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オーストリアの作曲家、指揮者。当時オーストリア帝国に統治されていたボヘミアの寒村カリシュトの、酒造業を営むユダヤ人の家庭に7月7日、14人中の第2子として生まれる。一家はグスタフ出生の年にイーグラウ(現チェコのイフラバ)の町に移り住む。4歳ごろから音楽の才能を示し始めたグスタフは、このドイツ文化の影響の強い町で音楽修業を始め、フランツ・シュトルムらにピアノを学ぶとともに、民謡や軍楽隊の音楽にも親しんだ。1869年イーグラウのギムナジウムに入学、翌年(10歳)最初のピアノ・リサイタルを開き、プラハに赴き音楽の学習を続けた。75年ウィーン音楽院に入学、ピアノをユリウス・エプシュタイン、和声学をロベルト・フックスに学び、さらにウィーン大学でブルックナーの和声学の講義を聴講した。78年、ピアノ三重奏曲で1等賞を獲得してウィーン音楽院を卒業、以後ピアノの家庭教師などをしながら作曲を試み、80年(20歳)最初の大作、独唱・合唱と管弦楽のための『嘆きの歌』を完成、ベートーベン・コンクールに応募したが、ブラームスやリヒターに認められず落選した。
1880年から83年にかけて、マーラーは指揮者としての活動を始め、バート・ハル、ライバッハ(現スロベニアのリュブリャナ)、オルミュッツ(現チェコのオロモウツ)の地方歌劇場で指揮者を務めた。さらに、カッセル(1883~85)、プラハ(1885~86)、ライプツィヒ(1886~88)、ブダペスト(1888~91)などの歌劇場で活躍、ワーグナーとモーツァルトを得意のレパートリーとする指揮者として名声をあげていく。この間に交響曲第1番(1889初演)を作曲。91年ハンブルク市立歌劇場の首席指揮者に就任、理想的な歌手たちとワーグナーの作品を上演するとともに、ハンブルク管弦楽団のステージにおいても数々の交響曲を手がけ、その演奏はハンス・フォン・ビューローに賞賛された。この時期から作曲家としての活動も本格化し、93年の夏以来、シュタインバッハのアッター湖畔の作曲小屋で、交響曲第2番「復活」(1895初演)、同第3番(1902初演)が生まれた。97年にはウィーンに出て、ウィーン宮廷歌劇場、ウィーン・フィルハーモニーの各首席指揮者となり、ワーグナーとモーツァルトの作品を中心に、斬新(ざんしん)な演出と舞台装置によってオペラ上演にあたり、大指揮者の地位を不動のものにした。
1902年、若い無名の作曲家アルマ・シントラー(1879―1964)と出会い、翌年結婚。彼女の助力を得て創作意欲が燃え上がったマーラーは、ベルター湖畔のマイヤーニッヒに作曲小屋をつくり、交響曲第6番「悲劇的」(1906初演)、同第7番「夜の歌」(1908初演)、同第8番「千人の交響曲」(1910初演)の大作を次々に完成した。07年、反ユダヤ主義の勢力に攻撃されたマーラーは、愛する長女マリア・アンナがジフテリアで夭折(ようせつ)したこともあって、ウィーン宮廷歌劇場を去る決意を固め、同年12月ニューヨークに渡った。
それ以後最晩年に至るまで、マーラーはメトロポリタン歌劇場およびニューヨーク・フィルハーモニーの指揮者として演奏活動を行った。そのかたわら、シーズン・オフの春から夏にかけては毎年ヨーロッパに戻り、イタリア国境に近いトブラッハの山荘で、晩年の傑作、6楽章の独唱付き交響曲「大地の歌」(マーラー死後の1911年、ブルーノ・ワルター指揮で初演)、交響曲第9番(1912初演)、同第10番(未完成、1924初演)が生まれた。こうして5回にわたり二大陸を往復したマーラーは体調を崩し、1911年2月21日、ニューヨーク・フィルのコンサート後に倒れ、連鎖状球菌性の咽喉(いんこう)カタルの療養をするため、パリ経由でウィーンに戻ったが、同年5月18日、51歳の誕生日を待たずに世を去った。
マーラーの10曲に及ぶ交響曲は、ウィーン古典派の伝統に基づくとともに、その伝統を新しい角度から見直して斬新な音楽的世界を開拓し、シェーンベルクらの新ウィーン楽派への道を切り開いた。
[船山信子]
『アルマ・マーラー著、酒田健一訳『グスタフ・マーラー――回想と手紙』(1973・白水社)』▽『M・ケネディ著、中河原理訳『グスタフ・マーラー――その生涯と作品』(1978・芸術現代社)』▽『E・クルシェネク、H・F・レートリヒ著、和田旦訳『グスタフ・マーラー』(1981・みすず書房)』▽『M・ヴィニャル著、海老沢敏訳『マーラー』(1985・白水社)』▽『H・A・リー著、渡辺裕訳『異邦人マーラー』(1987・音楽之友社)』▽『柴田南雄著『グスタフ・マーラー――現代音楽への道』(岩波新書)』▽『船山隆著『マーラー』(新潮文庫)』
