アメリカ合衆国の首都で発行されている有力朝刊紙。1877年ハッチンズStilson Hutchinsによって創刊され、発行者が二度かわったのち、1930年経営不振で競売に付されたところを銀行家マイヤーEugene Meyerに買い取られた。以降、順調に業績が回復した同紙を、マイヤーの女婿フィリップ・グラハムPhilip Grahamが引き継ぎ、1954年には競争紙『タイムズ・ヘラルド』、1961年には週刊誌『ニューズウィーク』を買収するなど事業を拡張、有力紙としての地歩を固めた。しかし、1963年フィリップが自殺、経営は夫人キャサリンKatharine Grahamの手にゆだねられた。1973年にポスト社の会長兼最高経営責任者(CEO)に就任したキャサリンはアメリカ新聞界の発展に貢献するとともに『ポスト』紙を一流紙に育てた。息子ドナルド・グラハムDonald Grahamは1979年に発行人に就任。その後ドナルドは1991年にポスト社のCEO、1993年に会長職を引き継いだ。また2008年2月より孫娘のキャサリン・ウェイマスKatharine Weymouthがポスト紙発行人を務める。
2011年時点で、販売部数は平日版約51万部、日曜版約85万部(地域版等を含む)。その論調はアメリカ政府・議会に大きな影響力をもつ。とくに、同紙の名声を世界的に高めたのは、1972年、2人の若手記者(B・ウッドワード、C・バーンスタイン)によるウォーターゲート事件の取材・報道である。同紙が情報源の秘匿を貫いた姿勢と、ニクソンを大統領辞任に追い込んだ報道キャンペーンの力は、アメリカン・ジャーナリズムが一つの頂点を極めたものといわれる。また、この事件で調査報道investigative reportingの分野が確立された。なお、ウォーターゲート事件で同紙に極秘情報を伝えた「ディープスロート」とよばれる政府高官は、当時の連邦捜査局(FBI)副長官のマーク・フェルトMark Feltだったことが、『バニティー・フェア』誌(電子版)の2005年5月31日の報道で明らかになり、『ポスト』紙も同年6月1日付紙面で認めた。
一方、首都ワシントンで8歳の少年が3代にわたってヘロイン中毒となっていることを報じた1980年9月28日付記事「ジミーの世界」が、翌年、ピュリッツァー賞を受賞した直後に虚報であることが発覚し、受賞辞退となる事態に発展した。これは同紙の歴史上、最大の汚点となっている。同紙は、社内オンブズマン(記事審査員)によって捏造(ねつぞう)記事の掲載過程と編集上のチェック機能の問題点につき詳細な調査・分析を行い、これを公表することで信用回復に努めた。
ワシントン・ポスト社の報道事業は21世紀に入ってからもさまざまな展開をみせている。ニューヨーク・タイムズ社との折半出資により国際英字紙『インターナショナル・ヘラルド・トリビューン』の全持ち株を海外戦略の強化をねらうニューヨーク・タイムズ社の要求に屈して2002年10月に売却した。また1933年に創刊され『タイム』誌とともに世界的な知名度をもつニュース雑誌『ニューズウィーク』を、アメリカの音響機器メーカーの創業者シドニー・ハーマンに2010年9月に売却した。一方、大手新聞社による無料紙発行が相次ぐなかで、ポスト社は2003年8月、新聞閲読頻度の低い18~34歳の読者層向けの無料タブロイド日刊紙『エクスプレス』を創刊した。
[大日向建三]
『ワシントン・ポスト編、齋田一路訳『ウォーターゲートの遺産』(1975・みすず書房)』▽『キャサリン・グラハム著、小野善邦訳『キャサリン・グラハム わが人生』(1997・TBSブリタニカ)』
