帝政ロシア、ソビエト連邦および現在のロシア連邦の通貨単位。ルーブルは、語源的には「一定の価値をもつ銀片」という意味である。1ルーブル=100コペークкопеек/kopeek(単数形はコペイカкопейка/kopeyka)。
[原 信]
ルーブルは、13世紀ごろから銀塊の形で流通に用いられていたが、1547年イワン4世の即位に際して通貨単位として採用された。その後1704年、ピョートル大帝のもとで、27.3グラムの純銀量目をもつルーブル銀貨が正規の鋳貨として鋳造され、また、1ルーブルを100コペークとすることが定められて、世界で最初の十進法通貨制度が成立した。
1839年に銀本位制が導入されたが、クリミア戦争(1853~1856)によるインフレーションが生じ、さらにロシア・トルコ戦争(1877~1878)の影響も加わって、通貨制度は混乱した。このような状況のもとで、1897年蔵相ウィッテによって金本位制が確立され、1ルーブル=純金774.234ミリグラムの量目が決定された。しかし、この金本位制も、1914年に第一次世界大戦が始まると、同年7月27日の法律によって停止されることになる。
[原 信]
1917年の十月革命後、ソビエト政府が不換紙幣を濫発したため、激しいインフレーションが起こった。1920年ごろ、内戦や外国の軍事干渉がほぼ終結すると、ソビエト政府はネップ(新経済政策)の導入に踏み切り、通貨改革に努力した。まず、1921年11月に1万分の1のデノミネーション(貨幣単位の呼称を、たとえば10分の1とか100分の1とか切り下げて新しい名称にかえること)を、翌1922年10月には100分の1のデノミネーションを実施した。また、これと並行して、1921年に中央銀行としてゴスバンクを設立、翌1922年11月から旧金貨10ルーブルと等価のチェルボーネツчервонец/chervonetsという銀行券を発行した。これは、銀行券発行高の25%まで貴金属の裏付けをもつものであった。さらに、依然として無制限に増発されていた政府の不換紙幣を回収すべく、1924年2月に政府は、1チェルボーネツの10分の1に等しい新政府紙幣を発行、そして翌3月には新政府紙幣1ルーブル=旧政府紙幣5万ルーブルの割合で交換することを決定し、旧紙幣の回収を図った。
このような、革命後のソ連では、1921年から1924年にかけて、2回のデノミネーションと1回の通貨改革で、合計500億分の1のデノミネーションが行われたことになる。
1935年、ルーブルの対外価値を安定させるため、フランス・フランにリンクさせることとなり、1ルーブル=3フランとし、翌1936年4月からすべての対外取引に適用された。1937年6月にフランスが金本位を離脱すると、今度は米ドル・リンクとし、1米ドル=5.3ルーブルとなった。
[原 信]
ソ連は、第二次世界大戦後もまたインフレーションにみまわれたので、1947年に通貨改革が行われた。それは新ルーブルを発行し、現金は旧10ルーブルに対し新1ルーブルの割合で交換し、給料や年金などは旧1ルーブル対新1ルーブル、預金は額に応じて旧1ルーブル対新1ルーブルから旧2ルーブル対新1ルーブルまでの優遇レートを適用するというものであった。
1950年にはルーブルの対米ドル・リンクを廃止し、新たに金平価を設定、1ルーブル=222.168ミリグラムとした。これによって対米ドル相場は32.5%の切上げとなり、1米ドル=4ルーブルとなった。さらに1961年にはルーブルの金平価を987.42ミリグラムに変更すると同時に、10分の1のデノミネーションを実施した。この結果、新しいルーブルの対米ドル相場は1米ドル=0.9ルーブルとなった。
その後、国際通貨基金(IMF)の固定相場体制が崩壊し、米ドル以下主要通貨が変動相場制に入ると、ルーブルの公定相場は弾力的に変更されるようになり、ソ連当局によって毎月公表された。1982年9月では1米ドル=0.734ルーブルであった。
