大学事典 「大学紛争」の解説
大学紛争
だいがくふんそう
大学当局と学生との意見や利害の対立,あるいは大学と学外諸勢力との確執や反目から学生運動が活発化し,大学における教育と研究その他の大学の正常な運営が阻害された状況を指す。高校紛争などを含める場合は,学園紛争とも呼ばれる。日本では1960年代半ば(1964年慶應大学,65年早稲田大学,66年中央大学での学費値上げをめぐる紛争)から顕著になった現象であるが,1968~69年には,全国の数多くの大学に大学紛争が波及し,最盛期には全国の大学の8割がなんらかの紛争状態にあるとされた。文部省が紛争校として掌握していた大学は,ピーク時には77校に達していた。
[紛争形態と背景]
紛争の出発点は,医学部の学生処分問題(東京大学(紛争)),大学の統合移転問題(東京教育大学),大学の使途不明金問題(日本大学),学生寮の管理問題,私学での学費値上げ反対などさまざまであったが,当時の高等教育進学率は22~23%で大学生がかろうじて社会的選良の性格をとどめていた時代であり,まだ同時代の世界的な学生運動の高まり,若者の反乱,対抗文化の提唱,ヴェトナム反戦運動の高揚などの世相を背景に,学生運動は当初,一般学生や市民からの一定の支持を得て活動を活発化させた。学生の授業放棄,大学校舎のバリケード封鎖,大学当局との「大衆団交」,学生集会,街頭デモや警官隊との衝突などの事件が連日マスコミ報道をにぎわし,大きな社会現象として注目を集めた。しかしながら紛争が長期化し,また左翼党派やイデオロギーの影響が大きくなり,運動が過激化するとともに大学紛争はしだいに混迷を深めていった。紛争の影響で,1969年には東京大学,東京教育大学(体育学部を除く)で,入学試験が中止された。
[政府の対応]
1969年5月,政府は大学紛争の頻発,長期化に対処するための方策として,「大学の運営に関する臨時措置法」案を国会に提出した。同法案は大学紛争の解決は大学の自主的な収拾の努力に期待するが,同時に大学自治能力が失われるような最悪の事態に陥った際には設置者(文部大臣,公立大学設置者等)が教育研究機能停止の措置をとりうることを旨とするものであった。臨時措置法案は,大学自治を侵害する恐れがある,ここまで立ち至った以上政府が責任上積極的措置を講ずるのはやむを得ないといった,賛否をめぐって激しい論争が行われたが,8月に成立し施行された。効力5年間の時限立法とされた。こうした事態を前にして,69年1月の東大の安田講堂事件後も,大学自治の建前のもとで警察力の導入をためらっていた大学も,次々と機動隊の出動を要請して封鎖の解除に踏み切った。69年末までには,全国の大学紛争は急速に鎮静化に向かっていった。
[影響]
大学紛争は大学当局の権威主義,教授会自治の機能不全,旧態依然たる非民主的な研究室運営,「進歩的知識人」たちの無力・無責任,大学人の当事者能力の欠如などを浮彫りにし,それまで漠然と認められていた大学の権威を失墜させることにつながった。紛争の激動の日々を経験し,そこからの逃避をはかった,あるいは最終的には敗北感を味わった学生たちには,しばらくの間,シラケと呼ばれる虚脱感が広がった。教職員と学生の間での感情の溝,相互不信感は容易に拭えなかった。紛争中,あるいは紛争の直後には,各大学でさまざまな大学改革案が提唱され作成されたが,大学が正常化されるとともに,それらはほとんど実現されることなく空文化していった。紛争前ほど大学の自治が声高に叫ばれることもなくなった。
大学紛争の焦点の一つであった東京教育大学の統合移転問題は,東京教育大学の閉校,筑波大学の新設(1973年)という形で終結を見た。従来の学部に代わる学系・学群制,副学長職の創設,人事委員会,学外参与など新構想を盛り込んだ筑波大学が政府推奨の新しい国立大学モデルとして提示されたのである。しかし,この筑波モデルに追随する大学はほとんど見られなかった。大学紛争後,大学内の拠点を失った学生運動は,よりいっそう過激になり,内ゲバを繰り返して孤立を深め,ついには,よど号ハイジャック事件(1970年)や連合赤軍事件(1971~72年)を引き起こすにいたった。1970年以降,日本では大学紛争と呼べるほど大きい規模の現象は起きていない。
著者: 斉藤泰雄
参考文献: 文部省『学制百年史』帝国地方行政学会(ぎょうせい),1972.
参考文献: 中央教育審議会答申「当面する大学教育の課題に対処するための方策について」,1969.4(文部科学省ホームページ).
出典 平凡社「大学事典」大学事典について 情報