前1000年ころ他のアーリア民族とイラン北西部へ移動してきた。
[吉村作治]
当時ペルシア人は10の部族から構成されており、アケメネス家もそのなかの一部族に属していたが、前700年ころ、王朝の祖アケメネスが指導的地位を獲得し、ザーグロス山脈を南下してファールス地方に定住した。その子テイスペスはアンシャン地方を征服してアンシャンの王と称し、この称号が歴代諸王に用いられた。王の死後、前640年から王国は2人の子供キロス1世とアリアラムネスによって分割統治され、それはダリウス1世の統一まで続けられた。兄のキロス1世は長子アルックを人質としてニネベに送り、アッシリアの宗主権を認め、またメディアにも服従していた。前612年メディア王キャクサレスはバビロニア王ナボポラサルと同盟を結んでニネベを攻撃し、アッシリアは滅亡した。その結果メディアはイランの大部分を版図とする大国となり、前585年ころキャクサレスの子アスティアゲスがその後継者として即位した。
一方、キロス1世の後を継いだカンビセス1世は、友好を深めるためにメディア王アスティアゲスの娘と結婚した。またキロス1世の弟アリアラムネスの王位はその子アルサメスが受け継いだが、まもなくカンビセス1世により退位させられ、その子ヒスタスペスはヒルカニア総督になった。
カンビセス1世の子キロス2世はペルシアをメディアの支配から独立させ、アケメネス朝による統一国家を築いた。前559年即位したキロス2世はバビロニアのナボニドスと同盟し、祖父のメディア王アスティアゲスを破り、メディアは首都エクバタナを攻略されて滅亡した。メディアはペルシアの属州となったが、メディア人は帝国内において被征服民族のなかでもっとも高い地位を与えられ優遇された。
[吉村作治]
ペルシア帝国の急激な発展は近隣諸国に脅威を与えた。メディア攻略では同盟国であったバビロニアもペルシアの進出に対抗して、エジプトやスパルタとともにリディアと同盟した。しかしキロス2世は、前546年、リディア王クロイソスを破り小アジア地方を征服し、前539年にはバビロニアの首都バビロンを占領した。王は、バビロニア王ナボニドスとマルドゥク神官団との内紛に乗じて、バビロン入城を果たした。幽閉されていたユダヤ人をはじめとする諸民族を解放したのち、マルドゥク神殿の再興を許し、神官からバビロニアの王としての称号も与えられた。王は、征服した民族に対しては、兵役と納税の義務を果たせば自治権を認めた。王は、異民族の連合国家であった広大な帝国を治めるために、各民族特有の支配機構を廃することなくむしろ利用したのである。この基本方針は帝国支配の大前提として受け継がれた。王はさらに北東の遊牧民討伐に着手したが、前529年その遠征中に死去した。キロス2世はメディアを征服してから約20年間で、ペルシアを、東はインダス川から西は小アジア地方にまで及ぶ大帝国に築き上げたのであった。
[吉村作治]
キロス2世の後を継いだその子カンビセス2世は、父王の事業を継続するとともに、前525年エジプト征服を達成した。しかししだいに専制君主の傾向が顕著となったため、王のエジプト遠征中にその弟バルディアとマゴス僧ガウマータが反乱を起こし帝国を支配した。一方その知らせを聞いたカンビセス2世は急遽(きゅうきょ)帰国するが、その途中死去してしまった。この事件に関しては諸説があり、カンビセス2世は自殺したという説もある。
これによって帝国は混乱し、諸民族は反乱を起こしたが、前522年ダリウス1世はガウマータ一派を倒し帝国を再統一した。このダリウス1世は前述のアリアラムネスの血筋を引くヒルカニア総督ヒスタスペスの子であった。しかし王は国内の反乱を鎮圧するために数年を費やした。前520年サルディスの総督オロイテスの謀反を鎮め、前519年にはサカ人を討伐した。そして前519年から翌年に行われたエジプトの反乱制圧をもって最終的な帝国の再統一事業は完了した。王は統一の経過を、エクバタナとバビロンを結ぶ旧道近くにある岩山に刻ませた。ベヒスタン碑文とよばれるこの碑文には、ダリウス1世の王位継承の正統性が書かれているが、それは王がアケメネス家の傍系出身であったためである。そして王権獲得の正統性を示すために、ゾロアスター教の主神アフラ・マズダーの意志によって王位を与えられたと述べている。そのほかこの碑文には、各州の反乱の鎮圧、アフラ・マズダー神に対する信仰心なども刻まれている。
