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イスラムを説いた預言者。日本ではマホメットと呼ばれる場合が多い。コーランでは彼は,〈神の使徒rasūl Allāh〉〈預言者nabī'〉〈警告者nadhīr〉などの語で呼ばれ,アブラハム,モーセ,イエスなど一連の預言者の系列において〈最後の預言者khātam al-nabīyīn〉と位置づけられている。
イスラム教徒とその社会にとって,日常生活から国家の政治に至るまで,神の意志が絶対のものとされる。その意志は,預言者に下された啓示に示される。預言者以外の人間には,神の意志は直接には伝わらず,また最後の預言者がムハンマドであるから,ムハンマド以後の人間はムハンマドに下された啓示を集成したコーランによって,最も正しく神の意志を知ることになる。また,神の意志を直接に受けた預言者ムハンマドの言行(スンナ)にも,神の意志は示されている。その言行に関する伝承(ハディース)も,神の意志を知る手がかりとなる。スンナ派の神学・法学の体系の中では,このように,ムハンマドはその言行の細部に至るまで重要な人物と位置づけられてはいるが,彼はあくまで〈預言者〉〈警告者〉であり,決して神性を有するとも,信仰・崇拝の対象であるともされてはいない。
ムハンマドは,アラビア半島の町メッカで生まれ育った。メッカはカーバのある聖地で,毎年アラビアの各地から巡礼者が集まる町であった。カーバはアブラハムが建設したと信じられており,多くの神々の像が祀られていたが,神殿の〈主〉はアッラーであるとされていた。ムハンマドは当時のメッカの住民,クライシュ族のハーシム家に生まれた。クライシュ族はムハンマドの5代前にメッカに定着し,3代前の時代から隊商を組織する国際商人に成長していた。ハーシム家はクライシュ族の名門ではあったが,彼個人は,誕生前に父を失い,幼時に母も失い,孤児として祖父や叔父に育てられた。
ムハンマドは25歳のころ,富裕な未亡人ハディージャと結婚し,以後,平穏で安定した生活を送った。ある時期から,彼は郊外のヒラー山の洞窟でしばしば瞑想にふけるようになる。そのような瞑想中,突然に彼は異常な経験をする。全身が押しつぶされるような感覚があり,大天使ガブリエルが啓示を〈誦(よ)め〉と命じたと伝えられている。最初の啓示は彼が40歳のころにあった。以後,啓示は彼が死を迎えるまでの二十数年間にわたって断続的にあった。
預言者と自覚したムハンマドは,人々に警告し始めた。主として若者からなる信徒集団が形成された。しかし,クライシュ族の多くの人々にとっては,父祖以来の宗教を棄てることはできなかった。また,ムハンマドの説教は,カーバを有し,そこに集まる巡礼者を迎えていた宗教都市メッカの基盤を危うくするものと考えられた。ムハンマドはまた富を独占する大商人を批判し,内面的な信仰だけでなく,メッカ社会のあり方そのものを問題にしたのであった。それゆえ,彼と信徒への迫害は急速に厳しくなっていった。
622年,ムハンマドと70余名の信徒とその家族がメッカを棄て,メディナに移住した。彼は移住から死までの11年余りの期間に,メディナを中心とする教団国家を建設した。移住(ヒジュラ)は国家建設の契機となった重大事という認識が,後にこの年を紀元とするヒジュラ暦を成立させた。
メディナにはユダヤ教徒とアラブがいた。後者は長い間内戦を繰り返し,その調停者としてムハンマドを招いたのであった。彼が移住した当初,信徒は少数であったが,晩年にはメディナのアラブは,ほぼ全員が信徒になっていた。一方,ユダヤ教徒はムハンマドを預言者とは認めなかった。最初,断食やエルサレムに向かっての礼拝など,ユダヤ教の儀礼をイスラムに取り入れたムハンマドも,ついにユダヤ教徒と対立し,イスラム独自の儀礼を確立していった。
一方,偶像を崇拝するメッカのクライシュ族の人々とは,バドルの戦,ウフドの戦,ハンダクの戦と3度戦った。戦力的には優位にあったメッカは勝利できず,フダイビヤの和議で両者は和した。しかし,ムハンマドは条約違反をたてに,630年にメッカを征服し,ここをイスラムの聖地とした。
メッカと戦う一方で,ムハンマドはアラビア半島の諸部族とも接触を広げていった。メッカ征服以前の段階では,諸部族とムハンマドとの関係は,対等な相互の安全保障であったが,メッカ征服後になると,ムハンマドは相手にイスラムの信仰を求め,神と彼の安全保障(ジンマ)を与え,一定率のサダカを徴収した。またキリスト教徒,ユダヤ教徒など啓典の民からはジズヤや他の税を徴収した。
632年,ムハンマドはメッカに最初の,そして彼としては最後の巡礼を行い,メディナに帰ってまもなく没した。その時,彼の影響力はアラビア半島の全土に及んでいた。ムハンマドは,最初の妻との間に3男4女をもうけたが,子孫を今日まで残したのは末娘ファーティマ1人である。メディナ時代には,アーイシャほか10名を超える妻がいた。
→イスラム
執筆者:後藤 晃
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570?~632
