1989年6月、民主化を求めて北京の天安門広場に集まった学生らを中国当局が武力弾圧した事件。当局は死者を319人としたが、正確な人数は分かっていない。北京に戒厳令が出され、軍が6月3日夜に制圧を開始、4日未明に天安門広場に突入した。共産党・政府はデモを「政治風波(騒ぎ)」と位置付け、弾圧を正当化し続けている。(北京共同)
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中国・北京(ペキン)の天安門広場で起きた大衆反乱で、1976年の第一次天安門事件と1989年の第二次天安門事件がある。
[中嶋嶺雄]
第一次天安門事件は中国の毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)体制末期における大衆反乱で、文化大革命以来の「毛沢東思想」絶対化の風潮と毛沢東家父長体制への中国民衆の抵抗を示した画期的事件であった。1976年1月に周恩来(しゅうおんらい/チョウエンライ)首相が死去するや、中国では「走資派(資本主義の道を歩む実権派)」批判のキャンペーンが一斉に開始された。一方、長年、中国の革命と建設および国際的舞台における中国の威信の増大に努めた周恩来首相を追悼しようとする中国民衆の意向は抑えられ、ふたたび極左的な潮流が支配し始めた。そのような状況のなかで、故人をしのぶ清明(せいめい)節の日にあたる1976年4月4日、北京の民衆は手に手に花輪やプラカードを掲げて、天安門広場の人民英雄記念碑に向かってデモ行進し、周恩来自筆の碑文が刻まれている記念碑を一種の祭壇に化してしまった。ところが、北京市当局と官憲が記念碑に捧(ささ)げられた花輪を撤去したために、翌5日、怒った大衆が反乱に立ち上がり、建物や自動車に放火するなどして一大騒乱となった。プラカードには、のちに「四人組」として逮捕された毛沢東夫人の江青(こうせい/チヤンチン)や側近の姚文元(ようぶんげん/ヤオウェンユアン)らを批判する詩も数多くみられ、明らかに毛沢東体制への反逆を意思表示したものであった。この事件は、公安当局と軍によって徹底的に弾圧され、反革命事件として処断されるとともに、党中央はその黒幕として鄧小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)(当時、中国共産党副主席・副首相、1997年死去)の責任を追及し、4月7日、彼はあらゆる職務を剥奪(はくだつ)されてふたたび失脚していった。同時にこの事件によって華国鋒(かこくほう/ホワクオフォン)が正式に首相となった。
中国はこの年の9月、毛沢東の死を迎え、10月には北京政変によって「四人組」が逮捕されるという激動を体験したが、こうして非毛沢東化が進むなかで、1978年11月、天安門事件は「革命的行動」であったと評価が逆転した。以後、この事件は、1919年の歴史的な五・四運動になぞらえて「四・五運動」とさえよばれるようになった。
[中嶋嶺雄]
第二次天安門事件は、1989年6月3日深夜から4日早暁にかけて天安門広場で発生した「血の日曜日事件」である。その発生日から、略して「六・四」ともよぶ。同年4月中旬の胡耀邦(こようほう/フーヤオパン)・元中国共産党総書記の死を悼む形で起こった民主化運動は、“最後の皇帝”として君臨しつつあった鄧小平の「人治」に対して「法治」を求める学生や市民の大衆運動であった。当初学生たちが中心で始められた追悼デモは民主化要求のデモに発展し、やがて広範な市民の参加を得て、広場の占拠、ハンストなどを展開した。さらに政府機関の役人、マスコミ、軍人なども参加し数万人規模でデモが繰り広げられた。この背景には、独裁的支配を強める鄧小平と長老政治に対する不満、経済開放政策が引き起こした物価高騰に対する抗議、さらに東欧諸国で進行していた民主改革の動きの影響などがあった。同年5月中旬に、当時のソ連ペレストロイカの旗手ゴルバチョフ書記長が訪中したこともあって、連日、100万規模のデモ隊が天安門広場を埋めつくした。同年5月20日には北京市に戒厳令が布告され、ついには「六・四」の武力弾圧として人民解放軍が戦車などを出動させ、学生や市民に発砲するなどして多数の死者を出した。
当時、学生側に共感した趙紫陽(ちょうしよう/チャオズーヤン)総書記は失脚し、江沢民(こうたくみん/チアンツォーミン)・上海市党委書記が後任に選ばれたが、民主化を求める学生や市民を「反革命暴乱」分子ときめつけた鄧小平ら中国当局への内外の非難は重く大きくて、中国の将来にも大きな禍根を残したといわねばならない。
[中嶋嶺雄]
『中嶋嶺雄著『北京烈烈』上下(1981・筑摩書房)』▽『中嶋嶺雄著『中国の悲劇』(1989・講談社)』