一方ダリウス1世は、キロス2世の支配体制を受け継ぎながら、王家の中央集権化を進めていった。まず広大な領土を約20の行政単位に分割し、各州にはサトラップとよばれる総督を任命して統治させるサトラップ制を確立した。この制度はキロス2世治下に始まるが、ダリウス1世は各州に納税の義務を与えることによって税収入を確実にし、国家財政を安定させた。租税はサトラップが徴集した。また王は新しい貨幣を鋳造して貨幣経済を導入したが、全国的に普及するには時間を要した。ダリウス1世のつくった金貨はダレイコスとよばれている。各州は納税のほかに兵役が課されていた。ペルシア人は特権として免税権をもっていたが兵役の義務はあった。ペルシア軍は、ペルシア人とメディア人から編成された不滅隊とよばれる常備軍と、1000人のペルシア貴族からなる親衛隊があった。親衛隊を指揮する千人隊長は宮廷の要職として、軍の指揮のほかに財政管理や王の官房長官の権限をもっていた。
被征服民族は、兵役と納税を怠らなければ、従来の制度や慣習、宗教に対して統制されることはなかった。しかし中央からは地方行政の監督官である「王の目」とよばれる官吏が派遣され、その補佐官「王の耳」とともに、各州の動向を絶えず王に報告した。広大な帝国を支配するには、地方と中央との情報伝達を敏速に行う必要性があった。また軍隊の移動も速やかに行われなければならなかった。そのため交通網の整備が促進された。中央官庁のある都スーサとサルディスの間には王道が建設されて、駅伝制が導入され、エジプトではナイルと紅海を結ぶ運河が掘られた。交通機構の発達や貨幣経済の確立、度量衡の統一によって、交易などの商業経済が大きく発展した。
ダリウス1世はペルセポリスを帝国の新しい首都と定め、前520年にこの建設を開始した。宮殿建設には各州から集められた国民が賦役として作業を行った。しかしペルセポリスは政治の中心というより王の神聖な都として、歴代諸王が増築を続けた。ダリウス1世は帝国内での宗教は統一せず、征服した民族には寛大な処置をとったが、王はアフラ・マズダー神を崇拝した。アケメネス朝のこの政策は、複数民族の連合であった帝国を支配するために非常に有効であった。前513年になるとスキタイを攻撃した。前500年にはミレトス市を中心にイオニア諸市が反乱を起こしたため、前々から征服を欲していた王はこの事件を口実にギリシア遠征を開始した。しかし前492年と前490年の2回にわたる遠征(ペルシア戦争第1回遠征)は失敗し、ギリシアとの本格的な戦いはダリウス1世の後継者クセルクセス1世によって行われる。
[吉村作治]
前486年即位したクセルクセス1世は、エジプトとバビロンに起こった反乱を鎮圧したのち、ギリシア遠征(ペルシア戦争第2回遠征)を行った。しかしペルシア軍は前480年サラミスの海戦でアテネ艦隊を中心としたギリシア海軍に敗れ、前479年にはプラタイアイでも敗北した。ダリウス1世の治世から3回にわたって行われたギリシア征服の試みは不成功に終わった。
クセルクセス1世の子アルタクセルクセス1世の時代、前450/前449年にカリアスの和約が結ばれ、ペルシアはギリシア諸市に対する影響力を失った。王の死後、宮廷内では王位継承の争いが起こって王の長子クセルクセス2世は殺され、前424年庶子のダリウス2世が王位についた。王はアテネを牽制(けんせい)するためにその敵対国スパルタに資金援助をした。その結果ペロポネソス戦争は激化しペルシアの外交政策は成功した。次王アルタクセルクセス2世の治世、前401年には弟のキロスが反乱を起こしたが制圧された。この時代になると帝国の統一は崩れ、エジプトの独立など各州の謀反が相次ぎ、王家の権威は衰退してきた。スパルタはペルシアとの長年の戦争を終結させるため前386年和平条約(アンタルキダスの条約)を結び、小アジアのギリシア諸市とキプロスに対するペルシアの支配権を認めた。
