旧日本軍が米ハワイの真珠湾にある米軍基地を1941年12月8日(現地時間7日)、奇襲攻撃し、英領マレー半島にも侵攻して始まった米英などの連合国との戦争。日本は37年から続けていた日中戦争と両面展開した。太平洋や東南アジアなどに戦線を広げたが、米軍は45年3月、沖縄に上陸し、8月には広島、長崎に原爆を投下。ソ連が参戦して満州(現中国東北部)に侵攻すると、日本は連合国によるポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。多くの命が奪われ、日中戦争からの死者は日本人だけで約310万人とされる。
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1941年12月8日から45年9月2日にかけて日本と連合国とのあいだで戦われた戦争。
太平洋戦争は満州事変および日中戦争とともに十五年戦争と総称され,十五年戦争の第3段階にあたり,かつ第2次世界大戦の重要な構成要素をなす戦争である。近年は,戦争の実質からして〈アジア・太平洋戦争〉という呼称も提唱されている。満州事変と日中戦争は,ともに日本の中国に対する侵略戦争であったが,日中戦争は軍部の短期終結の予想に反し,抗日民族統一戦線を基礎とする中国側の強力な抵抗により泥沼の長期戦となった。その間1939年9月1日に第2次世界大戦が勃発し,ドイツは40年6月までにオランダ,フランスなどを降伏させた。ドイツの勝利は,軍部を中心とする日本の支配層のなかに東南アジアへの侵略の気運を高めた。40年7月26~27日第2次近衛文麿内閣は,軍部と協議のうえ,〈大東亜新秩序の建設〉,〈国防国家体制〉の完成,南方武力侵略,日独伊三国同盟締結,対ソ国交調整,対米強硬方針の堅持などの政策を決定した。これらの政策は,9月22日の北部仏印(ベトナム北部)進駐によるハノイ~重慶間の援蔣ルートの切断と東南アジア侵略の軍事基地の確保,9月27日の日独伊三国同盟締結によるファシズム枢軸の形成,10月12日の大政翼賛会結成による天皇制ファシズムの成立,41年4月13日の日ソ中立条約締結による北守南進態勢などとなって実現された。これら一連の政策は,日本が米英への依存という明治以来の伝統的政策を放棄し,米英との敵対へと基本方針を転換したことを意味していた。とくに北部仏印進駐は,日本とアメリカ,イギリス,オランダとの対立を激化させ,アメリカは石油や屑鉄の対日輸出制限や中国への援助を強化し,イギリスやオランダもこれにならった。さらにアメリカを主敵とする日独伊三国同盟の締結は,アメリカを刺激しただけでなく,ヨーロッパの戦争と日中戦争とを結びつけ,二つの戦争を文字どおりの世界戦争に発展させる可能性を一挙に高めた。
1941年4月16日,第2次近衛内閣は日米関係の改善をめざし,ワシントンで日米交渉を開始した。近衛首相らは,日独伊三国同盟の反米的性格を弱めた〈日米了解案〉を基礎に交渉を進めたが,松岡洋右外相の反対にあい,交渉は難航した。6月22日に独ソ戦が勃発すると,日本は7月2日の御前会議で南北併進の方針を決定し,陸軍は7月下旬から,〈関東軍特種演習(関特演)〉を実施してソ連を後方から威嚇した。しかし,年内にソ連が敗北する可能性がなくなったため,陸軍は8月9日に年内の対ソ攻撃計画を中止し,ここに日本の方針は南進一本にまとまった。その間対米強硬論者の松岡外相を罷免するため,第2次近衛内閣は7月16日総辞職し,7月18日第3次近衛内閣が成立した。しかし陸軍が7月28日に南部仏印進駐を強行したため,アメリカは日本の在外資産の凍結と石油の対日禁輸という経済制裁で対抗し,イギリスとオランダもこれに同調した。これらは資源小国日本の弱点を痛撃した措置であり,これに反発した軍部のなかに強硬論が高まり,9月6日の御前会議では,10月下旬を目途に戦争準備を完了し,かつ10月上旬までに日本の対米要求がとおらなければ開戦を決意するという期限付き開戦が決定され,日米交渉は行き詰まった。この状況下で近衛首相は総辞職の道を選び,10月18日に主戦論の東条英機内閣が成立した。そして11月5日の御前会議で12月初頭の開戦が決定され,日本は11月26日に提示されたアメリカ側のハル・ノートを最後通牒と受けとり,12月1日の御前会議で8日の開戦を正式に決定した。
これに対し米英両国首脳は,41年8月12日に領土不拡大,政治形態の自由選択権の尊重,平和の確保,侵略国の武装解除などを定めた大西洋憲章に署名し,9月24日にはソ連など15ヵ国が参加を表明した。ついで太平洋戦争勃発直後の42年1月1日,米英ソ中4ヵ国代表は,自由と人権の擁護,ファシズム諸国の打倒などを内容とする連合国共同宣言を発表した。これにはのちに52ヵ国が参加し,ここに反ファッショ連合が正式に結成された。
1941年12月8日,日本は英領マレー半島コタ・バルへの奇襲敵前上陸とハワイ真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争へ突入し,戦争は文字どおりの世界大戦に発展した。宣戦の詔書や政府声明に示された日本の戦争目的は,〈自存自衛〉と〈大東亜共栄圏建設〉の二つであったが,アジアを白人帝国主義の支配から解放し,日本を盟主とする〈大東亜共栄圏〉を建設するというスローガンは,現実には日本が中国と東南アジアを侵略し勢力圏化するためのものとして機能することになり,10日東条内閣は今次の戦争を〈大東亜戦争〉と呼称することを決定した(声明は12日)。
戦争の経過を軍事史の観点から時期区分すると,大要次のとおりである。
(1)1941年12月8日~42年8月(日本軍の戦略的攻勢と連合国軍の戦略的守勢の時期) 日本軍は12月8日の真珠湾攻撃と10日のマレー沖海戦によって米英の戦艦群に大打撃をあたえ,東南アジアの各地を急襲して太平洋の制海権と制空権を掌握した。そして42年1月2日マニラ,2月15日シンガポール,3月8日ラングーンを占領し,3月9日ジャワ島のオランダ軍を降伏させるなど,日本軍は開戦後約半年のあいだに東はギルバート諸島とソロモン諸島から西はビルマ(現,ミャンマー)にいたる広大な地域を占領した。一方,連合艦隊は5月7~8日の珊瑚海海戦では優勢勝ちを収めたが,6月5日のミッドウェー海戦で4隻の主力空母を撃沈され,太平洋正面の制海権と制空権を失った。
(2)1942年8月~43年2月(連合国軍の反撃と日本軍の戦略的持久の時期) 8月7日連合国軍がガダルカナル島へ上陸し,以後約半年にわたり同島を含むソロモン諸島周辺で陸海空の大消耗戦が展開された(ガダルカナル作戦など)。国内の生産が消耗に追いつかず,制空権を奪われた日本軍は補給に苦しみ,多大の兵員と艦船および航空機を失い,43年2月7日ガダルカナル島を放棄した。同じ2月,ソ連軍がスターリングラードでドイツ軍を降伏させ,これら二つの戦いが第2次世界大戦の勝敗を分ける決定的な転換点となった。
(3)1943年2月~44年10月(連合国軍の戦略的攻勢と日本軍の戦略的守勢の時期) ソロモン諸島を奪還した連合国軍は,ニューギニア北岸からフィリピンをめざすコースと,ギルバート諸島からマーシャル,カロリン,マリアナの各諸島を攻略する中部太平洋コースの二手に分かれて大攻勢を開始した。補給を断たれた孤島の日本軍守備隊は,43年5月29日のアリューシャン(アレウト)列島アッツ島守備隊を皮切りに,相次いで全滅し,大本営はこれを〈玉砕〉と発表して美化した。9月30日,大本営は千島,小笠原,内南洋中西部,西部ニューギニア,インドネシアおよびビルマを含む地域に〈絶対国防圏〉を設定したが,44年6月19~20日のマリアナ沖海戦での惨敗と7月8日のサイパン島失陥によって〈絶対国防圏〉構想は破綻した。東条内閣は重臣を中心とする東条打倒運動によって総辞職に追い込まれ,7月22日に小磯国昭内閣が成立した。その間の43年9月8日,イタリアが降伏し,ファシズム枢軸の一角が崩れた。ついで44年6月6日,連合国軍はフランスのノルマンディー上陸作戦を敢行して第二戦線を結成し,東方から迫るソ連軍とともにドイツを挟撃する態勢をとった。一方44年3~7月に強行されたビルマとインドにまたがるインパール作戦は惨敗に終わり,44年4月~45年4月に約50万名の兵力を動員した大陸打通作戦は,国民政府軍に大打撃を与えたが,中国を屈服させることはできなかった。