アラブの預言者,イスラームの開祖。メッカのクライシュ族のハーシム家に生まれ,610年頃アッラーの啓示を受け,イスラームを唱えた。クライシュ族の迫害のため,622年,メディナにヒジュラを行い,バドル,ウフド,ハンダクの三つの戦いをへて,630年メッカを征服した。632年,決別の巡礼と称せられる最後のハッジを行ったが,その直後病を発して没し,メディナに葬られた。最初の妻ハディージャとの間に3男4女をもうけ,男子はすべて早世したが,娘ファーティマはアリーと結婚した。イスラームでは最後の最高の預言者とされる。
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…クライシュ族のタイム家出身。メッカの中流の商人で,おそらく預言者ムハンマドの古くからの友人であった。ムハンマドが初めて神の啓示を受けた直後からの最も古い信徒の一人である。…
…外壁のタイル,ドームなどは,オスマン帝国時代に補修されたもの。中央の聖石から預言者ムハンマドが天界をめぐるミーラージュ(昇天)に旅立ったという伝説がある。構築的にはイスラム以前の伝統を踏襲しているが,内外の壁面を飾るアラビア語の銘文が示唆するように,四方どこからでも眺めることができた岩のドームの機能は,近隣諸国の異教徒を征服したイスラムの力を誇示する記念碑的なものであったともいえよう。…
…正しくはクルアーン。ムハンマドが最初に啓示を受けた610年から632年の死に至るまでの22年間,預言者として,また共同体の政治的指導者として活躍する折々に神から下されたとされる啓示を人々が記憶し,後に第3代カリフ,ウスマーンの時に集録されたものである。 114章よりなり,各章には名称があるが,それはその章の主題ではなく,単なる呼称にすぎない。…
… イスラム教徒の地中海地域の征覇に脅威を感じた中世ヨーロッパのキリスト教徒にとって,サラセンは,キリスト教徒の〈敵〉としてのイメージがまとわりつくようになり,同時に,ゆがめられたサラセン人=イスラム教徒の像がつくりあげられた。《ローランの歌》をはじめとする中世の叙事詩において,サラセン人は預言者ムハンマドをあがめる偶像崇拝者として描かれ,しかもムハンマドは偽預言者であり,イスラムは性的放縦を容認する宗教であり,ムハンマドをはじめサラセン人はすべて堕落した人びととされた。またベーダ(8世紀)をはじめとする聖書解釈学において,サラセン人は荒野に追いやられたアブラハムの子イシマエルの子孫として,好戦的な牧民,イサクよりも劣った一族とみなされた。…
…コーランでは,〈昔の人々のやり口〉〈慣行〉(8:38,35:43など),〈神の慣行〉(17:77,33:62など)のように,神に遣わされた使徒たちを否認し迫害して受けた神罰に関連して用いられている。イスラムにおける最も典型的な用法は,〈預言者のスンナ〉つまりムハンマドの範例・慣行のことであり,一般に正しい伝統,ムスリムの守るべき正しい基準を意味する。これに反すること,あるいはそこにない新奇なことはビドアbid‘a(逸脱,異端)として否定される。…
…その意味で中国は本来,平和的防衛的姿勢をとる文明国だといってよいだろう。【川勝 義雄】
【アラブ・イスラム社会】
622年,イスラムの預言者ムハンマドは生れ故郷メッカからメディナという町に移住(ヒジュラ)した。コーランに見える表現によれば,彼はこの移住を〈アッラーの道へ移住し戦うこと〉ととらえていた。…
…624年3月,預言者ムハンマドがメッカのクライシュ族を破った戦い。メディナに移住(ヒジュラ)したムハンマドが,シリアからの帰路にあったメッカの隊商を襲おうとして300余名を率いて出撃。…
…元来は〈はしご〉を意味する語。後にはとくに〈ムハンマドの昇天〉の意に用いられるようになった。コーランは神を天国に至る〈はしごの主〉であると述べ(70:3)ており,またムハンマドを連れて聖なる礼拝堂al‐masjid al‐ḥarāmから遠隔の礼拝堂al‐masjid al‐aqṣāまで夜の旅(イスラーisrā’)をしたと記している(17:1)。…
…アラビア半島の都市。イスラムの聖地で預言者ムハンマド生誕の地。アラビア語で正しくはマッカMakkaと呼ばれる。…
…人口29万(1980)。預言者ムハンマドが没した地で,現在でも彼の墓廟がある。その墓廟は預言者のモスクと呼ばれる豪壮な建造物の一隅にあり,モスク自体は生前のムハンマドの住居兼モスクの位置にあたる。…
…メッカの聖モスクに次いで歴史的・宗教的に重要なモスク。622年,預言者ムハンマド自身によりメディナの住居に接して建造された。以後,改築・再建を重ね,現在のモスクは,マムルーク朝のスルタン,カーイト・ベイのとき(1483)に再建され,オスマン・トルコ時代に修復されたものである。…
※「ムハンマド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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