前359年即位したアルタクセルクセス3世は、エジプトをふたたび服属させ、ダリウス1世以降においてもっとも国力の安定した時代となった。しかし王は重用していた宦官(かんがん)バガオスに殺され、王位はアルメニア総督だったダリウス3世が前336年に継いだ。当時ギリシア諸市は衰退し、台頭してきたフィリッポス2世治下のマケドニアに服していた。ペルシア征服のため全ギリシアの同盟を結成したフィリッポス2世は暗殺され、この事業はその子アレクサンドロスが達成した。ダリウス3世はマケドニア軍に、前333年にはイッソスで、前331年にはガウガメラの戦いでも大敗を喫した。そして前330年、王はサトラップのベッソスに殺され、ペルシア帝国は滅亡した。
[吉村作治]
『ギルシュマン著、岡崎敬・糸賀昌昭・岡崎正孝訳『イランの古代文化』(1970・平凡社)』▽『伊藤義教著『古代ペルシア』(1974・岩波書店)』
前6世紀後半に古代オリエント世界の統一を完成し,その後およそ2世紀にわたって中央アジアからエジプトに至る広域支配を続けた帝国の称。アケメネス朝ペルシア(アケメネス朝)ともいう。
ペルシア人はメディア人とともに西イラン族に属し,前1000年ころイラン高原に到来した。前843年,アッシリア王シャルマネセル3世の碑文にみえるパルスアParsuaが記録に現れる最初である。彼らは当時ウルミエ(レザーイエ)湖南西部にいたが,その後ザーグロス山脈を南下し,前7世紀前半にエラムのアンシャン地方に入って定住した。この地はやがて彼らの名にちなんでパールサPārsa(ギリシア語ペルシスPersis,ラテン語ペルシアPersia)と呼ばれた。現在のファールスFārs州である。アケメネス朝がペルシア人の指導者としての地位を確立したのは,移動中の前700年ころであった。パールサにおいてエラム,次いでメディアに服属した。
前550年,キュロス2世はメディア王国を打倒してペルシアの独立を果たした。彼はそれと同時に,高原のイラン諸族の利害を代表していたメディア王国の政治目的を継承することになった。第1は西方世界への進出であり,こうして前547年にリュディア,前539年に新バビロニアの征服が行われた。第2は遊放民の侵入に対する北東イラン辺境の防衛であり,そのためキュロスは中央アジアに遠征し,最後にサカ系遊牧民マッサゲタイと戦って没した。彼の後を継いだカンビュセス2世は,前525年にエジプトを占領して古代オリエント世界の統一を実現した。前522年にマゴス祭司ガウマータGaumātaによる王位奪事件が起こり,帰国の途中でカンビュセスが亡くなると,アケメネス一族のダレイオス1世がガウマータを倒して王位に就いた。初期のペルシア帝国は,キュロス2世やカンビュセス2世が征服したそれぞれの国家の王に即位することによって成り立つ同君連合国家の形態をとっていたから,キュロス王統の断絶は臣属民族にとってペルシア支配の終了を意味した。
ダレイオスの即位後まもなくバビロニア,エラム,メディア,マルギアナが独立をはかり,本国ペルシアにおいても反乱が起こった。ダレイオスはペルシアおよびメディア貴族の支持を得てこれらの反乱を1年の間に鎮圧することができた。その後,彼はインダス地方に進出し,前513年にはトラキア,マケドニアを従え,黒海北岸のスキタイ人の地に遠征を行った。同じころ,リビアの併合が実現し,帝国は最大領域に達した。しかし,ダレイオスの功績は,征服よりも組織者としての仕事のうちに求められる。前522-前521年の大反乱は初期の帝国支配の脆弱性を明らかにした。統一を再建した彼は,新都ペルセポリスの造営とともに,統治組織の再編成に着手した。サトラップ制や税制の改革,欽定貨幣の鋳造,駅伝制と行政通信体系の整備など,彼の施策によって中央集権体制は強化され,その後2世紀にわたる帝国支配の基礎が確立された。