ソ連時代のルーブルは、自由経済圏の主要通貨とは異なり、外貨に対する交換性がなく、また、対外取引そのものも政府ベースで行われるため、為替(かわせ)相場のもつ意味は小さかった。対外収支の調整は、経済・貿易計画の調整と、保有金の市場売却によって行われていた。なお、1949年、東欧諸国の間にコメコン(経済相互援助会議)が設立され、ソ連・東欧圏内の多角決済機構となり、「振替ルーブル」が決済単位となった。しかしこれは交換性がなく、域外との決済には利用できなかった。このようにルーブルは、旧東欧社会主義圏内での決済通貨であり、価値の計算単位の役割を果たしていた。
[原 信]
1991年末ソビエト連邦が解体すると、加盟15共和国はそれぞれ独立し、バルト三国を除く12の共和国はCIS(独立国家共同体)を結成した。ソ連崩壊後のロシアは激しいインフレーションと経済混乱にみまわれ、財政赤字の増大とともにルーブルは減価を続けたが、独立後の旧ソ連各共和国はルーブルの使用を続け、多くは独自のクーポンを併用した。そしてバルト三国、ウクライナ、ベラルーシは1992年から独自通貨を導入、ロシア連邦は1993年7月新ロシア・ルーブル紙幣を発行、旧ソ連ルーブルの使用を停止した。そのため他のCIS諸国も1993年以降漸次自国通貨を発行、それぞれ対米ドル為替相場の公表を開始した。
ロシアは1992年初より計画経済を廃止、市場経済システムに移行するとともに6月にはIMFに加盟、欧米日からの金融支援も開始された。ルーブルの為替相場は、ソ連時代の固定的為替相場制から管理された変動為替相場制に移行し、ロシア中央銀行(CBR)はモスクワの銀行間外国為替市場(MICEX)の実勢に基づき中央銀行公表レートを発表、初日の7月1日は1米ドル=125.26ルーブルであった。しかしルーブル為替相場は激しいインフレーションの進行とともに、1993年末には1247ルーブルへと急落、さらに1995年7月からは変動幅をもつ対米ドル目標相場圏方式を採用したが、1997年末には5960ルーブルへと下落した。そのため1998年初めに1000分の1のデノミネーションを実施、1米ドル=6ルーブルでスタートしたが、8月ロシア金融危機が発生すると、1999年末は28ルーブル、2001年末には32ルーブルにまで下落した。金融危機発生の原因は、1997年のアジア通貨危機に続いて、原油価格の急落によるロシアの国際収支の悪化を警戒した外資が、一斉に対ロシア投融資の引揚げを開始したことによる。そのため外貨準備が急減し、対外債務のデフォルト(債務不履行)に直面したロシア政府は、ルーブルの32.8%の大幅切下げとともに、短期国債および外国為替市場取引の停止と民間対外債務のモラトリアム(返済棚上げ)を宣言した。その結果多数のロシア商業銀行が破綻(はたん)するとともに、ロシア国債や商業銀行に大量に投融資していた西側金融機関やヘッジファンドは巨額の損失を被り、世界的に大きな波紋を引き起こした。
しかし大幅な為替相場の切下げとその後の原油価格の上昇に支えられ、ロシアの国際収支は急速に改善し外貨準備が増大した結果、ルーブル為替相場は安定に向かう。2005年には対ヨーロッパ連合(EU)取引の増大を反映し、CBRはルーブル為替相場決定を対米ドル連動から、米ドル・ユーロ通貨バスケット方式に変更、以後、1米ドル27~25ルーブル前後で推移した。しかし2008年後半、ジョージア(グルジア)紛争発生と再度の原油価格急落にみまわれ、2009年に入ると30~35ルーブル近辺にまで下落している。
ロシアは石油ガス資源大国だが、ルーブル安定化のためには、経済構造改革による過度の資源依存経済からの脱却、金融システムの近代化、そして政治情勢の安定化が望まれる。
[大島 梓]
ロシアの貨幣単位で,1ルーブルは100カペイカkopeika。ソ連時代にルーブルの金含有量は1961年以降0.987412gと定められていたが,ルーブルの金価値は名目的なものにすぎず,金との兌換(だかん)性は与えられていない。資本主義国の通貨と同じく不換紙幣である。なおルーブルの語源は〈一定の価値をもつ銀片〉の意味である。
