江戸中期の俳人。加賀国松任の人。父は表具屋福増屋六兵衛。12歳のころ奉公した本吉の北潟屋主人岸弥左衛門(俳号半睡,のち大睡)に俳諧を学び,16歳のころすでに地方の女流俳人として名を成したが,17歳のとき支考に見いだされてからはいっそう有名になった。一説によると18歳で金沢の足軽に嫁ぎ,子どもを1人なしたが,25歳のとき夫に先立たれ,次いで子どもも死んだので実家にもどったという。1753年(宝暦3)剃髪して尼となり,素園と号した。千代女に関しては伝説が多く,寡婦になったとき〈起きてみつ寝てみつ蚊帳の広さかな〉と詠み,子どもを死なせたときは〈とんぼ釣りけふはどこまで行つたやら〉の句を成したという話などあるが,いずれも信じるべきでない。作品集に《千代尼句集》がある。〈朝顔に釣瓶とられてもらひ水〉(《千代尼句集》)。
執筆者:山下 一海
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江戸中期の俳人。一般に加賀の千代、また千代尼ともよばれる。加賀国(石川県)松任(まっとう)(白山(はくさん)市)の表具屋の女(むすめ)。通説によると、18歳のとき金沢藩の足軽福岡家に嫁し、一男をあげたが、まもなく夫に死別、子も早世して松任に帰ったと伝えられるが、文献的にはむしろ未婚であったことを証するものが多い。早熟で、16、7歳のころから俳諧(はいかい)の才が近国に評判となり、美濃(みの)派の支考、伊勢(いせ)派の乙由(おつゆう)らにも認められて、当時としては珍しい女流俳人として名声をほしいままにした。剃髪(ていはつ)は51歳のころで、以後素園と号している。作風は概して通俗的であり、とくに気のきいた理知の働きを含んだ風調が、当時世の人々に喜ばれた。句集に『千代尼句集』『松の声』。墓所は不明である。
[堀切 實]
朝顔に釣瓶(つるべ)とられてもらひ水
『中本恕堂編『加賀の千代全集』全1巻(1958・同書刊行会)』▽『中本恕堂著『加賀の千代研究』(1972・北国出版社)』
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1703~75.9.8
加賀千代とも。江戸中期の俳人。加賀国松任の表具屋福増屋の女。結婚について諸説あるが,不嫁説が有力。1753年(宝暦3)頃剃髪,素園と号す。19年(享保4)支考の来訪をはじめ,廬元坊(ろげんぼう)・涼袋・白雄(しらお)らが訪問。みずからは25~26年頃伊勢に赴き,乙由(おつゆう)を訪問。支考・麦林一派の影響下にあったが,句は諸国諸派の俳人の撰集に入集する。句集は既白編「千代尼句集」(1763),「松の声」(1771)。
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…市域中央部を北陸本線,国道8号線が並走し,海岸沿いに北陸自動車道が通じ,美川インターチェンジが近い。なお俳人千代女の出身地で,中町の聖興(しようこう)寺には千代尼塚や千代尼遺芳館がある。【斎藤 晃吉】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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