翻訳|Mecca
アラビア半島の都市。イスラムの聖地で預言者ムハンマド生誕の地。アラビア語で正しくはマッカMakkaと呼ばれる。
アラビア半島の西,紅海に沿って南北に走る山脈の西斜面の谷間に発達した町。年平均降水量は157mm(1966-70)。夏の気温は一日の最低気温32℃,最高気温40℃程度。冬は最低15℃,最高32℃程度。岩山に囲まれた荒地で農耕は不可能である。現在は旧市街を取り巻いていた岩山を越えて市街は広がり,人口は129万(2004)。近年の巡礼時には200万人を超える巡礼者を全世界から迎える。町の中心にカーバがあり,それを囲んで広大な聖モスクal-Masjid al-ḥarāmがある。市街全域も含めて1辺が30km程度ある菱形の地域が聖域とされ,そこでの流血が禁じられ,異教徒の立入りも禁じられている。
町の起源は明らかでない。2世紀のプトレマイオスの《地理学》によれば,アラビア半島にマコラバという町があった。マコラバMakorabaは,古代南アラビア語で聖地を指すマクラバの転訛と考えられ,一般にメッカのこととされている。その真偽はともあれ,メッカは7世紀のムハンマドの時代の人々にとっても伝説的な大昔からの聖地であり,それは古代南アラビア文明の影響下にあったことは事実である。
ムハンマドの5代前の祖クサイイは,南アラブ系のカーバ守護者集団を追ってメッカの支配者となり(5世紀末ころ),自分の近親者であるクライシュ族の人々をメッカに集めた。以後メッカはクライシュ族の町となる。クライシュ族はその後隊商を組織して,シリア,イラク,エチオピア,南アラビアなどに出かける国際商人になる。一方,彼らは聖地としてのメッカの権威も高めていった。ムハンマドが預言者として活動しはじめた610年ころのメッカは,広い視野をもつ国際商人の町であり,また,多くの神々の神像をまつるカーバを擁し,毎年多くの多神信仰の巡礼者を集める宗教都市でもあった。とくに首長も統治機構もない都市であったが,全体としてまとまっていた社会であった。
ムハンマドは610年ころから預言者と自覚し,メッカの人々に信仰を説いたが,メッカの住民で彼に共鳴し信徒となったのはごく少数であった。やがてメッカの世論はムハンマドと信徒を迫害する方向に向かい,ムハンマドがメッカを棄てメディナに移住(ヒジュラ)してからは,メッカは総力をあげて彼と戦った。しかし決定的な勝利を得ることができずに内部分裂していき,630年にはムハンマドに全面降伏した。
ムハンマドは唯一絶対神の概念に反する多神信仰,偶像崇拝などの要素を排したが,メッカが聖地であることやカーバへの巡礼などメッカのもっていた宗教的機能をほぼ全面的にイスラムのなかに取り入れていた。ムハンマドの征服によって,メッカの宗教都市としての地位はむしろ高まった。ムハンマドはメッカを保護下においた後,メディナに戻りそこで没した。ムハンマド没後,イスラム教徒は広大な地域を征服したが,征服活動で指導的役割を果たしたのは,ムハンマドと苦楽をともにした古くからのメッカ生れの信徒と,メッカ征服前後に改宗したメッカ市民であった。
イスラム教徒による征服は,メッカをアラビアの聖地から広大な地域を覆うイスラム世界の聖地に変えた。メッカは,メディナとともに,征服戦で活躍した将軍たちの引退後の居住地となり,富が集中した。被征服地から奴隷や解放奴隷がもたらされ,住民の構成は多様化・国際化した。イスラム世界の政治の中心は当初はメディナにあり,次いでダマスクスやバグダードに移って,メッカにあることはなかった。ただ,683-692年にイブン・アッズバイルがメッカでカリフと称してイラクやエジプトなどイスラム世界の一部の支持を得ていた時期が例外である。このとき,結局,ウマイヤ朝の軍隊がメッカを破壊し,イブン・アッズバイルを倒している。また930年にはアラビア半島東部のバフラインに拠ったカルマト派の勢力がメッカを襲撃して破壊したこともある。このような例外はあるが,メッカは政争・戦争に巻き込まれることの少ない宗教都市として今日まで存続してきた。征服戦争時に多様化した住民構成は,その後も全世界から多くの巡礼者を迎え,巡礼者のなかには数年あるいは一生をメッカで過ごすものが不断に輩出したことにより,常に多様な住民構成が保たれた。
