創価学会を支持母体とした中道政党。人間性社会主義の実現を掲げている。
[藤井 正・五十嵐仁]
創価学会は現世的利益実現と、宗派の教義に基づく国立戒壇建立のため、1955年(昭和30)以来地方議会と参議院に進出、公明政治連盟を経て1964年公明党を結成、衆議院に進出した。この際、憲法に抵触する国立戒壇の主張は民衆立戒壇に切り替える。1970年創価学会の言論出版妨害事件で批判を浴び、宗教政党から国民政党への脱皮が課題となる。このときの政教分離決定と同年の京都府知事選敗北が路線の「左旋回」を促し、共産党とも部分的共闘を認めるようになった。だが1975年創価学会と共産党との歴史的和解(いわゆる「創共協定」)をくつがえしたころから「右旋回」に転じる。その後、社会党が共産党との共闘をとりやめるうえで決定的な影響を与え、1977年の名古屋市長選で初めて自由民主党と共闘し、1979年の都知事選では鈴木俊一元副知事を擁立して革新都政を倒すなど、1978~1980年には自民党とも連携できる政策変更(自衛隊合憲など)をほぼ完了した。
1993年(平成5)の細川護熙(もりひろ)連立政権の樹立に際しては、公明党は8党派の連立に加わり、後継の羽田孜(はたつとむ)連立政権にも加わった。その後、1994年の村山富市(とみいち)率いる自民・社会・さきがけ連立政権の発足で野党となり、新進党結成直前の12月5日、衆院議員と1995年改選の参院議員で構成される「公明新党」と非改選の参院議員・地方議員が加わる「公明」とに分党し、公明新党は12月10日に結成された新進党に合流した。分党して残った公明も、やがては新進党に合流する予定であったが、内紛が絶えず人気の出ない新進党への合流方針を撤回した。このため、「純化路線」をめざした新進党党首(当時)小沢一郎は1997年12月27日に同党の解党を宣言し、翌1998年1月4日に旧公明党グループの衆院議員は「新党平和」、参院議員は「黎明クラブ」を結成した。その後、後者は同じ参院議員が加わっていた公明と合流し、また新党平和も合流方針を明らかにした。こうして、1998年11月7日に新党平和が解党して公明に合流し、公明党が再結成された。1994年12月の分党以来、約4年ぶりの公明党の復活であった。再結成後、同党は日米新ガイドライン関連法案をめぐり、自民党と自由党(1998年結成)との連携を深め、自公協力をテコに、老齢福祉年金の受給者や15歳以下の子どもをもつ世帯主への1口2万円の地域振興券(商品券)配布を実現させた。1999年7月の臨時党大会では自民・自由・公明3党による「自自公」連立を正式に決定し、同年10月5日小渕恵三(おぶちけいぞう)内閣の第二次内閣改造で自自公連立政権が発足した。2000年(平成12)4月、小渕首相が脳梗塞(のうこうそく)で倒れたことにより発足した森喜朗(もりよしろう)内閣でも、自民・公明・保守(自由党から分裂して結成)3党による連立政権が成立した。また、2001年4月発足の小泉純一郎内閣でも自民、保守(2002年12月より保守新党)とともに3党の連立政権に参加した。2003年発足の第二次小泉内閣以降、2008年発足の麻生太郎内閣までは、自民党と2党による連立政権となった。
自民党と公明党の連立政権は、2009年8月に行われた衆議院選挙の結果、いったんその座を失ったが、2012年12月の衆議院選挙により復活した。
[藤井 正・五十嵐仁]
結党時の旧綱領は王仏冥合(みょうごう)、仏法民主主義、地球民族主義など独特の用語を用いながら、大衆福祉実現・腐敗選挙追放を掲げ、新鮮で清潔なイメージを打ち出した。政教分離後の新綱領(1970年6月採択)では宗教的用語が消え、「人間性尊重の中道主義」「人間性社会主義」の国民政党を標榜(ひょうぼう)し、日本国憲法の擁護を明記した。政策は、日米安全保障条約について段階的解消→即時廃棄→当面存続と変化したほか、自衛隊認知、元号法制化賛成、対韓国政策の転換、有事立法に対し賛成と反対の間で動揺するなど、世論状況に対応した現実主義的傾向が強く、その主張や政策にはかなりの振幅がみられる。
[藤井 正・五十嵐仁]
当初は学会会長が委員長などを指名し、委員長が指名した中央幹部会が党大会代議員を決定するという独特の規約であったが、新規約でこの点は改善された。しかし党組織が学会との二重組織なのは政教分離決定後も変わっていない。未組織労働者、零細自営業者などを主要な支持基盤とした都市型政党であり、日常地域活動、選挙の活発な支持拡大活動が特徴的である。リーダー層には強烈な政権参加指向がみられる。
代表は参議院議員山口那津男(なつお)(2009年~ )。党員数は40万人で、党の出版物には機関紙『公明新聞』(日刊80万部)がある。
[藤井 正・五十嵐仁]
宗教団体である創価学会を母体に1964年に結成された政党。94年に解散。
