平安初期の歌人。生没年不詳。寛平~延喜のころ活躍。延喜21年(921)1月30日任淡路権掾とあり,これが晩年の,おそらく最高位であろうから,官途としては不遇であった。しかし歌歴は華々しく,はやく《寛平后宮歌合(かんぴようのきさいのみやのうたあわせ)》(893・寛平5以前)に紀貫之らとともに登場し,《古今集》の4人の選者の一人であった。入集も60首で紀貫之についで第2位である。907年9月に宇多法皇の大堰河(おおいがわ)の御幸があり,躬恒も供奉して歌を奉った。躬恒は貫之とともに常に宮廷にあって歌を作った歌人である。貴紳の依頼による作歌の機会も多く,歌人としての声望は大きい。歌風は貫之に比して軽快,それだけに親しみがもてる。家集の《躬恒集》は,約230首を収め上下あり,詞書も詳しく,信頼度が高い。〈心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花〉(《古今集》巻五)。
執筆者:奥村 恒哉
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平安前期の歌人。『古今和歌集』撰者(せんじゃ)。三十六歌仙の一人。894年(寛平6)甲斐権少目(かいのごんのしょうさかん)、907年(延喜7)丹波権大目(たんばのごんのだいさかん)、和泉権掾(いずみのごんのじょう)など地方官を歴任。早く898年(昌泰1)の「朱雀院女郎花合(すざくいんおみなえしあわせ)」に歌を残すが、名をなすのは『古今集』によってである。入集(にっしゅう)60首は紀貫之(つらゆき)に次ぐ第2位。907年宇多(うだ)法皇の大井川御幸では、9題中8題につき、彼のみ2首ずつを献じる。『古今集』以後の活躍は華々しく、913年の「亭子院歌合(ていじいんのうたあわせ)」などに出詠、また屏風歌(びょうぶうた)歌人として令名高く、貫之と並び称された。名所歌の作者としても名があるのは、即興的な歌才に優れていたことをうかがわせる。四季歌を得意とし、機知に富み、事象を主観的に把握して、平明なことばで表現するところに躬恒の特長がある。
心あてに折らばや折らむ初霜の置きまどはせる白菊の花
[菊地靖彦]
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生没年不詳。平安前期の歌人。三十六歌仙の1人。諶利の子とも,系譜不詳とも伝える。894年(寛平6)甲斐少目(しょうさかん)。以後の官歴も不遇で,最高位は淡路権掾(ごんのじょう)。紀貫之(つらゆき)と並ぶ「古今集」の代表歌人で,紀友則(とものり)・貫之・壬生忠岑(みぶのただみね)とともに「古今集」の撰者を勤めた。歌合(うたあわせ)への参加,屏風歌の制作も多く,歌人としての評価は高かった。「古今集」の60首を含め,勅撰集に190首あまりが入集。家集「躬恒集」。
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…完成奏覧は913年(延喜13)から914年の間である。撰者は紀友則,紀貫之,凡河内躬恒(おおしこうちのみつね),壬生忠岑(みぶのただみね)の4人で,友則は途中で没し編纂の主導権は貫之がとった。撰者の主張は序文に示され,〈やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける〉と仮名序の冒頭にいうように,創作主体としての人間の心を基本に据えるものである。…
※「凡河内躬恒」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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