(4)1944年10月~45年9月2日(連合国軍の戦略的攻勢と日本軍の絶望的抗戦の時期) 連合国軍はフィリピンから沖縄をへて日本本土へせまり,同時にサイパン島などを基地とするB29による爆撃によって日本を壊滅させるという戦略をとった。44年10月20日,連合国軍はフィリピン南部のレイテ島へ上陸し,日本の連合艦隊は24~25日のフィリピン沖海戦で壊滅状態に陥った(レイテ湾海戦)。25日日本軍ははじめて神風特別攻撃隊をレイテ島沖へ出撃させたが,それは日本軍の絶望的抗戦を象徴する戦術であった。その後連合国軍は,45年6月までにフィリピン全島を奪回,45年3月17日には硫黄島守備隊を全滅させ,4月1日には沖縄本島へ上陸した。約3ヵ月にわたる沖縄戦では,多数の県民や学生が義勇隊,防衛隊,鉄血勤皇隊,ひめゆり部隊などに組織され,戦闘に参加して死傷し,多くの県民が戦闘の巻添えにされて死傷した。また日米両軍による県民虐殺事件が多発し,約800名(1000名以上ともいわれている)が日本軍によって殺害された。その間44年11月からはB29による都市の爆撃が始まり,45年7~8月の米戦艦による艦砲射撃をもあわせ,147以上の市町が被害を受けた。45年4月7日,小磯内閣にかわって鈴木貫太郎内閣が成立したが,5月8日にはドイツが降伏し,日本は独力で戦争を継続した。ついで連合国軍は5月にビルマ,7月にボルネオを奪還,中国でも5月以降国民政府軍と中国共産党軍の反撃によって日本軍の後退がつづいた。そして8月6日広島,9日長崎への原爆投下,8日のソ連の対日宣戦布告と9日からの対日参戦を経て日本は14日にポツダム宣言を受諾して降伏した。
すでに1940年10月12日に大政翼賛会が結成され,天皇制ファシズムが体制として成立していたが,東条内閣は太平洋戦争開戦後に言論,出版,集会,結社等臨時取締法(1941年12月19日公布)や戦時刑事特別法(1942年2月24日公布)などを制定して弾圧を強め,緒戦の勝利を利用して42年4月30日に翼賛選挙を実施した。5月20日貴衆両院議員の大半を網羅した翼賛政治会が結成され,いわゆる翼賛議会体制が確立した。ついで6月23日,政府は大日本産業報国会,大日本婦人会,大日本青少年団などの官製国民運動6団体を大政翼賛会の傘下に統合し,8月14日には部落会長と町内会長を大政翼賛会の世話役に,隣組長を世話人にすることを決定した。その結果,世話役約21万名,世話人約133万名が誕生し,ここに国家権力による国民の画一的組織化が完成され,天皇制ファシズムが確立した。しかし戦局の悪化とともにファシズム体制に亀裂がはいり,脱会者が相次いだ翼賛政治会は,45年3月30日大日本政治会へ改組された。小磯内閣は,3月23日国民義勇隊の結成を決定し,大政翼賛会は6月13日に解散して国民義勇隊へ発展的解消をとげ,6月23日には義勇兵役法が公布された。国民義勇隊は,阿南惟幾(これちか)陸相がいうように,国民の大部分を〈天皇親率の軍隊〉に編成し,天皇制ファシズムによる国民支配の極限形態を示すものであったが,その内実は貧弱な形式倒れの組織にすぎなかった。
一方,日中戦争勃発以来,歴代内閣は国務と統帥の矛盾解決に苦しんでいた。44年2月21日東条首相兼陸相は参謀総長を,嶋田繁太郎海相は軍令部総長を兼任したが,事態は解決されなかった。そこで小磯内閣は,44年8月5日大本営政府連絡会議を廃止して最高戦争指導会議を設置したが,軍部の主張により純統帥事項が議題からはずされたため,国務と統帥の矛盾は解決されず,一元的な戦争指導体制は樹立されずに終わった。そしてこのような内部矛盾をかかえた天皇制ファシズムは,敗戦とともに崩壊した。
日中戦争勃発後に本格化した戦時統制経済は,国家総動員法(1938年4月1日公布)を〈てこ〉として発展していたが,太平洋戦争開戦を契機に経済と国民生活に対する統制が一段と強化された(国家総動員)。まず重要産業団体令(1941年8月30日公布)に基づき,1942年8月までに22の重要基幹産業部門に統制会が設立され,会長には財界人が就任し,企業整備令(1942年5月13日公布)により中小企業の整理統合と下請企業化が推し進められ,ここにファシズム型戦時国家独占資本主義体制が完成した。さらに食糧増産をめぐって寄生地主制と独占資本主義との矛盾も表面化した。政府は米の国家管理,二重米価制,小作料抑制などを実施して耕作農民を保護した。それらの政策は,地主の利益を抑え,寄生地主制を解体に追い込むものであり,農村では自作農上層や小作農上層の力が強まり,戦後の農地改革の条件が成熟していった。一方,兵力と労働力の確保のため,国民の根こそぎ動員が実施された。陸海軍現役軍人は,41年の241万名から敗戦時には719万名(出陣学徒や志願による海軍少年兵などを含む)に増加し,44年2月の労働者3329万名のほか,敗戦時の動員数は徴用工616万名,25歳未満の未婚の女子による女子挺身隊員47万名,小学生から大学生までの動員学徒343万名にのぼった。それでも足りない部分は,朝鮮人と中国人の強制連行によって補われ,1939年-45年に内地へ強制連行された朝鮮人は72万名とも152万名ともいわれ,43年4月~45年5月に強制連行された中国人は3万8931名に達し,彼らは鉱山や港湾で酷使され,多数の者が死んだ。
また国民の日常生活に対する統制も強まった。主食が41年4月1日から6大都市で配給制度となり,成人男子1名1日2合3勺(330g)と決められたのを皮切りに,副食,酒,マッチ,タバコ,木炭,衣料などの生活必需品が配給制となった。〈ぜいたくは敵だ〉〈欲しがりません勝つまでは〉などの標語がつくられ,国民は政府の言うままに耐乏生活を強いられた。しかし急増する軍事費を賄うための増税と国債の乱発,インフレーションの進行,実質賃金の低落,労働時間の延長,労働災害の急増などにより,国民生活はさらに悪化した。43年からは小麦,ジャガイモ,うどん,豆かすなどが主食として配給され,日本本土の1人当りのカロリー消費量も,1931年-40年を100として42年の102から45年には66へ低落した。飢餓状態に追い込まれた国民は,買出しや闇取引きによって命をつなぐようになり,戦意も低下した。また44年からは都市で建物疎開と学童疎開が行われ,44年11月から本格化したアメリカ軍の超重爆撃機B29による本土空襲により,沖縄県を除く全国113の市町で約964万名が被災し,50万名以上が死亡した。