日蓮正宗の在家信徒団体である創価学会は1951年ころから活発な布教活動を展開し,その勢力を急速に拡大していったが,都市の中・下層階級を基盤とする同会には現状批判の空気が強く,勢力の増大とともに政治に進出する姿勢を強く示すようになっていた。そして,55年にはじめて地方議会に議員を送り,翌56年には参議院に3名の議員を当選させた。この段階では,政権獲得の意図はないから衆議院には議員を送らないとくり返し言明していたが,60年に池田大作が同会第3代会長に就任するとともに,政治進出の方向はますますはっきりしたものとなり,翌61年に同会の各級議員を包含した組織として公明政治連盟が結成され,さらに64年衆議院へも進出するという含みのもとに,これを改組して公明党が結成された。この段階での公明党の基本的な政治路線は〈中道主義〉であり,中道左派的な性格が強かったが,組織としては創価学会との二重組織で,綱領にも〈王仏冥合の大理念〉といった教義上の用語が導入されているなど,同党は宗教色を色濃く残していた。しかし,このことはまた公明党の選挙の際の強味を示すものでもあり,学会組織を総動員して選挙運動を展開した結果,67年には最初の衆議院議員選挙で25名を当選させ,さらに69年の総選挙には47名の当選者を出して,いっきょに第3党へと躍進した。
このように結成以来順調に勢力を伸ばしてきた公明党は,勢力の伸張とともに,しだいにその祭政一致的な性格を批判されるようになり,とりわけ69年に起こったいわゆる言論出版妨害事件に際しては,世論の集中的非難を浴びることになった。これを契機として,同党は70年に入ってから綱領・党規則の改正等によって,学会からの組織的分離に取り組むとともに,脱宗教化による〈国民政党〉への脱皮をめざすようになった。これにともなって,70年代の前半には一時的に勢力の退潮をみたが,同党と創価学会との関係が安定化するとともに勢力も回復し,その後,多党化傾向の中にあって中道勢力の中心としての地位を維持し続けた。ただこのような過程は,政策面で現実主義的な路線をとらせることになり,70年代後半以降はかつての中道左派的な性格がしだいに失われるようになった。すなわち,政権構想においては,社公民連合をめざしながらも民社党への傾斜がしだいに増大し,さらには保守・中道連合さえ展望されるようになったし,80年代には,具体的な政策においても日米安全保障条約の容認,自衛隊合憲論,対韓国政策の転換など,民社,自民両党の政策への接近がみられた。また同党は,82年の参議院議員選挙で,創価学会会員でない候補者数人をはじめて立候補させた。
80年代半ばの同党の歩みは順調であった。80年の総選挙で33名にまで減少した衆議院議員の当選者数も,83年には58名,86年には56名と回復し,安定的に第三党の位置を確保するかに見えた。しかし,89年の参議院議員選挙における与野党の逆転に象徴される55年体制の不安定化と,多党化傾向の強化とは,公明党の相対的な地位を低下させるとともに,党内に政権参加の意欲をますますかきたてるようになったと思われる。91年には,自民党と協力して,PKO協力法案を委員会で強行採決するという,突出した行動も見られたが,93年の自民党の分裂に伴う細川護熙内閣の成立には積極的に参加し,つづく羽田孜内閣でも閣内協力を貫いた。このような90年代に入ってからの公明党の活動方針は,それまで示されてきた同党の独自性をしだいに失わせ,ついには,衆議院議員と改選される参議院議員が94年末の新進党の結成に参加するまでにいたり,公明党は解散した(新進党に合流せずに〈残留〉した改選期を迎えていなかった参議院議員,地方議員らは〈公明〉を党名とした)。このような結果にまでいたったについては,衆議院に小選挙区制(〈比例代表制〉の項の[小選挙区比例代表並立制]を参照)が導入されたことの影響が大きいであろう。
→創価学会
執筆者:有賀 弘
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(星浩 朝日新聞記者 / 2007年)
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創価学会を背景に1964年(昭和39)11月に結成された中道政党。69年の総選挙で野党第2党に躍進し,70年6月政教分離の新綱領を採択して,党組織の確立をはかった。79年に民社党,翌年に社会党との間で連合政権に関する合意文書を結び選挙協力も行うが,80年の衆参同日選挙で自民党が安定多数を確保すると,しだいに自民党寄りに路線を転換した。94年(平成6)12月の党大会で分党を決議,新進党結成に衆議院議員全員と参議院議員半数が参加。しかし98年1月新進党が分裂,同年11月再び公明党を結成。
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…60年池田大作(1928‐ )が第3代会長に就任,61年公明政治連盟を結成して政治進出を本格化した。64年には公明政治連盟を発展的に改組して公明党を結成,67年の総選挙で衆議院に進出した。 学会は,民主音楽協会をはじめ潮出版社による雑誌《潮》などをつうじて,文化,学術など多方面にわたる活動を展開したが,反対勢力への出版言論の妨害が社会問題化し,70年公明党との政教分離を公表した。…
※「公明党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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