戦争や事変の際に設置された旧日本軍の最高統帥機関。1894年の日清戦争時に初めて設けられた。天皇に直属し、内閣や議会のチェックは働かなかった。陸軍は仮想敵国を旧ソ連、海軍は米国と想定し対立した。大本営には作戦を統一する役割があったが、太平洋戦争時は陸軍部と海軍部が別々の建物で作戦を指揮。溝は埋まらず大本営は形式的な存在だった。戦況を伝えた「大本営発表」は、国民の戦意高揚のため戦果を誇張した一方で、損害を
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戦時または事変において天皇の隷下に設置された第2次大戦前の最高統帥機関。最初に法令化されたのは1893年5月〈戦時大本営条例〉で,1年後の日清戦争時に初めて設置された。このときは陸軍の参謀総長が幕僚長となって陸海軍の作戦計画を担当した。また,統帥権独立制度の下で,統帥機関である大本営に文官である首相伊藤博文が列席して外交的見地から政府と統帥との調整にあたった。1903年12月には参謀総長,海軍軍令部長が並立して幕僚長となるようになり,幕僚中に文官の存在を認めるように改正され,日露戦争が戦われた。日露戦争では陸・海軍,あるいは政府との調整は大本営に首相,外相等が参加するなどの形でなされた。18年からのシベリア出兵時に大本営は設置されなかったが,参謀次長田中義一を長として参謀本部,陸軍省の部局課長を委員とする軍事協同委員会(後に時局委員会)が秘密裏につくられた。この出兵では閣僚,政党党首等で構成される臨時外交調査委員会が出兵-撤兵過程の政治的決定のうえで重要な役割を果たし,参謀本部との間にあつれきが生じた。日中戦争開始後の37年11月,戦時だけでなく事変の際も必要に応じて大本営が設置できることを規定した新大本営令が制定され,宮中に大本営が設置され,以後太平洋戦争まで存続した。
日清戦争以後,時代が下るにしたがって大本営が統帥部のみによって運営される傾向が強化され,また陸軍と海軍との対立,および統帥部と政府との調整は困難になっていった。明治期には元老,大正期には外交調査会などが事実上その調整役を行ったが,昭和期に入るとそのような役割を担うものがなくなった。そこで37年11月の大本営設置と同時に大本営政府連絡会議を上記の役割を担うべく形式的,制度的対応として設置したが,必ずしも期待されたとおりではなかった。この会議の運用を形式的に整備し,44年8月に最高戦争指導会議と改称し,敗戦まで存続した。同会議は戦争指導そのものには大きな意味をもたなかったが,日本を降伏終戦に導くうえには一定の役割を果たした。なおこの会議設置以前に一時小磯国昭首相が特旨により大本営に出席したことがある。大本営政府連絡会議や最高戦争指導会議の構成は首相,外相,蔵相,陸相,海相,参謀総長,軍令部総長,また必要に応じて統帥部各部長,外務省局長などである。このように戦争指導は広範な社会的,政治的勢力および機関に立脚して行われず,ほとんど統帥部のみによって行われた。他方,日中戦争,太平洋戦争のごとき長期持久,かつ国民の総動員を必要とする状況にあって,戦争を継続するために,国民に対しては不利な情報を隠蔽(いんぺい)するのみならず,情報を意図的に作りかえて戦意高揚をはかり,戦後には欺瞞(ぎまん)とでたらめの代名詞となった〈大本営発表〉がある。大本営は45年9月13日GHQの指令によって廃止,大本営令は10月15日に廃止となった。なお日本とは異なり,フランスの軍事高等会議,イギリスの軍事会議等には政府メンバー(主として軍部大臣)が長として存在し,さらに政府,議会に制度的に従属していた。したがって,文民統制の原理は,戦時にも制度的に貫徹されていたといってよい。
執筆者:雨宮 昭一
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1893年(明治26)5月22日公布の戦時大本営条例で設置された天皇直属の最高戦争指導機関。初め参謀総長が幕僚長となり陸海軍の作戦を指導する点で、陸軍優位の形態となっており、広島に大本営を置いた日清(にっしん)戦争はこの条例下で指導された。1903年(明治36)12月28日、同条例は改正されて参謀総長と軍令部長がともに幕僚長となり、陸・海軍対等の形態がとられ、日露戦争はこの形の大本営(宮中に設置)において作戦指導がなされた。日中全面戦争(政府は「支那(しな)事変」と呼称)の勃発(ぼっぱつ)に伴い、1937年(昭和12)11月18日、戦時大本営条例を廃止し、軍令により大本営令を制定した。従来、大本営は戦時にしか置くことができなかったが、それを修正して、事変の際にもその設置を可能にするためであった。同月20日大本営が宮中に設置され、太平洋戦争終末に至るまで存続したが、参謀本部が大本営陸軍部、軍令部が大本営海軍部となっただけで、分立する陸・海軍間を調整する機関たるにとどまった。大本営設置に伴い大本営政府連絡会議が設けられたが、政戦両略の十分な統合は果たせなかった。しかし大本営設置は、国民の戦争気分高揚に一役果たした。
[粟屋憲太郎]
『松下芳男著『明治軍政史論 下』(1956・有斐閣)』▽『『現代史資料37 大本営』(1967・みすず書房)』
対外戦争遂行のために陸海軍首脳などが天皇の幕僚として参加した最高統帥機関,またはその会議。過去3回設置された。(1)1894年(明治27)6月5日,日清戦争の宣戦布告前に設置され,幕僚長は陸軍の参謀総長。文官である伊藤博文首相も大本営御前会議に出席した。96年4月1日解散。(2)1904年日露戦争の宣戦布告の翌日の2月11日に設置され,陸軍は参謀総長,海軍は海軍軍令部長の2人がともに幕僚長となった。御前会議には首相・外相などが参加。翌年12月20日解散。(3)37年(昭和12)日中戦争中の11月20日に設置され,幕僚長は陸軍が参謀総長,海軍が海軍軍令部長。文官の参加はなく,大本営政府連絡会議が開かれた。45年9月13日廃止。
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…官制上天皇の臨席が定められていたのは枢密院会議だけであるが,天皇は議事を聴取するのみで発言しないのが慣例であった。しかし明治天皇は,日清戦争前後から日露戦争の時期には大本営会議はもとより,法制上規定のない元老会議,元老と主要閣僚の合同会議,またはそれに参謀総長や海軍軍令部長を加えた会議に出席した。大正期から昭和初期までは枢密院会議以外の御前会議は開かれなかったが,日中戦争の開始にともない大本営と大本営政府連絡会議が設置され,1938年1月以降,日中戦争の根本処理方針,日独伊三国同盟締結,日米交渉,太平洋戦争の開戦と終結などの最高国策を決定するための御前会議が1年に数回開かれた。…
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