満州事変後文化や教育に対する統制が強められていたが,1941年1月8日東条英機陸相によって全陸軍に布達された〈戦陣訓〉は,〈生きて虜囚の辱を受けず〉として軍人に死を強要した。この考え方が,あらゆる場所で国家権力による強制をともなって広められ,実践に移された結果,兵士の生命を軽視した無謀な戦術や自決の強要などによって,戦争の犠牲者を増大させる大きな原因となった。さらに41年7月21日に刊行された文部省教学局《臣民の道》は,文部省《国体の本義》(1937年5月31日刊)の日本主義国体論を受け継ぎ,〈天皇への帰一〉と〈滅私奉公〉による国家への奉仕を国民に要求したが,この二つの文書こそ,太平洋戦争下の国民の精神生活を規制した基本的文献であった。言論と出版に対する統制も強められた。東条内閣は,太平洋戦争開戦直後から1府県1紙制を原則とする新聞の統合と,雑誌の統廃合に着手した。そのため41年末に1万8022点あった新聞と雑誌は,44年末には2548点に激減した。検閲も強化され,戦争目的に合致しないと当局が判断した出版物は,かたっぱしから削除・改訂・発売禁止の処分を受けた。その反面,大日本音楽文化協会(1941年12月20日),日本文学報国会(1942年5月26日),大日本言論報国会(1942年12月23日)が相次いで結成されるなど,多数の知識人が国策に協力し,すでに宗教団体法(1939年4月8日公布)によって国家の統制下に置かれていた神道・仏教・キリスト教各派の宗教家も,大日本戦時宗教報国会(1944年9月30日)を結成,戦争に協力した。教育面では,41年4月1日から明治以来の尋常小学校が国民学校に再編成された。国民学校は初等科6年と高等科2年から成り,その目的は〈皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス〉(国民学校令第1条)ことにあった。教育内容では,《臣民の道》に示された日本主義国体論,皇国史観,戦争に役立つ科学などが幅をきかせ,教育方法も知識偏重の授業を排し,学校を〈少国民錬成の道場〉として儀式や学校行事を重んじるとともに,軍隊式の絶対服従論,竹槍で近代装備のアメリカ軍とたたかうという非合理な竹槍主義,教師による多様な体罰などが教育の現場を支配するにいたった。
自主的な労働組合と農民組合は,大政翼賛会が結成され天皇制ファシズムが成立した1940年10月前後の時期までに官憲によって解散させられ,大半の労働者は大日本産業報国会(1940年11月23日結成)に,農民は農業報国連盟(1938年11月2日結成)や農会などにそれぞれ組織化され,〈生産増強〉〈食糧増産〉の掛声と警察の監視のもとに国策に協力させられていた。それにもかかわらず1941年から45年8月の敗戦までの労働争議総数は,41年334件(争議行為をともなうもの159件),42年268件(173件),43年417件(279件),44年296件(216件),45年13件(11件)にのぼり,総件数1328件(838件),総参加人員5万6857名(争議行為をともなう争議参加人員3万6896名)に達した。労働争議の大半は,自然発生的な厭戦(えんせん)感情にもとづく無意識的・無自覚的なものであったが,なかには労務管理の拙劣さから生まれた集団暴行事件,〈オシャカ〉と呼ばれる不良品をひそかにつくる〈オシャカ闘争〉などもあった。これに対し小作争議件数は,41年3308件,42年2756件,43年2424件,44年2160件と漸減はしたものの,かなりの高水準を維持し,争議に参加した小作人総数は,9万1425名であったが,小作争議の大半は自然発生的かつ小規模な個別争議であった。小作争議の新たな原因としては,食糧事情の悪化や地主の帰村による小作地の取上げ,軍需工場の地方分散にともなう農地転売のための地主からの小作契約解除の申入れなどがあり,小作農民側は,小作統制令にもとづく小作料減額の積極的要求や兼業収入の増加分による小作地買取り要求などで地主に対抗した。総じて太平洋戦争下の労農争議は,〈組織なき抵抗〉としてつづけられたのである。また,強制連行された朝鮮人,中国人の抵抗は,多数の脱走となってあらわれたが,なかには45年6月30日秋田県花岡の鹿島組出張所における中国人労働者の蜂起事件のようなものもあった(花岡事件)。
これに対し知識人を中心とする個人的抵抗には,さまざまな類型があった。消極的抵抗としては,社会主義者の荒畑寒村らのような完全沈黙,作家の谷崎潤一郎や永井荷風,東大教授で政治学者の南原繁らのような非便乗の良心的活動があり,積極的抵抗には,弁護士正木ひろし(個人雑誌《近きより》発行),元東大教授で経済学者の矢内原忠雄(個人雑誌《嘉信》発行)らのような合法的抵抗,奔敵・逃亡などによる軍隊拒否,日本共産党幹部の徳田球一,志賀義雄らやキリスト教徒で灯台社日本支部の明石順三らのような獄中抵抗,政治学者大山郁夫,俳優岡田嘉子,日本共産党野坂参三らのような国外での反戦活動があげられる。彼らの抵抗は,現実を動かす実効という点では弱く微力であったが,これらの人びとの多くが敗戦後の民主化された日本社会のなかで大きな足跡を残したことは,特筆されるべき事実であった。これに対し民衆のあいだでは,44年7月の東条内閣退陣のころから各種の流言飛語が激増し,警察や憲兵はその取締りにやっきとなった。さらに44年11月以降B29による本土空襲が激しくなるにともない,厭戦・反戦意識が民衆のあいだに広がりはじめた。しかしそれらの意識は,組織化されることなく,自己と家族の生命と生活を守るという個人的な思考の枠のなかで,利己的な現実主義を助長させる方向へ向かっていった。
1941年末現在日本にいた外国人は,2万9326名であったが,彼らは開戦とともに旅行や居住の制限をうけ,彼らの多くはのちに神奈川県北足柄村(現,南足柄市)や長野県軽井沢などの抑留所へ収容された。一方アメリカ西海岸に在住していた日系アメリカ人11万2353名は,42年2月19日の大統領令第9066号により〈再定住センターrelocation center(camp)〉と呼ばれる10ヵ所の収容所などへ強制収容された。彼らの多くは財産を失い,17歳以上の男子は43年2月からアメリカ軍への参加とアメリカ合衆国への忠誠心の有無を調査する忠誠テストにかけられた。アメリカ本土とハワイの日系人2世で陸軍へ入隊した者は,2万5768名にのぼった。敵国人のうち日系人のみを強制収容するという不当な民族差別的措置は,アラスカやカナダから中南米の12ヵ国にまで及んだ。なお戦後日系人は,強制収容に対する損害補償を求める運動をつづけ,その結果J.フォード大統領は,1976年2月19日,F.ローズベルトの大統領令第9066号を取り消した。さらにアメリカ議会が設置した〈戦時民間人再定住・抑留に関する委員会〉は,83年2月24日に報告書《拒否された個人の正義》を,ついで6月16日には最終報告書を発表し,強制収容の犠牲になった日系人の生存者約6万名に1名当り2万ドルを支払うなど5項目の勧告を議会に対して行った。そして市民の自由法案(戦時市民強制収容補償法)が上下両院で可決され,88年8月10日,R.レーガン大統領の署名によって発効した。その結果,強制収容を体験した日系人生存者約6万名に対し1人2万ドル,同時に日本軍の攻撃を避けるためとの名目でアラスカへ強制移住させられたアリューシャン(アレウト)列島の住民約450名に対し1人1万2000ドルの補償金がそれぞれ支払われた。
日本の植民地であった朝鮮と台湾では,皇民化政策の徹底と経済開発を通じて兵站基地化が推し進められた。朝鮮では,1940年10月それまであった国民精神総動員朝鮮連盟が国民総力朝鮮連盟と改称し,官製国民運動の一元化が達成された。この連盟は,〈皇国臣民化〉などのスローガンを掲げ,大政翼賛会と同様に,中央から末端にいたる組織を朝鮮総督府の行政組織と表裏一体化させ,全住民を組織化していた。日本の隣組にあたる愛国班は約10戸から成り,宮城遥拝,勤労貯蓄,日の丸掲揚,神社参拝,日本語常用,〈皇国臣民ノ誓詞〉の斉唱,勤労奉仕,国民服と戦闘帽の着用などの日常活動に朝鮮人を動員した。これらの日常活動は,いずれも〈内鮮一体論〉にもとづくものであり,国民総力朝鮮連盟の結成は,朝鮮における天皇制ファシズムの成立を意味していた。皇民化政策のなかでも日本語の使用と創氏改名は,朝鮮人にはかりしれない苦痛を与えた。1938年3月公布の朝鮮教育令により,朝鮮語は随意科目とされ,学校での朝鮮語の使用が事実上禁止されたばかりでなく,43年からは〈国語普及運動〉が大々的に展開された。39年11月改正の朝鮮民事令にもとづく創氏改名は,任意の届出をたてまえとしていたが,実際には,それに応じない人びとに官憲や教師を総動員して脅迫や圧力が加えられた。その結果,40年8月までの期間内に全戸数の約80%にあたる約322万戸が届け出た。42年10月には青年特別錬成所が設置され,青年の強制的錬成がはじまり,1938年から実施されていた陸軍特別志願兵制度は,44年4月から徴兵制に切り替えられ,20万9279名が徴兵された。さらに44年8月には,国民徴用令が朝鮮にも適用されるとともに,女子挺身隊勤務令が公布され,強制連行がより大規模に行われるようになり,女子挺身隊員のうち5万~7万名が日本軍の従軍慰安婦にされたと推定される。また,朝鮮は工業資源と食糧の供給地としての役割を果たすとともに,経済軍事化による生産増強が進められ,農民は収穫米の60%前後を供出させられた。労働者のストや小作争議もつづけられ,満州との国境地帯では金日成らの抗日パルチザン闘争も展開された。