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(1)1976年4月5日,中国の北京,天安門広場で起こった民衆による騒擾事件。同年1月に死去した周恩来を追悼するため,民衆が広場の人民英雄記念碑にささげた花輪を,北京市当局が撤去した。これに憤激した民衆が,広場の一隅の建物や路上の自動車に火を放ち,騒乱状態となったが,この裏には,文化大革命以来押さえつけられて自由にものも言えなかった民衆の不満と怒りがあった。後に,この事件は,五・四運動(1919)になぞらえて,〈四・五運動〉と呼ばれ,民主の実現をめざす運動の原点とされた。
(2)1989年6月4日未明,民主化を要求して天安門広場を中心に集まった学生・市民に,治安当局が人民解放軍による武力弾圧を行い,300余人の死者を出した事件。〈六・四事件〉とも呼ばれる。鄧小平によって始められた改革・開放政策は,思想面でも人権や民主の要求を引き出すことになった。北京の学生たちが天安門広場で胡耀邦中共前総書記の追悼集会開いた。当局はこの動きを〈動乱〉と規定して弾圧の構えをみせると,市民も学生に同情して,100万市民が街頭に繰り出す事態に発展した。鄧小平は,周到な準備の末に6月3日夜から4日未明にかけて戦車を出動させて弾圧した。
→中国共産党
執筆者:吉田 富夫
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(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2007年)
(中嶋嶺雄 国際教養大学学長 / 2007年)
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中国,北京の天安門広場で起こった事件で,厳密にいえば,第1次と第2次がある。
①〔第1次〕1976年4月,死去した周恩来(しゅうおんらい)首相の追悼のため天安門広場に集まった民衆の行動が抑えられ,人民を扇動したとして鄧小平(とうしょうへい)副首相が職務を解任された事件(別称四・五運動)。
②〔第2次〕1989年6月4日民主化運動に結集した天安門広場の学生たちを戒厳軍が弾圧し,趙紫陽(ちょうしよう)党総書記が運動への甘い対応から解任された事件(別称六・四事件)。この事件は,87年に学生の民主化要求に寛容な姿勢を示して解任された胡耀邦(こようほう)元党総書記が89年4月に死去し,彼の名誉回復を求める学生のデモが契機となった。その後学生たちはハンストを含む過激な行動で当局に民主化を迫ったが,5月20日に北京の一部が戒厳令下に置かれ,6月4日に軍が広場に留まった学生を排除する際に流血の衝突が起こった。現在でもなお,6月4日未明に広場で何が起こったのか,死傷者は最終的に何人にのぼるのかなど,真相に不明な点が多い。
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…現在は墓参して祖先の霊を供養するほか,革命に殉じた烈士をまつる日ともなった。周恩来の死をいたんだ天安門事件(1976年4月5日)が起きたのも,この清明節である。【植木 久行】。…
… この間,毛沢東は,米中接近(毛=ニクソン会談,1972年2月),日中国交正常化(1972年9月)など,米ソの両覇権国を封じ込める世界戦略である〈三つの世界論〉にもとづく新たな外交を展開しつつ,批林批孔やプロレタリア独裁の理論学習を指示し,文革路線の深化をはかったが,文革派のあまりのだらしなさに,しだいにいらだちを示すことが多くなった。 周恩来の死(1976年1月)を追悼するなかで,無理な文革路線の下で長年にわたって蓄積されてきた民衆の不満が爆発し,第1次天安門事件(1976年4月5日,中国では四・五運動という)が起こった。その年の9月9日の毛沢東の死は,一つの時代の終りを告げるものであった。…
…75年には,文革のもたらした内政危機を乗り切るため,指導力のある鄧小平が奇跡の復活をとげ,重病の周恩来にかわって脱文革正常化をすすめるが,76年に入ると再度のまき返しにあい,鄧小平はふたたび打倒される。こうしたなかで,76年4月には〈天安門事件〉が起こり,極〈左〉的言辞を弄することで能事終われりとしている江青など文革派に対する民衆の怒りが爆発する。その年9月の毛沢東の死をきっかけに,10月6日,江青,張春橋,王洪文,姚文元の〈四人組〉が逮捕され,文革は実質的に終りを告げた。…
※「天安門事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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