江戸後期の狂歌師。本名小島源之助,初号橘実副,別号酔竹庵。徳川田安家の臣。江戸四谷忍原横町住。牛込加賀町の内山賀邸の門に学ぶ。その師の影響もあって,明和末年四方赤良(よものあから),平秩東作(へずつとうさく)らと自宅に狂歌会を催し,天明狂歌流行の端緒を作った。赤良,朱楽菅江(あけらかんこう)とともに天明狂歌の三大家といわれた。1783年(天明3)《狂歌若葉集》刊,社中を酔竹側(すいちくがわ)と称し,温雅な作風を主張したが,奇知奔放な赤良に圧倒された。編著はほかに《狂歌初心抄》《狂歌二妙集》《酔竹集》など。〈今更に雲の下帯(したおび)ひきしめて月のさはりのそらごとぞ憂き〉(《万載狂歌集》)。
執筆者:森川 昭
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江戸後期の狂歌人。本名小島恭従、通称源之助、別号酔竹園。幕臣。江戸・四谷忍原横丁(東京都新宿区)に住み、内山賀邸に学ぶかたわら狂歌を好み、1769年(明和6)同門の四方赤良(よものあから)(蜀山人(しょくさんじん))、平秩東作(へつつとうさく)らを誘って自宅に狂歌会を開き、それが江戸狂歌の発生源となった。その後流行は広がり、元(もと)の木網(もくあみ)、朱楽菅江(あけらかんこう)なども加わって1783年(天明3)から数年間、いわゆる天明(てんめい)狂歌の最高潮の時期には、赤良の機知縦横、大胆奔放な作風が江戸市民の人気を集めて主流の座を占め、反対に端正でじみな作風の橘洲は大衆向きでなく、撰集(せんしゅう)『狂歌若葉集』も不評で、取り残された観があった。しかし田沼意次(おきつぐ)失脚後の寛政(かんせい)の改革(1787~93)時には正統派的な狂歌が評価されたので、晩年は中心として重きをなした。享和(きょうわ)2年7月18日、小石川箪笥(たんす)町の家で没した。墓所は浄土寺墓地(東京都品川区戸越)。
世に立つはくるしかりけり腰屏風(びょうぶ)まがりなりには折かがめども
[浜田義一郎]
(園田豊)
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…19歳の知的武士の軽快な諧謔が歓迎されて一躍文名をあげた。その2年後,同門の友唐衣橘洲(からごろもきつしゆう)に誘われて狂歌を始め,四方赤良と号したが,これが機知と笑いを求める風潮に合ってしだいに普及した。また1775年(安永4)に《甲駅新話》を書いてからは洒落本作者として活躍し,《変通軽井茶話(へんつうかるいざわ)》ほか数編の佳作をのこすという幅ひろい文学活動によって,安永末年(1780)には文芸界の中心的な存在になっていた。…
…牛込加賀町の内山賀邸は近隣の子弟に国学を教えていたが,堅苦しいいっぽうの先生ではなく,みずからも狂歌を好み門弟にもすすめた。いち早く狂歌に手を染めたのは唐衣橘洲(からごろもきつしゆう)で,1767年(明和4)同門の一人19歳の四方赤良(よものあから)(大田南畝)が狂詩文集《寝惚(ねぼけ)先生文集》を出したのも刺激になったか,1769年橘洲宅で初めての狂歌会を開き,翌年賀邸,萩原宗固を判者として《明和十五番狂歌合》があった。このころの顔ぶれは,賀邸,宗固,橘洲,赤良,飛塵馬蹄,朱楽菅江(あけらかんこう)(以上武士),大根太木(おおねのふとき),平秩東作(へずつとうさく),元木網(もとのもくあみ),智恵内子(ちえのないし),浜辺黒人(はまべのくろひと),大屋裏住(おおやのうらずみ),蛙面坊懸水(あめんぼうけんすい)(以上町人),坡柳(職業不明)など,いずれも趣味教養豊かな武士や町人であった。…
※「唐衣橘洲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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