一方台湾では,大政翼賛会を模倣して1941年4月に結成された皇民奉公会が国民動員の中心組織となった。同会の組織は,台湾総督府の行政機構と表裏一体をなし,隣組にあたる末端組織の奉公班の編成にあたっては,従来から現地住民を連座制によって相互に監視させるために組織されていた保甲制度が活用された。その傘下の団体には大日本婦人会,台湾青少年団,台湾産業奉公会などがあり,奉公運動の実践推進隊として奉公壮年団がおかれるなど,皇民奉公会の体制は天皇制ファシズムの台湾版であった。皇民化政策は,日本語の使用強制,青年特別錬成所への入所,神社参拝の強制などを通じて推進された。さらに42年4月から実施されていた志願兵制度は,45年4月から徴兵制度に切り替えられ,2万2680名が徴兵された。また化学,金属両工業を中心に軍需工業が発展し,農民は収穫米の60%前後を供出させられた。抵抗運動は1935年前後までに挫折させられ,台湾の情勢は朝鮮に比べて安定していた。
これに対し満州(中国東北部)では,1940年度から実施されていた産業開発の超重点政策が石炭や鉄鋼などの基幹産業部門を中心に一段と強化されたが,42年度からの第2期五ヵ年計画は,経済の均衡を無視した強引なやり方のために破綻し,目標を大きく下回った。総動員体制の中心となったのは,1932年7月結成の満州国協和会(協和会)であり,42年5月末で会員289万名,傘下団体には会員135万名以上の協和青少年団や隊員52万名の協和義勇奉公隊があり,外郭団体の満州国防婦人会,軍人後援会などを指導していた。その他に国兵法による3年間の兵役や国民勤労奉公法による1年以内の勤労奉仕が,現地住民に義務づけられた。中国人労働者の労働条件はきわめて劣悪であり,炭鉱や鉱山のなかには,病気,労働災害,リンチなどで死んだ中国人労働者の遺体を捨てる〈万人坑〉をつくっているところもあった。農業移民政策も引きつづき推進され,第1期五ヵ年計画(1937-41)につづき,42年から第2期五ヵ年計画が実施され,敗戦直前には約27万名の開拓民が満州へ入植していた。反満抗日運動は,40年代には全体として分散・潜行の状態を余儀なくされていたが,44年になると八路軍が熱河省に進出し,関東軍と激戦を交えた。
中国本土では,日本軍は〈点と線〉(都市と鉄道)を確保するのが精いっぱいの状態であった。太平洋戦争の開始とともに連合国の資本が経営する企業が接収され,日本の国策会社や民間会社に引き渡され,経済開発も進められた。しかし日本軍の支配は,中国民衆とりわけ中国共産軍の根強い抵抗に脅かされた。日本軍は中国民衆に対して〈奪いつくし,殺しつくし,焼きつくす〉という〈三光政策〉をくりかえし,中国民衆の憤激と憎しみをかった。
これに対し東南アジアの占領地に対する支配方針は,〈南方占領地行政実施要領〉(1941年11月20日大本営政府連絡会議決定)によって定められたが,それはさしあたり占領地に軍政を実施し,軍政実施の目的は重要国防資源の獲得,治安維持および作戦軍の自活確保の3点であり,その本質は帝国主義的なものであった。日本軍は,インドネシア,フィリピン,マレーシア,ビルマなどで軍政をしき,親日的な現地の有力者や官吏を軍政機関に登用したり,のちには現地住民による〈政権〉を認めたりしたが,それらはいずれも現地指導者を傀儡(かいらい)として操る方式であり,軍政は現地住民に日本への絶対服従を強要する軍事独裁体制であった。日本軍は,アメリカ,イギリス,オランダがもっていた権益とそれらの国の資本が経営する企業をすべて接収し,〈委託経営〉の形で三井などの財閥系企業に接収企業を委譲し,現地住民労働者を劣悪な労働条件のもとで酷使した。農業面では,米の作付けと供出が強制され,国防資源であるゴムなどの栽培が奨励された反面,茶,タバコ,コーヒーなどの農園では米やトウモロコシへの作付転換が強行され,現地住民の反発を招いた。
また各地で日本語の強制をはじめ日の丸への敬礼,《君が代》斉唱,宮城遥拝などの儀式が強制されるなど,性急な皇民化政策が実施された。そして皇民化政策以上に現地住民の反発をかったのは,日本軍による残虐行為,強姦,現地調達主義に基づく〈徴発〉と称する物資と食糧の略奪であった。さらに日本軍は,ビルマ,マレーシア,ジャワなどの各地で労働力確保のため,現地住民の強制連行と連合国軍捕虜の強制労働を実施し,鉄道・道路の建設,陣地構築などの重労働に従事させた。そのため多くの犠牲者が出たが,タイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)連接鉄道工事の場合には,工事に携わった捕虜5万5000名のうち1万3000名,現地労働者約5万名のうち3万3000名が死亡したといわれている。一方東条内閣は,〈大東亜政略指導大綱〉(1943年5月31日御前会議決定)にもとづき,ビルマ国(1943年8月1日)とフィリピン共和国(1943年10月14日)を名目的に〈独立〉させ,汪兆銘の中華民国政府とのあいだに日華同盟条約(1943年10月30日)を締結したのち,各傀儡国家の首脳を集め,1943年11月5~6日に東京で大東亜会議を開催したが,具体的政策協定もまとまらないままに終わった。
連合国側は,勝利の見通しがつきはじめた1943年からたびたび首脳会談を開き,戦争終結と戦後処理問題を検討しはじめた。とくに同年11月27日のカイロ宣言(〈カイロ会談〉の項を参照)では,満州,台湾,澎湖諸島の中国への返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏が定められ,45年2月11日のヤルタ協定では,南樺太の返還と千島列島のソ連への引渡しを条件とするソ連の対日参戦が決定され,さらに7月26日のポツダム宣言は,日本が非軍事化と民主化を2本の柱とする対日処理方針を受諾し,即時無条件降伏することを求めていた。これに対し日本では,45年2月14日の近衛文麿元首相の天皇への上奏文提出を契機に,和平工作が木戸幸一内大臣らの宮中グループを中心に進められた。彼らの論理は,敗戦にともなう〈共産革命〉を避けるため,〈国体護持〉の立場から早期和平を実現するというもので,日本国民と日本の侵略戦争の犠牲になったアジア諸民族に対する責任感に欠け,〈国体護持〉のみを唯一絶対の基準とする天皇制擁護の和平論であった。鈴木貫太郎内閣は,7月13日にソ連に対し和平の仲介を依頼したが,ヤルタ協定に参加していたソ連は,18日に日本の依頼を拒否した。ついで7月28日,軍部の圧力に屈した鈴木首相がポツダム宣言を〈黙殺〉すると言明するや,連合国側は鈴木声明はポツダム宣言を拒否したものと受けとり,日本の拒否を口実にアメリカは8月6日広島に,9日長崎に相次いで原子爆弾を投下した。広島への原爆投下を知ったソ連は対日参戦を早め,日ソ中立条約を破って8日日本に宣戦を布告し,9日からソ連軍は南樺太,満州,朝鮮へ進撃した。8月9日から10日にかけて開かれた最高戦争指導会議構成員会議では,天皇の〈聖断〉により〈国体護持〉を条件にポツダム宣言を受諾することが決定された。しかし本土決戦を呼号する軍部はこの決定に納得せず,8月14日には再び閣僚と最高戦争指導会議構成員による合同の御前会議が開かれ,天皇の再度の〈聖断〉によりポツダム宣言の受諾による降伏が最終的に決定され,同日政府はこの決定を連合国に伝えた。8月15日正午,国民は天皇の〈玉音放送〉によって戦争の終結を知り,降伏文書は9月2日に調印された。
