太平洋の北西部,北海道本島の東端から北東に,カムチャツカ半島まで連なる全長約1200kmの弧状列島。千島の名はもと〈蝦夷が千島〉と称したことによるといわれる。ロシア名のクリル列島Kuril'skie ostrovaはロシア語の〈クリーチ(煙をはく)〉,またはカムチャダール語の〈クーシ(南方に住む者たち)〉から出たものといわれる。おもな島は南から国後(くなしり)島,択捉(えとろふ)島,ウルップ(得撫)島,シムシル(新知)島,シャスコタン(捨子古丹)島,オネコタン(温禰古丹)島,パラムシル(幌莚)島,アライト(阿頼度)島,シュムシュ(占守)島など24を数え,うち1000km2以上の面積をもつのは国後,択捉,ウルップ,パラムシルの4島である。総面積約1万km2。カムチャツカから北海道中央部にまで連なる火山帯が走り,千島弧に沿って火山が雁行状に配列している。列島には16の活火山があり,北端のアライト島のアライト火山(2339m)が最高峰である。また,列島には標高1000mを超す山が60もあり,島全体が山地で,海に向かって急崖をなすところが多く,平地に乏しい。そのため港として利用できる湾は少なく,わずかに択捉島の紗万部(しやまんべ),単冠(ひとかつぷ),シムシル島のミリナ,パラムシル島のワシリエフなどがあげられるにすぎない。
列島に沿って親潮(千島海流)が流れ,全体としてこの海流の影響下にあるが,南西の外海には夏季に黒潮(日本海流)が北上してくるため比較的温暖になる。しかし,列島の北部と南部では緯度が約8°も違うこと,暖流の影響を受ける程度の違いから,南北の植生には大きな違いが見られる。択捉島とウルップ島の間には,日本の植物分布境界線の一つである宮部線が通り,これより南側の国後・択捉両島には北海道北東部と同じ温帯性の高木林が見られるが,ウルップ島以北には見られず,平地に高山植物が生育し,亜寒帯性の植生を示している。沿海はサケ・マス,タラ,カニ,オヒョウなどの寒流系の魚種に富み,ホタテガイ,ホッキガイなどの貝類やコンブ,ノリなども多く見られる。動物は列島全域にキツネが見られるが,北海道に生息するヒグマ,リス,ウサギなどは南部に多く,北部になるにしたがって少なくなる。
第2次大戦前,列島は地理的にみて,南千島,中千島,北千島の3地域に分けられていた。南千島と中千島は,択捉海峡によって,中千島と北千島はオネコタン海峡によってそれぞれ境界とされていた。北千島は戦前は日本の北洋漁業の最北端の地として発展し,特にパラムシル島には水産関連の工場も設立され,漁期には1万人を超す漁民が集まり,活況を呈した。戦後ソ連領となってからも,ソ連(現ロシア連邦)によって引き続き水産関係の工場が操業され,重要な漁業地域となっている。中千島の島々は古くからラッコ,オットセイなどの海獣の生息地として知られ,第2次大戦終了時まで,これら海獣の猟獲と養狐業が盛んであったが,ソ連・ロシアの領土となってからはその状況は不明である。大戦終了時の南千島には日本人の常住世帯も約3000(人口1万6500)を数え,その約77%が漁業関係に従事していたといわれ,北海道本島との関係が特に緊密であった。歯舞(はぼまい)諸島の島々は,平たんな台地をなし,国後・択捉両島は火山が多く,本島からは国後島の秀麗な二重式円錐火山爺爺(ちやちや)岳(1822m)を望見することができる。
執筆者:奥平 忠志
千島列島は古くは〈クルミセ〉と称し,1869年(明治2)蝦夷地を北海道と改称して国郡を設定した際,択捉島までを千島国とし,75年樺太(からふと)・千島交換条約締結を機に千島列島と称するようになった。
原住者の系譜は不明な点が多いが,6,7世紀から12,13世紀ごろにはオホーツク文化人が居住し,その後,南部は北海道アイヌ,北部はイテリメン族(カムチャダール)の出稼ぎ地となっていたが,近世までにはアイヌが北上して列島全体の居住者となったとみられている。1643年(寛永20)オランダ東インド会社の航海士M.G.deフリースが太平洋を北上して北海道本島および南千島に達し,択捉島をスターテン・ラント,ウルップ島をコンパニース・ラントと名付けた。