アッバース朝(750-1258)が衰えると,メッカはエジプト・シリアを支配する王朝(ファーティマ朝,アイユーブ朝,マムルーク朝など)の保護下におかれる場合が多くなる。このような場合でも,メッカの実際的な市政は,アリーの子ハサンの系統のシャリーフが担当してきた。16世紀以後はオスマン帝国のスルタンがメッカの保護者であったが,シャリーフが市政担当者であったことはそれ以前と変りがない。第1次世界大戦中,シャリーフのフサインがオスマン帝国に対するアラブの反乱を指導し,戦後メッカでアラブの王と称した。1924年,彼はアブド・アルアジーズ・ブン・サウードに敗れてメッカを追われ,以後メッカはサウード家の王国の一部となり,今日ではサウジアラビア王国のメッカ州の州都となっている。
執筆者:後藤 晃
プトレマイオスの時代にマコラバという名で呼ばれていたこの町は,それより遥か以前から存在していたもようである。イスラム登場後,カーバ神殿が最も重要な聖所とされたため,この町の地位はとくに高まることになった。
ただしイスラム教徒にとってのこの町の重要性を知るためには,時代をイスラム以前にさかのぼる必要がある。古いアラブの伝承によれば,預言者イブラーヒーム(アブラハム)の生涯はこの地域ととりわけ深い関係をもっている。神の唯一性についての認識をいちだんと深めたとされるこの預言者は,イスラムにおいては特別の尊敬の対象となっているが,そもそもカーバの建設にあたったのは,ほかならぬイブラーヒームであったといわれている。カーバ内にあり,彼の足跡が残されているとされるイブラーヒームの立ち所は,この故事の歴史的信憑性を示す証拠とされている。イブラーヒームが息子イスマーイール(イシュマエル)を神の犠牲にささげようとした場所といわれるミナーMinā,アフリカ生れの妻ハージャル(ハガル)がみどり子のイスマーイールを連れてその間をさ迷ったといわれるサファーṢafāとマルワMarwaの丘,その際幼児を哀れみ,母親の子を思う誠意にこたえて渇きをいやすため神が恵み給うたとされるザムザムZamzamの泉など,カーバとその周囲には,イブラーヒームにゆかりのある土地が数多く,これらはイスラム登場後も巡礼の儀式に深く結びついた場所となっている。
メッカは,文明の喧騒から離れた位置にあり,砂漠のただ中にあって特有の清浄さ,質実剛健の気風を培うには最良の環境にあり,イスラムの教えによれば神から遣わされた最後の預言者であるムハンマドが布教を開始し,数々の模範的な先例を残した場所でもある。イスラムが大帝国をつくりあげたのちも,為政者たちは地政学的な理由からこの町を首都にすることはなかったが,宗教心あつく,敬虔な信者たちは,神の家とされるカーバのあるメッカに特別な憧憬の念をもちつづけ,優れた学識者たちがここに移り住んでいる。
すべての信者たちが礼拝を行う際のキブラ(礼拝の方角)にあたり,一生涯に一度は可能な限りここに巡礼を行うことが義務づけられているこの町は,信者たちの統一,連帯のために象徴的な役割を果たしている。カーバの一角に据えられた黒石は,ちょうど地上の時を確定するための方便として定められたグリニジ天文台の定点のように,信者たちの神との精神的交流のための定点となっている。それは時として誤解されるような尊崇の対象そのものではなく,あくまでも信仰のベクトルの集約される象徴的な一点にすぎない。
しかしこの町は,礼拝という行為を介して,常に全世界の信者の心のうちで深く意識され,またとりわけ年に一度の巡礼月には,実際に全世界からおびただしい信者たちを招き寄せている。ここは彼らにとり,イフラームと呼ばれる白い死装束をまとって心をあらわにし,信仰いちずに精神の汚辱を洗い流す土地なのである。
執筆者:黒田 壽郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
サウジアラビア西部、ヒジャーズ地方の主要都市で、イスラム教第一の聖地。アラビア語で正しくはマッカMakkahという。人口161万4800(2003推計)。紅海沿岸から約100キロメートル内陸に位置し、暑熱の荒野のなかの涸(か)れ谷と両側の河岸段丘上に発達した都市である。古くからザムザムという井戸を中心とするオアシス交易地として発展していたが、カーバ神殿を有するアラブ多神教信仰の中心地としても知られ、巡礼者を集めていた。6世紀末この地に生まれ育ったムハンマド(マホメット)は、富裕な商人たちが崇(あが)める偶像を批判し、唯一の神アッラーの前で万人は平等であると唱えて、イスラム教をおこした。そのため迫害を受けて622年メディナに移ったのち、630年メッカを無血征服し信仰の中心地とした。カーバ神殿の偶像は破壊されたが、神殿自体はアッラーの神殿に転用され、ザムザムの井戸を聖井とする旧習や巡礼の慣習はイスラム教に取り入れられた。