太平洋戦争は,複雑な性格の戦争であった。すなわち,(1)日本とアメリカ,イギリス,オランダなど欧米列強との戦いは,太平洋および東南アジアの植民地の再分割をめざした帝国主義戦争であり,(2)日本と朝鮮・台湾・満州・中国および東南アジア占領地の諸民族との戦いは,日本による一方的な帝国主義的侵略戦争であると同時に,諸民族の側からみれば抗日民族解放戦争であった。(3)自由インド仮政府のS.C.ボースのような民族主義的な対日協力者が連合国と戦った戦争は〈民族主義〉戦争であり,(4)日本とソ連が戦った戦争は日本側からは反社会主義戦争であり,ソ連側からは反日・反ファシズム戦争であった。しかし,(5)太平洋戦争全体を見るとき,日独伊によるファシズム戦争と連合国による反ファシズム・民主主義擁護戦争という性格がもっとも強く正面に現れた戦争であり,戦後に連合国が枢軸国に対して行った改革占領方式の実施も,この性格に起因していたといえよう。十五年戦争の日本人犠牲者は,戦死または戦病死した軍人・軍属約230万名,外地で死亡した民間人約30万名,内地の戦災死亡者約50万名,合計約310万名に達した。このうち満州事変と日中戦争における死者はそれぞれ約4000名と約18万9000名であったから,太平洋戦争の犠牲者がいかに多かったかがわかるであろう。しかも特徴的なことは,太平洋戦争の死者の大半が,絶望的抗戦の時期といわれた1944年10月のレイテ決戦以後に出ているという事実である。これに対し,中国の犠牲者は軍人の死傷者約400万名,民間人の死傷者約2000万名にのぼり,フィリピンでは軍民約十数万名が死亡したといわれているが,その他の地域の犠牲者数は不明であり,日本軍と戦ったアメリカ,イギリス,オーストラリアなどの被害も物心両面にわたって甚大なものであった。
では,以上のような被害と加害の大惨害の責任は,誰が負うべきか。太平洋戦争は,出先軍部の暴走によってはじまった満州事変や日中戦争と異なり,天皇を頂点とする支配層上層部が正規の手続きにもとづき,天皇出席の御前会議をはじめとする各種の会議を積み重ねたすえ,出席者全員の同意で開戦を決定したことによって開始された。彼らのなかには,職を賭しても戦争を阻止しようとした者は1人もおらず,資本家や地主のなかからも戦争反対の声はあがらなかった。そしてまた戦争終結の場合も,構成員の交替はあったが,戦争終結の決定を下したのは,天皇を頂点とする支配層上層部であった。したがって戦争の被害をうけた日本の民衆とアジアの諸民族に対して責任を負うべきは,天皇以下の支配者である。これに対し,日本の大部分の民衆は,戦争を〈聖戦〉と信じ,濃淡の差はあっても戦争に荷担し協力し,勇敢にたたかった。しかも多くの場合上官や指導者の命令があったとはいえ,アジアの諸民族に対するかずかずの残虐行為の直接の下手人の多くが民衆であったこともまた事実である。したがって民衆は,一面では被害者であると同時に,他面ではアジアの諸民族に対する加害者でもあり,その民族的責任を負わなければならない。戦争はつねに被害と加害の二面性をもっており,この二つの側面を明らかにすることが必要である。このことは日本人だけにあてはまることではなく,連合国軍による日本の軍民に対する多くの残虐行為の場合も同様である。被害と加害の二面性を明らかにすることなしには,戦争に対する真の批判と反省は生まれないし,とくに国民が加害を生みだした政治的・経済的・社会的諸構造と差別意識を解体する主体的努力を継続しないかぎり,戦争の再発を防止することは困難であろう。ところが敗戦後の日本人は,みずからの手で戦争責任を厳しく追及することなく,今日に及んでいる。
連合国によって開廷された東京裁判(極東国際軍事裁判)(1946年5月3日~48年11月12日)は,(1)国際連盟,不戦条約,国際連合,日本国憲法第9条などに体現されてきた戦争を違法とする世界史の流れのなかで,はじめて国家指導者の個人的な刑事責任を追及したこと,(2)〈平和に対する罪〉という新しい構成要件をつくりあげ,それを構成要件の筆頭にすえたこと,(3)〈文明の裁き〉というたてまえのもとに,〈殺人〉と〈通例の戦争犯罪および人道に対する罪〉を第2,第3の構成要件とし,十五年戦争の侵略的性格と日本軍の野蛮な残虐行為を具体的な証拠にもとづいて白日のもとに暴露したこと,の3点において画期的な意義を有していた(戦争犯罪)。しかし同時にこの軍事裁判は,(1)戦争の当事者である戦勝国が戦敗国を一方的に裁くという〈勝者の裁き〉であったばかりでなく,裁く側に過去4世紀に及ぶ過酷な植民地支配,アメリカによる原爆投下と都市無差別爆撃の戦時国際法違反,ソ連による日ソ中立条約侵犯と日本人捕虜のシベリア抑留問題などの汚点と弱点があったこと,(2)〈平和に対する罪〉は戦争違法観と指導者責任観とが結合されて第2次世界大戦末期に成立したが,これによって個人を重罰に処したことは法理上問題があり,また〈共同謀議〉という英米法でも問題の多い法概念で1928-45年の事実を裁くことには無理があったこと,(3)裁判が事実上アメリカの日本占領政策の一環として行われたため,天皇の不起訴,真珠湾攻撃の観点が優越した被告人の選定,A級戦犯の責任追及の途中打切りなどの不十分な結果をもたらしたこと(戦犯),(4)日本の民衆の侵略戦争への荷担の責任がまったく問題にされなかったこと,などの弱さを有していた。そのためとくに生活の困窮,本土空襲,原爆投下,ソ連参戦にともなう満州での大混乱など戦争末期に集中的な被害を被った多くの民衆は,自己を戦争被害者として意識こそすれ,アジアの諸民族に対する民族的な加害者意識を希薄化させたまま時を過ごし,大日本帝国憲法下の支配者の流れをくむ戦後の保守派とその政府のなかからは,〈勝者の裁き〉のみを指摘して居直ったり,戦争責任を忘却させようとする考えがくりかえし表明されているのである。
→第2次世界大戦
執筆者:木坂 順一郎
火薬,肥料の原料であった硝石資源の開発を原因とするチリ対ボリビアおよびペルーの戦争(1879-83)。南アメリカの太平洋沿岸地域が戦場となったのでこの名がついている。現在のチリ北部のアタカマ砂漠地帯のタラパカ,アントファガスタ地方は,それぞれペルー,ボリビア領であったが,硝石,グアノ,銅などの鉱物資源に富み,しかも当時チリと接していたアントファガスタ南部は,19世紀初頭のスペインからの独立以来国境線が未画定で,これらの資源が主としてチリ人によって開発されていたため,紛争が絶えなかった。このため1873年,ボリビアはチリと条約を結んで国境線を画定し,この国境線より北の一部地域で操業するチリ硝石会社への課税を強化しない旨約束し,と同時にチリの力を恐れて極秘密のうちにペルーと対チリ相互防衛協定を結んだ。
硝石の需要は年ごとに高まり,世界的な生産地としてこの地の硝石産業も急速な発展を示すと,78年ボリビアはチリ硝石会社への課税を強化し,これを拒否した同社を接収した。このため79年2月,チリは軍隊を派遣してアントファガスタを占領,戦火はたちまちチリ対ボリビアおよびペルーの戦争へと拡大した。当初チリ軍は不利であったが,79年イキケの海戦を境に攻勢に転じ,アリカを占領,さらにリマへ遠征して軍事的に制圧,最終的にチリが勝利した。