日本では,松前藩が1644年(正保1)に国絵図を作製して江戸幕府に提出し,1700年(元禄13)にも郷帳とともに国絵図を提出しているが,この中で〈クルミセの方〉として島々の名を記している。17世紀末以降,南から日本人,北からロシア人の進出が顕著になった。松前藩は,17世紀初頭より道東の厚岸(アッケシ)を中継地として間接的に千島交易を行っていたが,17世紀末には東部の霧多布(キイタップ),次いで1754年(宝暦4)国後(クナシリ)に商場(あきないば)(場所)を設け,74年(安永3)厚岸,霧多布,国後の3場所を飛驒屋久兵衛に請け負わせた。
ロシア人は,17世紀末にカムチャツカを征服した後,そこを足場にして南下を開始し,1697年コサックの首領アトラーソフVladimir V.Atrasovがカムチャツカより北千島を望見,1711年(正徳1)アンツィフェーロフDanila Ya.AntsiferovとコジレフスキーIvan P.Kozyrevskiiがシュムシュ島,パラムシル島に遠征し,39年(元文4)にはベーリング探検隊の支隊シパンベルグMartyn P.ShpanbergとウォールトンVilem Val'tonが千島列島を南下して仙台および安房沖に達した。以後狩猟,交易,毛皮貢税(ヤサーク)徴収を目的に千島への進出はいっそう顕著になり,68年(明和5)コサックの百人長チョールヌイIvan Chyornyiが毛皮貢税徴収のため択捉島まで到達したのをはじめ,78年には,シベリアの企業家ラストチキンの派遣したシャバーリン一行が根室半島のノッカマプ,次いで翌79年厚岸に来航して松前藩吏に通商を求めるに至った。
幕府もこのころから北方への関心を強め,85年(天明5),86年山口鉄五郎,最上徳内らを千島調査に派遣し,最上徳内はウルップ島まで探検して同島以北のロシア人の動向について情報を得た。その後,89年(寛政1)クナシリ・メナシ地方(メナシはアイヌ語で〈東〉の意で,現在の目梨・標津(しべつ)両郡の沿岸地区)のアイヌが蜂起したこともあって(クナシリ・メナシの戦),98年幕府は再度千島を調査し,近藤重蔵が択捉島に〈大日本恵登呂府〉の標柱を建てた。翌99年東蝦夷地とともに千島を幕府直轄領とし,1800年高田屋嘉兵衛に命じて択捉島に漁場を開かせるとともに,同島に郷村制を実施してアイヌの同化策を進めた。
同地は21年(文政4)再度松前藩領となったが,この間,1807年(文化4)フボストフNikolai KhvostovやダビドフGavriil I.Davydovらの択捉島攻撃,11年千島海域の測量に来たゴロブニンの捕縛と翌年のリコルドPyotr I.Rikordによる高田屋嘉兵衛の連行など,千島を介して日本と交易関係を結ぼうとするロシアとの間にしばしば紛争が生じた。55年2月7日(安政1年12月21日)の日露和親条約によって両国の国境は,択捉・ウルップ両島間の水道に定められ,樺太・千島交換条約により千島全島が日本領となった。
執筆者:榎森 進
日本の北方領土の範囲について,国会の〈北方領土問題の解決促進に関する決議〉(1979年2月)では,歯舞諸島,色丹(しこたん)島,国後島,択捉島の4島とされており,日本共産党を除く各党がこの決議に賛成した。共産党は〈千島問題についての日本共産党の政策と主張〉(1969年3月)で上記4島のみならずウルップ島以北の島々も加えるべきであるとしているが,いずれの党もこの4島は日本の正当な領土であり,ソ連から返還されるべきだという立場に立つため,それがソ連(現ロシア連邦)との間の懸案問題となっている。