前5世紀に入ると,イオニア諸都市の反乱(イオニア反乱)を契機としてギリシアとの対立が生じ,ペルシア戦争が起こった。しかし,帝国にとっていっそう重大な問題は,ダレイオスの末年からクセルクセス1世の初期にかけて相次いで起こったエジプト(前486)とバビロニア(前484および前482)の反乱であった。クセルクセスは反乱を鎮圧した後,2州に対する統制を強化した。その結果,バビロニアはペルシアの収奪をますます強く受けて疲弊するにいたったが,より遠く離れたエジプトでは自立の動きを完全に抑えることはできなかった。前480年のギリシア本土遠征の失敗とともに対外征服戦争は終了し,以後ペルシア王の関心は広大な帝国領土の維持に向けられた。それと同時に専制政治の弊害も現れはじめ,クセルクセスは親衛隊長らの宮廷陰謀によって殺された。続くアルタクセルクセス1世の治世前期にエジプトが反乱を起こし,アテナイと結んでペルシアに抵抗した。しかし,前454年に反乱は平定され,ペルシア戦争以来続いたアテナイとの敵対関係も〈カリアスの和約〉(前449)によって一応の解決をみたので,帝国の平和は維持された。
中央集権体制の弱体化はダレイオス2世のもとに醸成され,アルタクセルクセス2世の時代に明らかになった。彼は前401年に王位をねらう弟キュロスKyrosの軍を破ったが,父王末年に離反したエジプトを回復することができず,治世末期の約10年間は西部諸州のサトラップの反乱に苦しんだ。エジプトは60年余り自立を続けたのち,アルタクセルクセス3世によって再征服された。この遠征に功績のあった宦官バゴアスBagōasは,王を毒殺してその子アルセスArsēsを即位させ,次いでアルセスも殺して傍系のダレイオス3世を王に選んだ。ダレイオスはバゴアスを倒して宮廷政治の粛正に努めたが,まもなくアレクサンドロス大王の率いるマケドニア・ギリシア軍の侵入に遭い,前330年彼の死とともに帝国は滅亡した。
ペルシア帝国の領域はヨーロッパ大陸をはるかに上回り,そのなかには言語や宗教,社会や経済生活を異にする多数の民族を含んでいた。ペルシア王は征服した各地域の既存の体制を利用しながら,それらをすべて包括する新しい秩序の創出に努めた。キュロス2世は,臣属民族に対して,軍役と貢納義務を守れば必要以上にその内部の問題に干渉しないという政策をとった。サトラップ制や税制改革によって行政の組織化をはかったダレイオス1世も,基本的にはキュロスの政策に従った。彼は統一的な帝国法典を編纂するよりも,エジプト人に慣習法の成文化を命じたように,諸民族の法を保障する道を選んだ。
キュロス2世はパサルガダエ,ダレイオス1世はペルセポリスに新しい王城を建設した。しかし,スーサ,エクバタナ,バビロンもまた王都として利用され,とくにスーサは事実上の首都の役割を果たした。王は政務に際して側近の重臣に意見を求めたが,重大な決定事項はすべての高官が出席する大評議会にはかった。宮廷における最高の官職は親衛隊長(千人隊長)であった。帝国は20余(その数は時期により変動)の州に分割され,サトラップが州の行政を担当した。これらの要職はほとんどペルシア貴族によって独占されていた。行政事務を処理するために,王宮や地方のサトラップの役所に多くの書記が配属されていた。王の碑文には楔形文字の古代ペルシア語,エラム語,バビロニア語,ヒエログリフのエジプト語が使用されたが,官庁の公用文書には当時の国際共通語であったアラム語(帝国アラム語)とアラム文字が採用された。王の命令は宮廷書記によってアラム語に翻訳され,羊皮紙に記されて各州に送付された。地方官庁の書記はその内容を通訳してサトラップに伝え,また現地の言語に直して公布した。帝国各地の連絡のためにスーサを中心とした主要道路に駅伝制が完備された。