ドイツ,オーストリアを中心に活躍した作曲家,指揮者。ボヘミア地方のユダヤ人の家系に生まれる。彼の音楽家としての活躍時期は,F.リスト,R.ワーグナーのそれとわずかに交差し,また生涯の後半はウィーンにおける若いA.シェーンベルクの活動と重なり合う。そのように彼はロマン主義の最後の時代を生きた音楽家でH.P.J.ウォルフやR.シュトラウスらと同じ世代に属する。ウォルフはウィーン音楽院における同期生であり,R.シュトラウスとは,生涯を通じて互いの作品上演に協力し合う間柄であった。
マーラーの創作分野は歌曲と交響曲である。歌曲では,民謡詩集《少年の魔法の角笛》による多数の歌曲,そして《亡き子を偲ぶ歌》(1901,04)などのリュッケルトの詩による後期の歌曲などがあるが,彼の音楽の真髄は生涯に残した10曲の巨大な交響曲にある。そこには6編の歌曲からなる《大地の歌》(1908)や,ラテン語とドイツ語のテキストによる膨大な《第8番》(1906)いわゆる《千人の交響曲》などの異色の作品が含まれている。彼は交響曲の形式で自己の包括的な世界観を表現しようとし,伝統的形式にとらわれることなくあらゆる手段を用いて交響曲の表現領域の拡大をはかった。彼はときに独唱や合唱を使用し,また自作の歌曲からの引用を頻繁に行って,交響曲に標題的契機をもち込む。作曲技法では,ワーグナー流の半音階法,声部の複雑な対位法的錯綜,鋭い不協和音などが,素朴な和声法やロマン派特有の歌謡的旋律と混じり合い,分裂的ともいえる多様性をみせる。交響曲の形式と同様に,彼の用いる管弦楽は大幅に拡張され,新しい種類の楽器の導入や,家畜の鈴,ハンマーなどの特殊な音響体の利用のほか,新しい響きを目ざした楽器奏法のくふうもなされる。彼はまた,素朴でいまだ文明によって汚染されていない根源的な表現力を秘めた民族的・民衆的音楽の語法をとりこみ,洗練され統制された近代的芸術音楽を暗に批判した。こうした包括的で現代にも通じる幅広い表現のスペクトルをもつマーラーの音楽は,当時の聴衆や批評家たちの理解の域を超えるもので,一部の熱狂的支持者をよそに,折衷主義,悪趣味といった批判を浴びせられ,不当にも無視された。しかしその諸特性はかえって現代人の感性に強い訴えかけをもち,生誕百年を機に彼の音楽は演奏会で頻繁に取り上げられるようになった。今日の管弦楽曲のレパートリーにとって彼の交響曲は不可欠の存在である。
マーラーは生前むしろ指揮者として有名であった。カッセル(1883-85),ライプチヒ(1886-88),ブダペスト(1888-91),ハンブルク(1891-97)などの歌劇場指揮者を歴任し,1897年から10年間は,ヨーロッパ音楽界で最も栄光あるウィーン宮廷歌劇場の総監督の地位にあった。この時代にウィーン・ゼツェッシオンの画家ロラーAlfred Roller(1864-1935)との協力でつくり上げた斬新な舞台は,その後の舞台演出にとって一つの模範をなすものである。彼はまた演奏会の指揮者として,ベートーベン,シューベルト,シューマンらの交響曲の楽器法の改訂を手がけている。なお,ウィーン時代の1902年,マーラーは風景画家E.J.シンドラーの娘アルマAlma(1879-1964)と結婚した。アルマはマーラーの死後,W.グロピウスと,次いでF.ウェルフェルと再婚した。マーラーの思い出(1940)を著したほか,自伝(1958)も残した。
執筆者:高野 茂
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1860~1911
オーストリアの音楽家。ボヘミアのユダヤ人の家に生まれ,指揮者として名をなす。1897~1907年ウィーンの宮廷歌劇場音楽監督。作曲家としては後期ロマン主義の流れを引き,多くの歌曲作品のほか,10曲の巨大な交響曲を残した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…交響曲に関しては概してドイツ・ロマン派様式の影響が根強いが,ボヘミアのドボルジャーク,ロシアのA.P.ボロジン,チャイコフスキー,グラズノフらが挙げられる。ロシア国民楽派 世紀の変り目には,ブルックナーの弟子のマーラーが,交響曲を〈世界のようなもの〉としてとらえる独特な音楽観に立脚して,従来の枠を越えた一連の問題作を書いた(未完を含め11曲。1888‐1911)。…
…G.マーラーの,2人の独唱者(テノール,アルトまたはバリトン)を伴う交響曲。マーラーは,ハンス・ベートゲが漢詩をドイツ語に翻訳し編纂した詩集《支那の笛》を読んでこの曲を着想した。…
…したがって音楽にロマン主義が浸透すると,それが果たす役割は他の芸術に比べても著しいものがあった。広い意味でロマン主義の音楽というなら,19世紀の音楽史は,ひと口にシューベルトからマーラーまで,その視野に収められてしまう。この世紀のすべてをロマン主義からとらえることはできないが,少なくともほとんどの事象はこの概念をぬきにしてはとらえられない。…
※「マーラー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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