日本とロシアが1855年に結んだ日露和親条約では,両国の国境を択捉島とウルップ島との間と定め,サハリン(樺太)には明確な国境を設けないとした。75年の樺太・千島交換条約では,日本がサハリンに対する領土権を放棄し,そのかわり千島列島の領有権をロシアから譲り受けるとした。この条約では,その対象となる領域を北のシュムシュ島からウルップ島までの18島として,その名を列記しているが,そのなかには択捉,国後,歯舞,色丹の各島の名はない。つまり,この時点ですでにこの4島が日本領であることをロシア側も確認していたわけである。ついで1905年のポーツマス条約では南サハリンが日本に割譲された。連合国は45年2月のヤルタ会談で南サハリンのソ連への返還および千島列島のソ連への引渡しを取り決め,ソ連軍はこの際の合意に基づき対日参戦し,極東軍司令官A.M.ワシレフスキーが8月15日に千島の占領命令を発して8月23日北千島の占領を完了,8月31日にウルップ島に上陸,9月3日までに択捉島,国後島,歯舞諸島,色丹島を占領した。
今日の北方領土問題は,45年12月1日,根室町長安藤石典が上京して,連合軍最高司令官マッカーサーに直訴状を提出したことに始まる。直訴状は,〈北方四島〉が日本固有の領土であると強調し,ソ連軍の武力占領を不当としてこの地域をアメリカ軍の保障占領下に置くよう要請したものであった。吉田茂内閣が51年9月に調印したサンフランシスコ講和条約では〈日本国は千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利,権原及び請求権を放棄する〉(第2条C)と規定している。これに対し吉田全権代表はこの〈千島列島〉が北方四島を含まないことに各国代表団の注意を喚起した。ソ連代表は同条約に千島列島および南サハリンがソ連に帰属する旨の明文がないことを理由に調印を拒否,この問題は日ソ間の平和条約交渉に移された。交渉は55年からロンドンで開始されたが,北方四島の一括返還を求める日本と,歯舞諸島・色丹島の返還を譲歩の限度とするソ連との間に合意が成立せず,56年10月,両国はとりあえず日ソ共同宣言を発して国交を回復し,領土問題を含む平和条約の締結については交渉を継続することとなった。同宣言には,ソ連は〈歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし(中略)平和条約が締結された後に現実に引き渡されるもの〉と記された。
61年,ミコヤン・ソ連副首相が訪日の際持参したフルシチョフ首相の書簡に,領土問題は国際協定その他によりすでに解決ずみであるとの主張があったので,池田勇人首相との間に南千島の帰属をめぐる論争が行われた。平和条約締結交渉は72年から開始されたが,〈第2次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結〉(1973年10月,日ソ共同声明)する点では合意しうるものの,その諸問題のなかに北方領土の返還を含ませるかどうかでは合意が成立せず,平和条約締結の交渉を継続するとの合意があるだけの状態で今日に至っている。
日本政府は総理府に北方対策本部(現在は総務庁の所管)を設け,80年には北海道駐在大使を新設し堀新助を任命,81年1月には閣議で2月7日を〈北方領土の日〉とすることを決定した。1979年には国会で前記〈北方領土決議〉がなされ,82年8月には〈北方領土問題解決促進特別措置法〉が成立した。返還運動は政府の外郭団体〈北方問題対策協会〉のほか民間団体の運動があり,1980年には根室で〈北方領土七ヵ村再建委員会〉が発足,北方四島亡命村なるものが設けられている。92年から日ロ外相定期会議が継続されている。この間に北方墓参再開,平和条約交渉に関する次官級常設グループの設置,北方領土のビザなし入域などの進展が見られた。91年4月のゴルバチョフ訪日で,北方四島の帰属問題が平和条約の内容となることが合意され,93年10月のエリツィン大統領の訪日の際には,〈法と正義の解決〉をめざす旨の東京宣言が出された。
執筆者:佐々木 隆爾
