佐渡金山(読み)さどきんざん

改訂新版 世界大百科事典 「佐渡金山」の意味・わかりやすい解説

佐渡金山 (さどきんざん)

新潟佐渡郡(佐渡国相川町(現,佐渡市)を中心とした金銀山。天文年間(1532-55)鶴子(つるし)(現同市,旧佐和田町)で発見された銀山は,文禄(1592-96)から慶長(1596-1615)にかけて坑道掘りの技術の導入にともない,その中心が鶴子から相川に移った。1601年,代官となった田中清六は今までの山主(山先)による請山(1年間一山の請負)にかえて,間歩(まぶ)(坑区)ごとに短期間(文書には10日間としたものがある)を限って運上を入札させた。そのためおびただしい数の間歩が開発され,運上が競われたことも重なって,02年には運上銀の総額(物資の運上を含めて)は銀1万貫に達した。金にして16万両余の税額である。03年,田中清六失脚のあとをうけて,佐渡は大久保長安が支配する。長安は谷底から水貫(みずぬき)を掘って水没した捨て間歩の復活をはかり,復活した間歩を山師に稼がせて出た鉱石を荷分けした。ついで17年(元和3)佐渡奉行となった鎮目市左衛門は直山(じきやま)を増やし,2割安米を渡すなど鉱山と鉱山民を保護し,再び鉱山は活況におもむいた。大山師味方但馬が活躍したのはこの時期である。その後金銀山はしだいに衰えの速度を速め,寛文期(1661-73)には衰退の極に達した。91年(元禄4)奉行荻原重秀は海岸から鉱山に向けて大疎水(南沢疎水。900m余)を掘るなど10年ほどの間に総額15万両にも及ぶ大投資を行い,鉱山は一時活気をとり戻すが,享保改革にともなって大縮小を余儀なくされた。宝暦(1751-64)に至って奉行石谷清昌は鉱山仕法を全面的に改め,精錬所を奉行所内に取り込むなど鉱山の合理化に取り組み,安永(1772-81)には江戸,大坂などから無宿者を送り込んで佐州水替人足として使役することにした。しかし鉱況は不振を極め,文化(1804-18)に至って江戸に送られる灰吹銀はついに年100貫を割り込んでしまった。化政期(1804-30)になり幕政は転換の兆しをみせた。奉行金沢瀬兵衛,泉本正助は再び金銀山に投資をすすめ,また金銀山荒廃の原因になるとして無宿水替えの減少に努めたが,それも短期間で終わった。天保改革によって奉行久須美六郎左衛門は金沢,泉本の鉱山政策を厳しく批判し,再び無宿水替えの投入をすすめた。その後幕末まで鉱山は荒廃と沈滞をつづけることになった。

 明治政府は主要鉱山の官行を決め,佐渡鉱山も1869年(明治2)政府の直営するところとなった。その後つぎつぎと洋式技術が取り入れられ近代化が図られたが,とりわけ85年大島高任が佐渡鉱山局長に任ぜられると,事業は大拡張され,4ヵ年に総額18万円余を投入し大発展することになった。やがて96年三菱合資会社に173万円で払い下げられ,以後は三菱の経営で第2次大戦後に及んだ。1952年三菱は鉱山の大縮小に踏み切り,現在は別会社によって経営されるようになった。
執筆者: 鉱脈は第三紀中新世の凝灰岩,ケツ岩の累層(相川層群)と輝石安山岩および流紋岩から成る火山岩中に胚胎する浅熱水性裂か充てん鉱床で,青盤,大立,鳥越など大小数十条の鉱脈群を形成している。鉱脈の大部分は含金銀石英脈であるが,一部には金銀銅脈も存在している。約400年前の発見以来,金80t弱,銀2000t余,銅5000t余を生産したとされているが,すでに鉱量を採掘しつくし,その後,銅製錬の際の溶剤として使用する含金銀ケイ酸鉱を,わずかずつ生産していたが,それも1989年に休止した。現在は旧坑道の一部を利用して観光施設を整備し,〈ゴールデン佐渡〉を経営している。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「佐渡金山」の意味・わかりやすい解説

佐渡金山
さどきんざん

新潟県佐渡島、佐渡市各地にある金銀山の総称。古く砂金採取が行われたころ(『今昔(こんじゃく)物語集』)佐渡金山の中心は佐渡の南部三川(みかわ)砂金山(旧、佐渡郡真野(まの)町域)にあった。やがて16世紀なかば、博多(はかた)の商人神谷寿禎(かみやじゅてい)によって灰吹(はいふき)精錬がもたらされると、鶴子(つるし)銀山(旧、佐渡郡佐和田(さわた)町域)が脚光を浴びることになった。そして、慶長(けいちょう)期(1596~1615)には相川(あいかわ)金銀山(旧、佐渡郡相川町域)の発見によって佐渡は日本最大級の金銀山となり、江戸幕府の財政に大きく貢献することとなった。それまで十数軒の村里であった羽田(はねだ)村から相川町が独立したのは1600年(慶長5)のことであるが、1603年佐渡代官となった大久保長安(ながやす)の時代に町並みは整備され、陣屋も相川に移された。元和(げんな)期(1615~1624)には米の消費高年4万5000石、推定人口3万人余の鉱山町となり、銀運上額は年8000貫目を数え、単年度としては世界産額の20%を記録するに至った。しかし寛永(かんえい)(1624~1644)の中期になりしだいに深敷(ふかしき)(坑道が深くなる)となり経費がかさみ、加うるに銀価格の下落もあって経営不振となる鉱区が多かった。元禄(げんろく)時代(1688~1704)奉行(ぶぎょう)荻原重秀(おぎわらしげひで)は海岸から大水貫(みずぬき)を掘って費用節減と増産を図った。いまに残る南沢疎水は、鉱山の歴史が湧水(ゆうすい)との闘いであったことを教える。地下水の汲上(くみあ)げにあたるのが水替人足(みずがえにんそく)であり、初めは村々に割り当てたが、1778年(安永7)以降、江戸・大坂などの無宿者を佐渡送りにして水替えに従事させた。