ダレイオス1世は各州の税額を定めて銀納とする税制の改革を行い,財政の確立に努めた。最も多く課税されたのはバビロニア(アッシリアを含む)で,銀1300タラントン(約34t)であった。バビロニアはそのほかにまた,アジア諸州に割り当てられた王とペルシア軍の調達物資のうち3分の1を負担していた。インドだけは砂金で360タラントン(約9.4t)を納めた。こうして,全州の総額は銀に換算して毎年1万4560タラントン(約381.4t)に達した。この基本税のほかに,関税や道路税,各地からの貢物,王領地や鉱山の収益などがあり,スーサやペルセポリスの宝蔵には莫大な富が蓄積された。ダレイオスは蓄えられた金・銀の一部をもとにして貨幣を鋳造した。もっとも,当時貨幣の流通はギリシアや小アジア西部,フェニキアに限られ,メソポタミアやエジプトは秤量貨幣の段階にあり,東部諸州はなお自然経済にとどまっていた。
ペルシアはもともと軍事国家として成立し,王は帝国の最高軍司令官であった。国軍の中核はペルシア貴族から成る1000人の親衛隊と,欠員がたえず補充されたので,〈不死隊〉の名で呼ばれたペルシア兵士の1万人部隊であった。また,王に直属するペルシア人の守備隊が各地に配置されていた。戦時には,帝国内諸民族の召集軍が動員された。戦闘の主力は弓矢や槍兵をそろえた歩兵部隊であったが,攻撃において最も活躍したのは騎兵隊であった。騎兵隊の中心をなしていたのはペルシア人,メディア人などのイラン系諸族であった。海軍はフェニキア人,エジプト人,キプロスや小アジア沿岸の諸民族が提供する艦隊によって編成された。初期の征服戦争において強さを示したペルシア軍も,平和が続くうちにしだいに弱体化し,のちにはギリシア人傭兵隊を利用するにいたった。
結局,ペルシアが2世紀にわたって帝国を維持することができたのは,その軍事力によるよりも,むしろ優れて統一的な支配体制によるものであったとしなければならない。帝国支配がもたらした平和と3大陸にまたがる広域交通路の整備は,諸民族間の経済的・文化的交流を促し,西方からギリシア人の来訪も活発化して,新しい世界文化の成立を可能にした。ペルシアの支配はまた,後代に世界帝国の理念を残した。アケメネス朝の王号〈諸王の王〉は,とりわけイラン民族の間に帝国支配者の称号として繰り返し用いられ,最近のパフラビー朝の〈シャーハーンシャーshāhānshāh〉にまで伝えられた。なお,ペルシア帝国時代の文化については〈アケメネス朝美術〉〈ゾロアスター教〉〈ペルシア文学[イスラム以前]〉などの項目を参照されたい。
→ササン朝
執筆者:佐藤 進
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ペルシア帝国を支配した王家。前700年ごろ,ペルシア人の族長アケメネス(ギリシア語名アカイメネス,古代ペルシア語名ハカーマニシュ)にさかのぼる。…
…前612年には,アッシリアの首都ニネベがメディア人によって滅ぼされたが,シリアは引き続きアラム系の新バビロニア(カルデア)帝国の支配下にあった。ペルシア帝国の最初の王キュロス2世が前539年に新バビロニアの首都バビロンを征服し,アナトリアまでを支配下においた。その間に,アッシリアによって強制移住させられていたシリア人たちは,故郷に帰った。…
…このような本来の哲学の知を,以下においてその始原に立ち還って世界文明史の中に跡づけてみたい。
[世界国家と哲学の始まり]
前1千年紀のアケメネス朝ペルシア帝国以来,人類は局所的世界国家の時代を迎えた。〈局所的local〉というのは,地球上の人類社会の一部の地域に局限されていたからである。…
※「ペルシア帝国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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