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北太平洋にカムチャツカ半島南端から北海道東端にかけて連なる火山性の列島。長さ約1200キロメートルの間に花綵(かさい)状に雁行(がんこう)している。日本では古く蝦夷が千島(えぞがちしま)、クルミセ(久留味世とも書き、「人間」を意味するアイヌ語の「クル」に由来)などとよばれ、列島の名称になったとされる。大きく分けて北千島、中千島、南千島に三分される。英語名クリル諸島Kuril Islands、ロシア語名もクリル諸島Курильские Острова/Kuril'skie Ostrovaであるが、政治的には、「クリル諸島」という名称に南千島は含まれないというのが日本政府の見解である。なお、ロシア連邦では色丹島(しこたんとう)と歯舞群島(はぼまいぐんとう)をあわせて小クリル列島Малая Курильская Гряда/Malaya Kuril'skaya Gryadaとよんでいる。主要な島の数は25を超えるが、面積50平方キロメートル以上の島を北から順にあげると、以下の13島である(〔 〕内はロシア語読み)。
占守(しむしゅ)〔シュムシュ〕島、阿頼度(あらいと)〔アライド〕島、幌筵(ほろもしり)〔パラムシル〕島(以上北千島)。
温禰古丹(おねこたん)〔オネコタン〕島、春牟古丹(はるむこたん)〔ハリムコタン〕島、捨子古丹(しゃすこたん)〔シャシュコタン〕島、松輪(まつわ)〔マツア〕島、羅処和(らしょわ)〔ラシュア〕島、計吐夷(けとい)〔ケトイ〕島、新知(しんしる)〔シムシル〕島、得撫(うるっぷ)〔ウルップ〕島(以上中千島)。
択捉(えとろふ)〔イトルプ〕島、国後(くなしり)〔クナシル〕島(以上南千島)。
[渡辺一夫]
いずれの島も、太平洋プレート(岩盤)北西縁に形成された千島海溝の西側に、アジア大陸の縁辺部に沿って噴出した火山島で、総面積は約1万平方キロメートルである。基底部に第三紀層を露出する島もあるが、島体のほとんど全部が火山噴出物で形成されている。海岸線は単調で、一般に急崖(きゅうがい)が海に迫り、よい投錨(とうびょう)地は少ない。阿頼度富士(2339メートル、阿頼度島)、爺爺岳(ちゃちゃだけ)(1822メートル、国後島)、単冠山(ひとかっぷやま)(1566メートル、択捉島)をはじめ、標高1000メートルを超える火山は25座以上、活火山も16座以上(ロシア資料では約40)ある。円錐(えんすい)火山、カルデラ、沈水カルデラ、溶岩台地、二重・三重式火山、温泉が多数あり、火山地形の博物館と称しても過言ではない。
気候は冷涼・湿潤なモンスーン気候である。気温・降水量とも南から北へ向かうほど低くなり、月平均気温は2月零下5~零下7℃、8月17~9℃、年降水量1000~600ミリメートルとなる。冬から春にかけてオホーツク海岸は流氷に閉ざされ(もっとも長い年で2~5月にわたる)、夏には全域で濃霧が続き、秋に晴天が多くなる。
植生は一般に貧しく、南部ではエゾマツ、トドマツ、カンバなどの林があるが、北部ではわずかな低木と広い笹(ささ)原、裸地となり、海岸からただちに高山植物帯が始まる島もある。植物分布では択捉―得撫島間の択捉海峡(フリース海峡)上の宮部線(みやべせん)により、北海道系、カムチャツカ系の分布が分かれるという特色がある。動物ではヒグマ、キツネ、リス、テンの類、沿岸部にセイウチ、オットセイ、アザラシ、クジラ類がみられる。
[渡辺一夫]
江戸時代は千島国とよばれ、1875年(明治8)の樺太・千島交換条約(からふとちしまこうかんじょうやく)以後は全域が日本の領土となり、第二次世界大戦終結の1945年(昭和20)まで北海道根室支庁(ねむろしちょう)(現、根室振興局)管内にあった。南千島は開発の歴史が古く、「越年(おつねん)」する者も多かった。農業、牧場経営、伐木、硫黄(いおう)採取なども行われたが、もっとも多かったのは漁業者と水産業・水産加工業従事者であった。水産物はサケ、マス、カニ、タラ、オヒョウ、ホタテガイ、ホッキガイ、コンブなどで、一部は加工場に回された。中心集落は古釜布(ふるかまっぷ)(国後島)と紗那(しゃな)(択捉島)。1941年、日米開戦に先だち、日本の連合艦隊がハワイ奇襲のために択捉島単冠湾(ひとかっぷわん)に集結したことはよく知られている。中千島は農林省の管轄下に置かれ、養狐(ようこ)場があり、一般の定住者はなかった。北千島は少数の定住者のほか、水産会社などに雇われた繰込み漁夫が夏季に集まり、漁業・水産加工に従事し、盛時には2万人に達した。小集落が片岡(占守島)、柏原(幌筵島)にあった。