 幕府が滅んだのち佐渡鉱山は新政府の御料局の経営となるが、はかばかしい成果をあげることはなかった。やがて1885年(明治18)佐渡鉱山局長大島高任(たかとう)による西洋技術の導入によって大発展したが、1896年には三菱(みつびし)に払い下げられた。太平洋戦争中は銅の採掘を行ったが、1952年(昭和27)三菱は鉱山の大縮小に踏み切り、1976年には佐渡鉱山株式会社として独立。ささやかな経営を続けたのち、1989年(平成1)に閉山した。

[田中圭一]

『田中圭一著『佐渡金山』(教育社歴史新書)』『麓三郎著『佐渡金銀山史話』(1956・三菱金属鉱業)』


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百科事典マイペディア 「佐渡金山」の意味・わかりやすい解説

佐渡金山【さどきんざん】

新潟県佐渡島の相川にある金・銀鉱山。江戸時代,直山(じきやま)と呼ばれる幕府直轄の日本最大の金山として繁栄した。《佐渡風土記》によると,1601年に鶴子(つるし)銀山(現,佐渡市佐和田)の山師が坑道を開いたのに始まるというが,慶長以前にすでに鶴子山の一坑区として稼行が始まっていたとする説が有力。1603年に大久保長安(ながやす)が佐渡支配になって開発が本格化し,1558年にメキシコ銀山で試みた水銀によるアマルガム製錬法が導入された。1618年鎮目(しずめ)惟明が佐渡奉行となって最盛期を迎え,年平均銀6〜9tを産出したと推定される。坑内湧水(ゆうすい)が多く,次第に衰微したが,1690年幕府勘定方の荻原重秀が佐渡奉行兼務となり,幕府から計15万両の資金を鉱山に投入する積極策をとり,〈元禄の大盛り〉といわれるほどの復興をみた。が,その後は衰微をたどり,往時の繁栄をみることはなかった。1870年工部省所管となり,英国人技師による火薬採掘,削岩機・揚水機など西洋の新技術の導入によって産額は伸びた。1889年宮内省御料局の所管に移り,1896年兵庫県生野鉱山とともに三菱合資会社に払い下げられた。その後,三菱金属鉱業(現三菱マテリアル)の子会社である佐渡金山株式会社佐渡鉱山が経営していたが,1989年閉山。現在は史跡佐渡金山として観光名所になっている。
→関連項目出雲崎[町]官営鉱山佐渡島佐渡路佐渡国新潟[県]

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旺文社日本史事典 三訂版 「佐渡金山」の解説

佐渡金山
さどきんざん

新潟県佐渡郡相川町にあった金・銀山
平安末期,砂金の産地で知られ,1601年徳川家康の領有となり相川鉱山が開掘されてから産額が増大。江戸幕府直轄の鉱山として佐渡奉行を置き幕府は金・銀を独占した。金を多く産出し,幕府の金・銀貨原料の産地として,その産額の多少が幕府財政に大きな影響を与えた。1869年明治政府の官営になり,'96年三菱に払い下げられ日本有数の金・銀山となった。現在は採掘中止。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「佐渡金山」の意味・わかりやすい解説

佐渡金山
さどきんざん

佐渡鉱山」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の佐渡金山の言及

【相川[町]】より

…鉱山は明治になり御料局に移管され,政府は洋式工法を導入して近代化を進めた。1896年三菱鉱業に払い下げられ,1952年規模を縮小し佐渡金山株式会社が稼働採掘していたが,89年3月閉山した。新潟地方法務局相川支局,税務署,測候所が置かれ,全島の行政府の所在地である。…

【佐渡島】より

…国中平野南縁に佐渡国分寺跡(史),国府跡があり,これらに隣接して順徳上皇火葬塚(真野御陵),上皇をまつる真野宮,黒木御所跡,日蓮配流の遺跡である根本寺(塚原三昧堂,新穂(にいぼ)村)や,世阿弥の配流の地とされる正法寺(金井町)などがあって佐渡史跡観光の中核をなしている。西三川(現,真野町)の砂金,鶴子(つるし)(現,佐和田町),新穂の銀山時代を経て,17世紀初めころには相川で金銀が採掘されるようになった(佐渡金山)。金山は幕府の直営で,近世最大の金銀山となり,幕府の財源を支えた。…

※「佐渡金山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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