83年に休戦協定が結ばれ,チリはこれらの地方を自国領とした。チリは内陸国と化したボリビアに賠償金を支払い,アリカからラ・パス間の鉄道を敷設,さらにアリカ港の商業的使用も認めた。アリカは1929年ペルー領からチリ領になった。だがこの戦争のさなかに硝石会社はイギリス資本に買い占められ,チリは領土を獲得しただけに終わった。イギリス資本による硝石産業支配は第1次世界大戦中にドイツが合成化学肥料を発明して硝石産業が斜陽化するまで続いた。またボリビアの海への出口問題は100年後の現在まで尾を引いており,チリ,ボリビア,ペルー3国間の紛争の一原因となっている。
執筆者:吉田 秀穂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1941年(昭和16)12月8日、真珠湾攻撃、日本のアメリカ、イギリスへの宣戦布告で始まり、1945年9月2日、日本の降伏文書調印によって終わった戦争。日本の指導者層は大東亜戦争と呼称した。1931年(昭和6)の満州事変に始まる日中十五年戦争の発展であり、日中戦争を重要な一部として含む。また世界的には第二次世界大戦の一部であり、その重要な構成要素であった。第二次世界大戦はファシズム諸国を中心とする枢軸陣営と反ファシズム連合国との間で戦われたが、日本は日独伊三国同盟によってドイツ、イタリアと結び付いていたので、枢軸陣営に属した。三国同盟は一面では植民地分割協定であり、その面からいえば、戦争は世界再分割のための帝国主義戦争であった。日本の軍事行動は、中国を中心に東アジアから東南アジア、太平洋地域一帯に対して行われたが、日本の占領地域の民衆が抗日のための民族的な統一戦線を結成し、武装抵抗を行ったのもこの戦争の大きな特徴で、そのため太平洋戦争は、アジア諸民族の側からは帝国主義の植民地体制を打破する重要な契機となった。戦争末期にはソ連も参戦し、その結果、戦後の東北アジアでソ連の影響力が強化されるに至った。
[荒井信一]
太平洋戦争は、明治以来の日本の近代化の総決算ともいうべき深い歴史的根源をもつ大戦争であった。日本は日清(にっしん)・日露戦争によって台湾、朝鮮、南樺太(からふと)を植民地とし、南満州(中国東北)を勢力範囲化して、アジアにおける唯一の帝国主義国として自立するに至った。さらに第一次世界大戦では、ドイツ領南洋諸島と中国の山東(さんとう)半島を占領するとともに、中国に二十一か条要求を突き付け、山東省のドイツ旧権益の継承などを認めさせた。また、ロシア革命後の1918年(大正7)にはシベリアに出兵して、東シベリアに傀儡(かいらい)国家を樹立しようとした。戦後のベルサイユ会議は山東に対する日本の要求を認めたが、これに反発して中国では五・四運動が起こり、シベリア出兵も頑強なソビエト側の抵抗によって失敗した。朝鮮でも独立を要求する三・一独立運動が起きた。
日本の大陸侵略が、朝鮮や中国の民衆の持続的な抗日運動の展開やソ連の強国化によって停滞をやむなくされたことは、第一次世界大戦後の東アジア史の重要な特徴であった。この時期に太平洋戦争の一因である日米対立も発展した。日露戦争後、満州問題、日本人移民排斥問題などをめぐり日米関係は悪化していた。とくに第一次世界大戦中の日本の強引な大陸進出は、アメリカをはじめとする列国の反感を買っていた。戦後アメリカが極東市場に復帰すると、対立は軍事的にも発展し、両国間の海軍軍備拡張競争が深刻となった。アメリカは1921~1922年にワシントン会議を首唱して、軍縮条約を成立させるとともに、九か国条約によって、アメリカの主張する原則である門戸開放・機会均等などを中国進出の原則として認めさせた。また四か国条約と引き換えに日英同盟は廃止され、山東省の諸権益も中国に返還された。ワシントン体制は、経済的に優越したアメリカの指導権の下に日本の中国進出を経済的分野に限り、またその活動範囲を西太平洋に限定して極東での列強対立の緩和と帝国主義支配の安定化を図ろうとするものであった。
ワシントン体制の下で、列国との協調、中国内政不干渉を掲げる幣原(しではら)外交が行われ、1920年代の日本の外交は、ほぼ米英との協調派の主導下にあった。しかし中国における国民革命の発展、金融恐慌、世界恐慌の波及に伴う昭和恐慌などの内外情勢は、中国大陸への膨張と対米英抗争を主張する勢力の急激な台頭を招いた。1927年(昭和2)に成立した田中義一(ぎいち)内閣の対華武力干渉政策はその最初の現れであり、太平洋戦争を侵略戦争とし、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)は、日本の侵略計画の発端をこの内閣の対華政策に置いている。1931年の満州事変も、軍部を中心とするこの勢力の始めたものであった。
満州事変は、15年に及ぶ中国侵略戦争の発端となった。同時に国内では、軍部の「革新派」を中心とするファシズム運動の進展するきっかけとなり、軍部はしだいに政治の指導権を握っていった。「満州国」建設後、軍部はさらに「防共」を大義名分とする華北分離工作を進め、華北に勢力を扶植していったので、中国では華北を中心に抗日救国の動きが全国に広がっていった。その結果、西安(せいあん)事件(1936年12月)を契機に、1937年9月国民党と共産党の提携(第二次国共合作)が成立し、抗日民族統一戦線が結成され、全民族的な抗戦体制が初めて成立した。この年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まる日中間の全面戦争が長期化し、1938年末ごろから戦線が膠着(こうちゃく)していった最大の理由は、このような中国側の主体的状況の画期的な転換にあった。日本の支配層はこのような情勢を認識できず、国民党政府の切り崩しや、ドイツ、イタリアとの結び付き強化など、姑息(こそく)な事変処理策によって戦争の行き詰まりを打開しようとした。その一方、南方に進出して戦争を継続するうえで必要な石油その他の資源を獲得しようとして戦線をずるずる拡大し、太平洋戦争の悲劇に帰結するのである。
[荒井信一]
他方、このような日本の動きは、列国との対立をいっそう激化させた。満州事変は中国の提訴によって国際連盟の問題となったが、1933年(昭和8)には日本は連盟を脱退する一方、1936年の日独防共協定(翌年イタリアが加入)の締結を機として、独伊とともに枢軸陣営結成に向かった。アメリカは満州事変に際し、日本の侵略の結果に対し不承認を表明したが、やがて1933年にはソ連を承認し、日本に対抗する新しい勢力均衡を東アジアにつくりだそうとした。日本がロンドン軍縮会議から脱退した1936年からは、日米の建艦競争が無制限に行われることになった。日中戦争の開始は、英米と日本との関係を緊張させ、1937年10月にはルーズベルト米大統領が、侵略者を隔離すべきだと演説するまでになった。しかし英米は、中国に対する具体的な援助には慎重であった。一方、日本の膨張にはソ連に対抗する一面もあり、1938年に張鼓峰(ちょうこほう)事件、1939年にはノモンハン事件と日ソ間に大規模な武力衝突も起こった。そこでソ連は、中国の抗日戦に対し当初から積極的な援助を行った。しかし英米の一部には、日本の侵略がソ連の方向に向かうことを期待する空気もあり、日本に対抗する列強の連係は不十分であった。日本の側でも、重要な戦争資材の供給を英米、とくにアメリカに依存している関係上、英米関係を重視する勢力が宮廷や財界をはじめ支配層の有力な部分にあった。しかし日本の占領地域と戦線が拡大するにつれて、英米の在華権益は大打撃を受け、商品や資本も中国市場から後退した。対立が深まるのは不可避であり、英米の対華援助もしだいに強化された。1939年になると、イギリスはヨーロッパ情勢の急迫から、その対華政策を後退させざるをえなかったが、それはかえってアメリカの対華政策を積極化させる契機となり、日米対立がいまや前面に現れることとなった。アメリカはこの年7月、日米通商航海条約の破棄を通告し、いつでも戦争資材の対日供給を停止して、日本を圧迫できる体制をとった。このような国際関係の緊迫のなかで、防共協定を強化して三国軍事同盟を締結しようとする動きも発展した。その推進力であった陸軍は対象国としてソ連を考えていたが、8月独ソ不可侵条約の成立によって実現を阻まれ、無為無策のうちに第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)を迎えなければならず、このころには陸軍も中国からの撤兵を考慮せざるをえない状況となった。