[渡辺一夫]
第二次世界大戦後、ソ連は全域をロシア連邦共和国サハリン州(樺太(からふと))に所属せしめ、片岡をバイコボБаиково/Baikovo、柏原をセベロ・クリリスクСеверо‐Курильск/Severo-Kuril'sk(北クリル市の意)、紗那をクリリスク、古釜府をユージノ・クリリスクЮжно‐Курильск/Yuzhno-Kuril'sk(南クリル市)とよんだ。また、その他の集落、山河の名称もロシア名にかえた。南部ではライムギ、ジャガイモの栽培、畜産、林業が行われ、温泉熱利用の野菜を栽培するソフホーズ、缶詰コンビナート、漁業コルホーズなどの集団企業ができた。全体に水産、水産加工、毛皮獣飼育、サケ・マス孵化(ふか)事業は盛んである。
全人口は約2万と伝えられ、列島南部を中心に人口が増大している。人口集中地区には学校、病院、文化会館、商業施設、行政機関がある。ユージノ・クリリスクには1973年からモスクワ放送などを宇宙中継するテレビセンターが置かれ、同市とクリリスクで新聞も発行されていると伝えられる。中心市ユージノ・クリリスクおよびクリリスクは、サハリンのユージノ・サハリンスク(豊原(とよはら))と定期空路で結ばれる。軍事基地もあるが、規模などは明らかでない。
日本との間には北方領土問題があるが、千島海域漁業の安全操業、サケ・マスなどの資源捕獲量、墓参などについては、実務レベルで協議が行われてきた。
[渡辺一夫]
千島列島には昔からアイヌが住んでおり、彼らは島伝いに交易を行った。千島列島を最初に「発見」したヨーロッパ人はオランダ人で、1643年フリースの指揮する東インド会社の船が南千島を発見した。しかし彼らは誤って、これらの島を日本や北米大陸の一部だと信じた。ロシア人が千島列島の探検に乗り出したのは1711年で、18世紀の末までに南千島にまで進出し、先住民に毛皮税を課し、一時は得撫島をラッコ猟の根拠地とした。
一方、日本の江戸幕府は1798年(寛政10)180人からなる蝦夷地巡察隊を派遣し、これに加わった近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)(守重(もりしげ))は択捉島に渡って「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。翌年、高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ)によって択捉島への航路が開かれ、漁場もつくられた。
1855年2月(安政1年12月)の日露通好条約により、千島列島の帰属は得撫島以北がロシア領、択捉島以南が日本領と決まった。このあと1875年(明治8)の樺太・千島交換条約(サンクト・ペテルブルグ条約)で、全千島列島が日本領土となった。しかし第二次世界大戦末期のヤルタ会談で、スターリンは対日参戦の代償として千島列島を要求し、ルーズベルトはこれを承認した。日本の敗戦後、ソ連軍はこれらの島に進駐し、1945年(昭和20)9月20日千島全域がソ連領であると宣言され、サハリン州に編入された。
日本は1951年(昭和26)のサンフランシスコ講和条約で千島列島の領有権を放棄したが、日本政府は、この条約にはソ連は加盟しておらず、列島の帰属は未定であり、また国後、択捉、歯舞、色丹の諸島は日本の固有の領土だとの立場をとっている。一方ソ連は1956年の日ソ共同宣言で、平和条約締結後、歯舞諸島(歯舞群島)と色丹島を日本に引き渡すことを約束したが、1960年の日米安全保障条約改定後は、日本から外国軍隊が撤退するまでは引き渡さないというようになり、さらにその後、日ソ間に領土問題は存在しないとの立場をとるようになった。1979年夏以降、ソ連は色丹島にも軍事基地の建設を始め、千島列島は軍事的にも注目されるようになった。1991年のソ連解体後も、ロシア連邦政府の北方領土に対する考えに基本的変化はなかった。その後、ロシアの大統領エリツィンは、1997年(平成9)11月のクラスノヤルスクでの首相橋本龍太郎との会談で、日本との領土問題を2000年までに解決するとの意向を語った。さらに1998年4月の伊豆川奈での会談では、橋本龍太郎の側からエリツィンに千島列島の国境線画定が提案され、領土問題は解決に向かって一歩前進した。しかしロシア国内には領土はけっして譲るべきではないとの強硬な反対派もいて、前途は多難である。