ゴスバンクはソ連邦における唯一の発券銀行として,銀行券の発行に関する独占権をもっていた。ソ連邦閣僚会議が中央集権的計画経済の一環として,現金通貨の発行還収計画を決定し,ゴスバンクは政府の指令に基づいて,通貨の発行流通面を通じて通貨調節の役割を果たしてきた。
ルーブルは,13,14世紀のころから銀の棒の形でロシアに入り,帝政ロシアの時代,すでに16世紀ころには貨幣経済化現象の進展で,銀塊として流通していた。1704年にピョートル大帝により正規の鋳貨(ルーブル銀貨)が制定されると同時に,世界最初の十進法貨幣制度(1ルーブル=100カペイカ)が採用された。53年には帝政ロシアの単一貨幣制度の計算単位としてルーブルが誕生した。19世紀に入り,帝政ロシアは1839年に銀本位制を採用し,61年の農奴解放を契機として金融制度の近代化を行った後,95年に金本位制に移行した(1ルーブルの金価値は0.774234g)。
1917年の十月革命後,ソ連邦は悪性インフレの進行と通貨に対する共産党の考え方の変化から3度にわたる通貨改革を実施した。21年11月に新紙幣(ソフズナークsovznak)を発行し,1万分の1のデノミネーションを行い,さらに22年10月に新紙幣(チェルボネツchervonets)を発行し,100分の1のデノミを行った。24年にソフズナークの発行を停止し,チェルボネツの10分の1のデノミを実施した(ルーブルの金含有量は帝政ロシア時代と同じになった)。
第2次大戦後の47年には再びインフレ調整のため10分の1のデノミを実施して,50年3月にはルーブルの金含有量を0.222168gとし,対米ドル・レートを従来の1ドル当り5.30ルーブル(1937年7月に決定)から4ルーブルに引き上げた。61年1月の通貨改革によって,10分の1のデノミを行い,ルーブルの金含有量を0.987412gに変更すると同時に,対米ドル・レートを4ルーブルから0.9ルーブルに切り上げた。ルーブルの対米ドル・レートは,71年12月に1ドル=0.829ルーブルに変更され,その後,西側先進国通貨が変動相場制に移行したのに伴って,ルーブルの対西側通貨レートは毎月弾力的に変更されていた。これは西側先進国の変動相場制とは異なり,ルーブルの金平価維持がおもな狙いであり,ソ連ルーブルは減価しないことを内外に誇示するものであった。
ルーブルは国際金融市場ではローカル・カレンシーにすぎず,西側との金融取引通貨としてはまったく使用されていなかった。しかしCOMECON(コメコン)加盟国のなかでは公式に決済・基準通貨として使用できるように定められていた。1963年COMECON銀行が設立されて,〈振替ルーブル〉による多角的決済の仕組みがつくられた。振替ルーブルの金含有量はソ連邦ルーブルと等価であり,COMECON銀行の基準・決済・準備通貨としての機能を果たしていた。
71年7月に策定されたCOMECON通貨統合計画では,振替ルーブルを将来のCOMECON諸国の共通通貨にすることがうたわれた。しかし振替ルーブルは,(1)金,ドルとの交換性はもちろんのこと,COMECON加盟国通貨との交換性も付与されておらず,また,(2)振替ルーブルと加盟国通貨との為替レートが実勢に即して決められていないことなどの理由から,それほど普及しなかった。
執筆者:松井 謙
ソ連邦解体後の1992年1月1日から市場レート,特別商業レート,銀行間の自由取引レートの三つとなり,7月初めからは銀行間取引レートに一本化された。また,連邦解体後には中央銀行機能はロシア中央銀行に引き継がれた。98年1月に呼称単位を1000分の1にするデノミネーションが実施された。
執筆者:編集部
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加