現在、世界中に10億人と推定される信徒は毎日この町の方向(キブラ)に向かって礼拝し、巡礼月には近年約250万人の巡礼者が訪れる。非イスラム教徒は立ち入りを禁止されている。
[片倉もとこ]
7世紀にイスラム教が勃興(ぼっこう)した地であるが、その時代でもすでに伝説的に古い町であった。アダムやイブにまつわる伝説の地でもあり、この地にあるカーバ神殿は、ノアの洪水で流されたのち、アブラハムが再建したものと信じられていた。
確実な伝承に基づく歴史が復原できるのは、預言者ムハンマドの5世代前にクライシュ人がここに定着してからである。クライシュはカーバ神殿を擁する聖地としてのメッカを守り発展させる一方、隊商を組織する国際商人に成長していった。610年ごろからここでムハンマドがイスラムを説くが、彼に共鳴したのはごく少数で、多数は迫害した。622年、彼はメッカを捨ててメディナに移り、やがて630年にメッカを征服した。彼はカーバ神殿に祀(まつ)られていた多くの偶像を破壊し、それをアッラーのみの館(やかた)とし、メッカをイスラムの聖地として、信徒にそこへの巡礼を義務づけた。以後メッカはイスラムの聖地としての地位を今日まで保っている。ウマイヤ朝、アッバース朝の保護下で宗教都市として発展した。10世紀ごろからはムハンマドの子孫であるメッカの土着勢力が市政を担当したが、メッカの長はおおむね、エジプト、シリアを支配したイスラム王朝の保護下にあった。第一次世界大戦の際、メッカの大守フセインは、長らくメッカの保護者であったオスマン帝国から離れ独立した勢力をつくったが、1924年イブン・サウドに敗れた。現在メッカは、イブン・サウドがつくったサウジアラビア王国に含まれている。
[後藤 明]
『前嶋信次編『メッカ』(1975・芙蓉書房)』
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正しくはマッカ。アラビア半島,ヒジャーズ地方の都市。ムハンマド誕生の地でカーバ神殿を持つことにより,イスラーム第1の聖地とされ,毎年多くの巡礼が集まる。1517年以後,オスマン帝国の名目的な支配を受けていたが,1786年,シャリーフ政権が自立した。1916年,ヒジャーズ王国の建設とともにその首都となったが,24年,サウジアラビア王国領となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…生活のよりどころを失った南アラブの一部は,遊牧民となって北方への移住を余儀なくされ,半島全体で遊牧生活が支配的となり,南アラブは北アラブの文化的影響に屈する結果となった。 イエメン,ヒジャーズ,それに半島東部の海岸地帯にはいくつかの都市とオアシス集落があったが,特に5世紀の末に北アラブのクライシュ族の住みついたメッカは,多神教の神殿カーバを擁し,定期市と結びついた巡礼の対象としての東方の聖地を保護していただけでなく,6世紀半ばの少し前,イエメン,シリア,イラク,アビシニアへの遠隔地通商を開始し,アラビア半島で最も栄えた町となっていた。
[イスラム時代]
イスラムを創唱した預言者ムハンマドは,メディナへのヒジュラ(移住,622年)のあと半島各地のアラブ遊牧民の小集団,辺境地帯の小君主,それにユダヤ教徒,キリスト教徒の集団と個別に盟約を結び,前2者にはイスラムの信仰とザカート(救貧税)の支払を課し,後2者には信仰の維持を認めたがジズヤ(人頭税)の支払を強制した。…
…スンナ派の神学・法学の体系の中では,このように,ムハンマドはその言行の細部に至るまで重要な人物と位置づけられてはいるが,彼はあくまで〈預言者〉〈警告者〉であり,決して神性を有するとも,信仰・崇拝の対象であるともされてはいない。 ムハンマドは,アラビア半島の町メッカで生まれ育った。メッカはカーバのある聖地で,毎年アラビアの各地から巡礼者が集まる町であった。…
※「メッカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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