[外川継男]
『北海道庁編『千島概誌』(1977・国書刊行会)』▽『綜合北方文化研究会編『千島博物誌』(1977・国書刊行会)』▽『木村信六他著『千島・樺太の文化誌』(1984・北海道出版企画センター・北方歴史文化叢書)』▽『ボリス・スラヴィンスキー著、加藤幸廣訳『千島占領―1945年夏』(1993・共同通信社)』
北海道北東端とカムチャツカ半島南端の間に約一二〇〇キロにわたり北東方向に弧状に連なる列島。「千島」の名称は数多くの島々を意味した「蝦夷ヶ千島」に由来し、それが千島列島をさすようになったのは近世末期以降のことである。古くは「くるみせ」(アイヌの島)、「ちゅぷか」(東の島)とよばれていた。国際的には「クリール列島」もしくは「クリール諸島」とよばれている。大小約三〇の島々からなる火山性の列島で一六の活火山があり、一〇〇〇メートル級の山々も六〇を数えるので島々の海岸は断崖が続いて良湾に乏しい。この列島は地理的および歴史的観点からエトロフ水道(フリース海峡)をもって南千島と北千島に分けられるが、第二次世界大戦前には北千島のうちオンネコタン海峡以南を海獣禁猟の都合から中部千島とよんでいた。
この列島の気候は東方を優勢な親潮が南下し、南西方からは対馬暖流の一部が北上するので海洋性を示し、夏は低温であるが冬の寒気はそれほど厳しくない。夏季には南東方に接近する黒潮がもたらす南風のために列島の東側は濃霧に覆われることが多く、日照時間は極端に少ない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
北海道とカムチャツカ半島の間の弧状列島で,オホーツク海と太平洋を画する。大小23の島および岩礁などからなる。列島の南部と北部にはアイヌの人々が居住し,ラッコやオットセイを捕獲してロシアや蝦夷地(えぞち)と交易し,豊かな海産物を得て生活していた。18世紀初頭からロシアが南下し,天明年間(1781~89)には幕府調査隊が得撫(ウルップ)島に赴くなど,日露両国の接触がみられた。1855年2月(安政元年12月)日露通好条約により択捉(えとろふ)島と得撫島の間に国境を定め,75年(明治8)樺太・千島交換条約により全域が日本領となった。これにともない84年占守(シュムシュ)島から北千島アイヌ97人を色丹(しこたん)島に移住させた。第2次大戦後はロシア(旧ソ連)の施政下にある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…同年8月22日批准,11月10日布告。明治政府が旧幕府からひきついだ北方領土の状況は,安政1年12月21日(1855年2月7日)調印の日露和親条約以来,樺太(サハリン)は日露両国民雑居の地とされ帰属未解決のままであり,千島(クリル)列島は択捉(えとろふ)島,ウルップ島の間を日露の境界とし,その以北をロシア領としてきた。イギリス公使パークスは日本の樺太放任はロシア領化を招くと警告し,ロシアに売却するか代地と交換するのを良策とし,むしろ北海道開拓に専念するよう忠告した。…
…最大の問題は国境問題であった。プチャーチンはサハリン(樺太)での分界を提案し,クリル列島(千島列島)ではエトロフ(択捉)島のロシア帰属ないし分有を主張した。日本側はエトロフ島は日本領だと固執し,サハリンでは北緯50度での分界を主張した。…
※「千島列島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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