[荒井信一]
1940年4月、ドイツは電撃戦によって北欧、ついで西欧作戦を展開、6月17日には早くもフランスを降伏させた(その直前の6月10日イタリア参戦)。ドイツはさらにイギリス本土に激しい空襲を加えたが、10月には英本土上陸をあきらめ、ひそかに対ソ戦準備を始め、バルカン半島に進出した。ヒトラーの西欧征服は日本の支配層を眩惑(げんわく)させ、ドイツの支配下に置かれたフランス、オランダの植民地の奪取を中心に東南アジア一帯に武力南進を行おうとする機運を一挙に高めた。7月22日に成立した第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「大東亜新秩序の建設」を呼号し、仏印(フランス領インドシナ)進駐など武力南進の具体的措置を定めるとともに、対米戦の場合を考慮して戦争準備に着手することとした。それは、9月に入って北部仏印進駐、日独伊三国軍事同盟締結となって具体化した。近衛内閣の松岡洋右(ようすけ)外相はさらに翌1941年(昭和16)4月、日ソ中立条約を結び、三国同盟に加えてアメリカを圧伏する体制を整え、対米関係を有利に打開しようとした。この間、国内的にも1940年10月には大政翼賛会を発足させ、強力な権力的統合、国民の自発的支持調達など、総力戦の遂行に不可欠な国内体制の整備に努めた。しかしこれらの動きはかえってアメリカを刺激し、経済制裁や太平洋方面の軍備強化に踏み切らせ、イギリス、オランダもこれに倣った。日本はこれを日本に対するABCD包囲陣(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)の結成と宣伝し、日本とこれら三国との関係は緊張した。この緊張を解決するため、翌1941年4月から日米交渉が開始されたが、交渉は難航した。
1941年6月22日、ドイツは無通告で対ソ戦を始めた。新事態に対処するため7月2日御前会議が開かれ、南進態勢をいっそう強め、そのためには対米英戦争も辞せずとした。対ソ戦についても、独ソ戦の成り行きが有利となれば開戦することとした。この決定に基づいて南部仏印進駐が行われるとともに、関特演(関東軍特種演習)の名のもとにソ満国境に大軍が集中された。しかしこの動きはアメリカの強い反発を招き、アメリカは在米日本資産の凍結、ついで石油の対日輸出全面禁止に踏み切った。さらに米大統領はチャーチル英首相と会談、8月14日大西洋憲章を発表、枢軸諸国の侵略と対決する立場を明らかにした。すでにこの年3月、アメリカは武器貸与法を制定し「民主主義の兵器廠(しょう)」となることを明らかにしたが、ソ連にもこれを適用、反ファシズム連合国の一員としての立場を明確にした。
アメリカの石油禁輸により日本は石油の備蓄を食いつぶしてじり貧状態となることが予想され、このような破局を避けるため開戦を急ぐべきだという主張も海軍の強硬派を中心に強まった。9月6日の御前会議は、10月下旬を目標に対米英戦の準備を「完整」すること、日米交渉が10月上旬になっても目途のつかないときには開戦決意をすることに決めた。10月に入ると主戦派の東条英機(ひでき)内閣が成立した。日米交渉はなお続いたが、中国からの撤兵問題や三国同盟の解消問題をめぐって停滞した。こういうなかでアメリカの決意も固まり、11月26日には強硬なハル・ノートを提出してきたので、交渉は行き詰まった。すでに11月5日の御前会議で、12月上旬を武力発動の時機と定める決定が行われ、陸海軍はハワイおよび南方作戦準備のため進発していたが、12月1日の御前会議は最終的に開戦を決意、かくてその一週間後、太平洋戦争は開始されるのである。
[荒井信一]
まず、戦争の経過を大きく概観しておく。太平洋戦争は、1941年(昭和16)12月8日、日本の真珠湾攻撃によって始まり、緒戦は日本軍の優位のうちに、太平洋でも東南アジアでも日本の占領地域は拡大した。しかし、翌年6月のミッドウェー海戦で太平洋の制海権がアメリカ側に移ったことを転機とし、1943年2月、日本軍がガダルカナル島から撤収したことを決定的な分岐点として、連合国軍は反攻に転じた。1944年6月、連合国軍はサイパン島を攻略したが、このことは、(1)第一次世界大戦以来日本の勢力範囲であった内(うち)南洋が連合国軍の手に移ったこと、(2)アメリカの戦略爆撃機B-29による日本本土の往復爆撃が可能となり、戦争の熾烈(しれつ)な被害が直接日本の全土に及ぶようになったこと、の2点で日本の敗勢を決定的とした。1945年5月のドイツの無条件降伏は、翌月の沖縄戦終結と相まって、太平洋戦争の最終段階の到来を意味し、8月の広島・長崎への原爆投下(6日、9日)と、ソ連の参戦(9日)によって、日本はポツダム宣言を最終的に受諾して降伏、戦争はようやく終結したのである。
1941年12月8日、開戦とともに日本海軍はハワイ真珠湾に奇襲攻撃を加え、航空母艦を除き米太平洋艦隊の主力を全滅させた。さらにマレー沖で英東洋艦隊の主力戦艦を沈め、西太平洋の制海・空権を握った。優勢な海空軍力に支援されて、陸軍はタイ、マレー、フィリピンに進出し、1942年1月にはマニラ、2月にはシンガポールを占領したあと、3月にはラングーン(現ヤンゴン)も占領した。蘭印(らんいん)(オランダ領インドシナ、現インドネシア)も3月には完全に攻略され、日本軍はニューギニア西岸からソロモン諸島に上陸し、この間オーストラリアのポート・ダーウィンにも日本機による空襲が行われた。太平洋では開戦と同時にグアム島上陸が行われ、マーシャル、ギルバート諸島の線にまで日本軍は進出した。
こうして西太平洋からビルマ(現ミャンマー)に至る広大な地域が日本軍の占領下に置かれた。アジアの諸民族がおのおのそのところを得る「大東亜共栄圏」の建設が日本の占領目的とされたが、具体的な占領政策は、資源の獲得と軍隊の「自活」を目的とした。また将来独立を与えるのはビルマとフィリピンだけで、現地民衆に独立の観念を植え付けるよりは、日本軍に一方的に依存し屈従するよう指導する方針がとられた。「大東亜共栄圏」の実態は日本を中心とする植民地体制にほかならなかった。日本軍は至る所で戦争遂行に必要な資源や労働力を略奪したので、現地の物資は欠乏し、生産は破壊され、激しいインフレーションのため民衆は窮乏した。たとえばベトナムでは約200万人が餓死したといわれる。それは、日本軍の過酷な軍政と相まって、各地民衆の占領に対する武装抵抗運動を発展させた。インドシナのベトミン(ベトナム独立同盟)や、フィリピンのフクバラハップ(抗日人民軍)などが抗日のための民族的な統一戦線として結成され武装闘争を行った。「大東亜共栄圏」の中核とされた中国では、日本の占領地域に中国共産党系の八路軍(はちろぐん)や新四軍(しんしぐん)が浸透して次々に解放区をつくり、終戦までにその人口は約1億(1945年8月15日朱徳総司令の米英ソ3国あて覚書)に達したとされた。これら諸民族の自律的な解放闘争の発展は、日本の占領を内部からむしばみ、その敗北をもたらす要因となった。
1942年5月のサンゴ海海戦は、日米双方が航空機で戦った新しいタイプの海戦であった。翌月5~6日のミッドウェー海戦では、米空軍の急襲を受けて日本海軍は主力空母を失い、制海・空権を奪われて、以後、戦争の主導権をアメリカに譲ることとなった。8月には南太平洋上の孤島ガダルカナル島に米軍が上陸し死闘が続けられたが、1943年2月日本軍は同島から撤退した。同島およびソロモン海海戦など周辺海域の戦闘で日本軍は兵力のみならず多くの軍艦、航空機、船舶を失った。その結果、南方と日本内地の輸送は致命的な打撃を受け、日本の戦争経済は破綻(はたん)の傾向を強く示すようになった。