アメリカの日刊新聞。1877年首都ワシントンでハッチンズStilson Hutchins(1838-1912)により民主党系の朝刊紙として創刊された。88年《ナショナル・リパブリカンThe National Republican》と合併,政党から独立した新聞となる。翌89年経営は,オハイオ選出の下院議員ウィルキンズBeriah Wilkinsらの手に移り,さらに1905年からはワシントンの資産家マックリーン家のものになる。この時期,第1次大戦期の報道統制を激しく批判するなど,ローカル・ペーパーからしだいに抜け出していく。しかし,マックリーン家はハーディング大統領と親しく,彼の退場後汚職にまきこまれ,また大恐慌の打撃もあって33年6月ついに競売にかけられる。著名な銀行家のマイヤーEugene Meyerが82万4000ドルで落札,彼はリベラルなモーリーFelix Morleyを編集長(1940年まで)に,論説に力を入れ,この新聞を高級言論紙として再生させる。いわゆるハーブロックHerblock(Herbert Block)の漫画もこれに貢献した。46年1月から経営を娘婿グレアムPhilip L.GrahamとアグネスAgnes E.Meyerにゆだね,現在に至るまでマイヤー家の所有(1976年以降は息子ドナルドが継ぐ)である。
グレアムはアイゼンハワー,ケネディ,ジョンソンと歴代大統領に接近,政界の裏でいろいろな策謀もしたが,50年代から,いくつかのテレビ局,放送局を買収兼営して経営基盤を固めた。すなわち,54年3月競争相手であったマコーミックの《ワシントン・タイムズ・ヘラルドThe Washington Times-Herald》を850万ドルで買収,61年3月には《ニューズウィークNewsweek》誌も傘下に収めて,全国的に権威のある新聞に成長させた。紙面構成でもニュース,娯楽的側面に力を入れ,中産階級にも読者を伸ばす一方,リベラルな言論の伝統も守り,1950年代には他紙からは〈プラウダのワシントン版〉と悪口されるなど,ほとんど孤立無援の時期からマッカーシーに対する激烈な批判を続け,〈赤狩り〉ヒステリアの打倒に大きな役割を果たした。ベトナム戦争期には,《ニューヨーク・タイムズ》よりは遅れたが(もっとも論調はずっとタカ派だった),国防総省ベトナム極秘文書Pentagon Papersの暴露に歩調をそろえ世論の転換を促進した。続くウォーターゲート事件では,メディアの先頭に立って事件の全容解明,ニクソン訴追のキャンペーンをはった。78年から全米各地の大学などに対し,小包爆弾テロを続けている男(自称〈ユナボマー〉)が95年6月,同紙と《ニューヨーク・タイムズ》に声明文を送りつけ,全文掲載とひきかえに犯行を中止すると発表。同紙は考慮のすえ,9月19日付の8ページの別刷紙面で全文を公表した(費用と発行責任は2紙で共同負担)。この掲載について,その後にアメリカ新聞協会(NAA)が全米の発行者に対して行った調査の結果は,賛否ほとんど同数であった。1990年代後半時点での発行部数は70万~80万台。1994年からインターネットによる〈電子新聞〉事業を始めている。
執筆者:香内 三郎
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…第1次世界大戦中は海軍軍楽隊訓練所長として復役し,軍楽少佐にまで進んだ。作品には100曲にのぼる行進曲,オペレッタ,舞曲,歌曲などがあるが,その中で名高いのは《星条旗よ永遠なれThe Stars and Stripes Forever》(1897),《ワシントン・ポスト》(1889),《士官候補生》(1890)などの行進曲で,彼は〈行進曲王〉と呼ばれた。なお,スーザフォーンは,彼が自分の楽団のためにチューバを改造したものである。…
… 現代においてジャーナリズムの批判機能がもっともみごとに発揮されたのは,アメリカのベトナム戦争秘密文書公開とウォーターゲート事件であり,また日本の田中角栄首相の土地ころがし暴露であった。国防総省文書Pentagon Papers事件と呼ばれる第1の事件は,ベトナム戦争の経過の全容について国防総省が調査機関につくらせた膨大な報告書を《ニューヨーク・タイムズ》が紙面に掲載しはじめ,政府が裁判所に記事掲載差止めを提訴しているあいだに《ワシントン・ポスト》などの新聞もこの報告書を入手して,この宣戦布告なき参戦をいっせいに点検したことにはじまる事件である。言論の自由をさだめた憲法修正第1条に照らして新聞の文書公開は正当と判決され,各紙の記事がやがてアメリカ軍のベトナム撤兵つまり戦争終結を実現させた。…
※「ワシントンポスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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