1936年、ライバル関係だった新聞聯合社と日本電報通信社(現在の電通)のニュース部門を統合して発足。新聞社や放送局にニュースを配信したほか、政府の宣伝機関の役割も果たした。45年10月に解散。ニュース業務を引き継ぎ、共同通信社と時事通信社が発足した。
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第2次大戦時の日本を代表する独占的通信社。略称同盟(Domei)。本社東京。1936年1月業務開始。1931年の満州事変勃発当時,日本の通信社としては日本電報通信社(略称,電通)と新聞聯合社(略称,聯合)とが激しく競争していた。しかし,国際情勢が緊迫するにつれて,強力な国家代表通信社設立の要望が強まった。36年1月政府のあっせんによってまず聯合が同盟の組織に参加して業務を開始し,ついで同年6月電通の通信部門が合流した。組織は社団法人で,全国の日刊新聞社と日本放送協会を加盟社とした。職員は当初約1000名(解散時には6000名にのぼった)。太平洋戦争の進展にともない,東洋における史上最大の通信社となった。東亜通信網は外地であった朝鮮,台湾,樺太(サハリン),内南洋はもちろん,華北,蒙疆(もうきよう),華中,華南,フィリピン,インドシナ,タイ,ビルマ(現ミャンマー),シンガポール,マレーシア,スマトラ,ジャワ,ボルネオ,セレベス,小スンダ,ニューギニアに及び,これら各地に設けられた同盟の支社,支局を結ぶ無電連絡網によって東亜広域(当時のいわゆる大東亜共栄圏)のニュースの交流が行われた。また満州(現在の中国東北地区)には満州事変の翌32年12月に姉妹機関として満州国通信社(略称,国通)を創設した。戦時下華やかな活動を行った同盟は,敗戦とともに存立が困難となり,45年10月解散し,その施設を受け継いで,新聞社,放送局にニュースを配信する通信社として共同通信社,経済通信をおもな目的とする時事通信社が設立された。
→通信社
執筆者:殿木 圭一
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1936年(昭和11)1月1日に設立された国家代表通信社。通信の自主権獲得とナショナル・ニュース・エージェンシーの設立を目ざす岩永裕吉(ゆうきち)、古野(ふるの)伊之助の構想と、満州事変以来、対外宣伝の統一強化ならびに国内世論の統一を図る政府の意図が合体して、当時の二大通信社日本電報通信社(1901創立、現電通)と新聞聯合(れんごう)社(1926創立)を合併、成立した。初めこの合併交渉は「電通」側の反対にあって難航したが、政府は、まず「聯合」を母体に新通信社を発足させ、合併を強要したので、ついに6月1日「電通」通信部も「同盟」に合流、政府の意図は完成した。「同盟」は政府から、電信電話の利用ならびに放送無線使用などの特権を与えられ、日中戦争開始後、中国大陸から東南アジア各地に日本の勢力が伸びるとともに、そのエリアを拡大、北支総局(北京(ペキン))、中支総局(上海(シャンハイ))、南支総局(広東(カントン))、南方総局(シンガポール)を設置して、一時は国際的通信社として対外的に活躍した。しかし、政府と協力し、軍とともに勢力を拡大した「同盟」は、45年(昭和20)敗戦になると、日本に進駐してきた連合国最高司令部(GHQ)の「新聞の政府からの分離」指令により、その特権を奪われた。9月14日には業務停止命令を受ける(19時間で解除)など厳しい処置を受けたほか、国内の新聞社のなかからも「同盟」排除の動きが出てきたため、10月31日、自発的に解散、11月1日、新しく共同通信社と時事通信社が分離して創立された。
[春原昭彦]
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…1945年11月創立。日本の国際的通信社としては,1914年国際通信社が生まれ,26年改組して日本新聞聯合社(のち新聞聯合社と改称)となり,さらに36年日本電報通信社の通信部を合併して同盟通信社となったが,第2次大戦後解散した。これをうけて設立されたのが共同通信社である。…
…最初は情報宣伝の連絡調整機関として設置された内閣情報委員会(1936)は,情報部(1937)から情報局(1940,〈内閣情報局〉の項目参照)へと拡大発展し言論統制と情報宣伝を統一的に実施する一大国家機関が出現することになった。これと並行して,国外国内のニュース・ソースを一元化した国策通信社〈同盟通信社〉が設立(1936)された。さらに,すでに最初から政府の監督下にあった日本放送協会のラジオに対する統制を強化し,他方では用紙,フィルムなどの資材統制を武器としながら,新聞,出版,映画,レコードなどの企業を強権的に整理統合し,全メディアの支配権が政府に握られていった。…
…この間1938年から新聞用紙が統制され,40年ころからは取締りの容易化を目的として新聞社の統廃合が進められて,39年848紙を数えた日刊紙は42年にはわずか54紙に減少した(新聞事業令)。しかしこの〈新聞統合〉は,一方では地方紙が1県1紙になったことで地方紙間の過当競争をなくし,また1936年政府の援助を受けた強力な国家統一通信社〈同盟通信社〉の誕生で国内外のニュースを豊富に受信できるようになったこととも相まって,地方紙の基盤を確立し,今日のブロック紙,県紙の基礎をつくることにもなった。
[戦後の新聞]
1945年第2次大戦の敗戦後,占領軍総司令部は戦争中のあらゆる新聞統制法規を撤廃したが,半面厳しい検閲を実施して,占領軍に不利な報道・言論を禁じた。…
…第1次大戦勃発直前の14年,ロイター通信社と結ぶ国際通信社(国際)が生まれ,26年東方通信社を合併して日本新聞聯合(れんごう)社(聯合,1928年新聞聯合社と改称)を組織,帝通の没落とともに,電通と聯合との激しい競争を特徴とする〈電聯時代〉を生んだ。この競争の結果は,国策により36年両社の通信業務を吸収した同盟通信社(同盟)の出現となり,同盟は日中戦争および第2次大戦を通じて東洋における最大の通信社としての地位を誇ったが,45年敗戦によって解体し,その施設を継承して,現在日本を代表する共同通信社と時事通信社が創設された。60年代半ばには,共同通信社を主体にしたアジア・ニュース・センター(ANC)をつくろうという構想が浮上,さらに70~80年代には,自民党によって〈日本を基盤とする国際通信社機能の強化〉などの試みが行われたが,情報環境の変化にともない,そうした声は聞かれなくなっている。…
…1926創立)と並び称される有力通信社に発展した。昭和期に入って満州事変後,電通と聯合を一本化し強力な国家代表通信社を設立するという政府構想が生まれ,曲折の末1936年電通通信部は新通信社の同盟通信社へ合流すると同時に,電通は残された電通営業部に同盟広告部を吸収して広告代理業専業企業として新発足をとげた。第2次大戦後の47年吉田秀雄(1903‐63)が第4代社長に就任した。…
…満州事変に際しては軍や外務省の対外宣伝に相違がみられ,政府部内の情報宣伝の統一強化が要望され,1932年9月10日,外務,陸軍,海軍,文部,内務,逓信6省の情報関係局部長による非公式な情報委員会が発足した。情報委員会は英米系の通信社に対抗するため,国内の通信社の合同により36年,単一の国策通信社として同盟通信社を設置した。36年7月1日,情報委員会は官制による公式の機関に昇格し,各省が実施していた情報宣伝や世論指導の連絡の調整にあたった。…
※「同盟通信社」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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