1943年、ヨーロッパ戦線ではソ連軍が戦略的反攻に移り、8月には早くもイタリアが枢軸から脱落して降伏した。太平洋戦線でも連合国軍はソロモン諸島、ニューギニアなどで日本軍を敗退させ、北太平洋でもアッツ島、キスカ島を奪い返した。秋には中部太平洋でも、内南洋制覇を指向する反攻作戦が始まった。9月30日の御前会議は、戦争遂行上絶対確保すべき地域として、戦線のはるか後方に「絶対国防圏」を設けたが、11月末には同圏内にあるギルバート諸島のマキン島とタラワ島が落ち、さらにマーシャル諸島から1944年にはマリアナ諸島に迫り、7月ついに要衝サイパン島が陥落した。同月東条内閣は責任をとって辞職、小磯国昭(こいそくにあき)内閣がこれにかわった。一方、ビルマでも1943年末から連合国軍の反撃が始まった。この間、1944年3月に日本軍はインドへの侵入をねらうインパール作戦を始めたが、イギリス領インド軍のうちのインド人部隊の反撃にあって大敗を喫し、同年中にはビルマ戦線は崩壊した。中国では南方との交通を開く大陸打通(だつう)作戦が1944年春から行われ、国民政府軍に大打撃を与えたが、これが中国大陸における日本軍最後の大作戦になった。
[荒井信一]
アメリカの対日反攻戦略は、日本陸軍の主力と戦うことによる人命の損失と消耗を避けるため、中国本土を避け、フィリピンから沖縄を経て日本本土へ迫る島伝い作戦の形をとった。1944年(昭和19)10月、米軍はフィリピンに上陸し、日本の地上兵力を壊滅させたほか、レイテ沖海戦などで海軍兵力と航空機の大半を失わせたので、日本本土と南方資源地帯との連絡は完全に遮断された。11月からは、サイパンを基地として大型爆撃機B-29が大挙して飛来、東京をはじめ各都市の空襲を開始し、本土の国民も直接の戦禍を受けるようになった。1945年1月には最高戦争指導会議で本土決戦即応態勢確立の方針が決まる一方、10代の少年から40代の老兵までが召集されて本土決戦用の兵力が増強された。2月には米軍の硫黄島(いおうとう)上陸があり、4月には沖縄本島上陸が開始された。日本軍による組織的抵抗の終わった6月23日まで3か月近く続いた沖縄戦では、県民も戦闘に義勇軍として動員される一方、戦闘の巻き添えを食ったり、日本軍にじゃま者扱いにされて殺される例も多かった。当時50万の人口をもつと思われる沖縄で、県民非戦闘員を含む日本側の死者は、約18万人(県援護課資料による)をはるかに超えたものと推定される。沖縄に米軍が上陸した直後、小磯内閣は辞職し、鈴木貫太郎内閣が成立したが、5月ドイツが降伏すると、最高戦争指導会議は、ソ連を利用する和平工作を進めることを決定、和平の仲介をソ連に申し入れることとした。
一方、連合国はすでに1943年11月、カイロ宣言を発し、対日戦の目的を明らかにするとともに、日本の無条件降伏まで戦争を続ける態度を明らかにしていた。さらに日本本土上陸作戦が具体化するにつれて、アメリカはソ連の対日参戦を熱望し、1945年2月の米英ソ首脳によるヤルタ会談では、ソ連の満州の権益や北方領土確保と引き換えに、対独戦終了後における対日参戦の約束がなされた。しかし対独戦が終わったころから、米ソ対立が表面化し、米政府内部では、天皇制の保持を約束することによって日本の早期降伏を促進しようとする機運が高まり、7月初めにはその趣旨を盛り込んだポツダム宣言の原案が作成された。しかし、7月16日に原爆実験が成功すると、ポツダム会談に臨んだトルーマン大統領は、天皇制条項を日本が受諾しにくい形に書き改め、7月26日に公表して日本に無条件降伏を呼びかける一方、25日には原爆投下命令を出した。それは、8月1日以降天候の許すときには日本の4都市(広島、小倉(こくら)、新潟、長崎)のいずれかに原爆を投下することを命令したものであって、ソ連参戦以前に対日戦を終了させようとし、または対ソ示威の効果をねらったものと解されている。その結果8月6日広島に、8月9日長崎に原爆が投下され、市街地を壊滅させたほか、被爆による死者は、1945年末までに、広島で約14万人(誤差1万人)、長崎で7万人(誤差1万人)に上ったとされている(ISDA JNPC編集出版委員会編『被爆の実相と被爆者の実情――1977NGO被爆問題シンポジウム報告書』による)。
しかし、日本の終戦決意を最終的に固めさせたのは原爆ではなく、ソ連の参戦であった。8月9日、ソ連が参戦し、満州・朝鮮で軍事行動を開始すると、同日夜半から10日にかけて開かれた御前会議は、国体護持の条件のみでポツダム宣言を受諾することを決定した。これに対し、アメリカは12日、日本側の条件を暗に認めた回答文をバーンズ国務長官の名で通告してきた。その表現があいまいであったため、陸軍を中心とする主戦派はあくまで本土決戦を主張したが、14日の御前会議は天皇の「聖断」によって無条件降伏を決定した。この決定は翌15日、天皇のラジオ放送(「玉音放送」)によって国民に告げられ、戦争は終わったのである(なお正式の降伏文書調印は9月2日)。
[荒井信一]
日中戦争が長期化すると、政府は1938年(昭和13)4月国家総動員法を制定、労働力や物資を統制し、民需産業を極度に切り詰めて軍需産業を拡大した。そのため日常生活物資が不足し、衣料品や砂糖、マッチなどが配給制度となった。食糧もしだいに不足し、1942年2月には食糧管理法が制定されて、主食も全面的に統制された。一方、国民精神総動員の名のもとに国民の生活や思想に対する統制が強まり、反戦的な言論や戦争に非協力な人々に対する弾圧が強化された。朝鮮・台湾では皇民化政策がとられた。とくに朝鮮では1938年以来、学校での朝鮮語の使用禁止、姓名の日本式姓名への改変、神社参拝などが強制され、物心両面における動員態勢が急激に進められた。
太平洋戦争が始まると、その直後に「言論出版集会結社等臨時取締法」が制定され、すこしでも戦争に疑問をもつ者は「国賊」として徹底的に取り締まられた。一方、1942年5月大政翼賛会も改組され、以降、翼賛会の指導する部落会、町内会、隣組を通じて、国民生活は隅々まで官僚の統制下に置かれ、国民を戦争に動員する「翼賛政治体制」が確立した。戦争はこのように国民に対する過酷な支配と統制の下に進められたが、しだいに深刻化した食糧など物資の不足と労働力の欠乏は、さらに国民に大きな犠牲を強要した。1943年ごろから食糧難は深刻化し、国民はヤミによる物資の補給によってかろうじて生活を維持する状態となった。労働力の不足を補うため、1943年以降は徴用制度が強行され、学徒動員や、女子挺身(ていしん)隊の拡大が行われた。また1944年には朝鮮で、1945年には台湾において徴兵制が実施された。
戦争末期には空襲によって、国内の軍需生産能力も国民生活も深刻な打撃を受けた。学童疎開なども行われたが、空襲によってほとんどの都市が焼失し、1000万に近い罹災(りさい)者を出した。インフレによる物価の高騰も、戦争直後に急速に進行して国民生活を悪化させた。戦時下の日本では、厳しい弾圧によって組織的な反戦運動はほとんど存在せず、わずかに国外の日本兵捕虜を中心に、中国で日本人民解放連盟が組織されて反戦運動を行った程度であった。しかし総力戦の強行に伴う国民生活の広範な破壊は広く厭戦(えんせん)的気分を生み、戦争末期には支配層をして、敗戦よりも敗戦に伴う革命を危惧(きぐ)させるまでとなった。
[荒井信一]
太平洋戦争終結後、1946年(昭和21)から開かれた東京裁判(極東国際軍事裁判)は、太平洋戦争を、軍部を中心とする日本の支配層の共同謀議による侵略戦争とみて、東条英機以下の被告に有罪判決を下した。裁判が国民の前に、戦争の準備や経過、侵略の実態を明らかにした功績は大きいが、反面、裁判が勝者の論理で進められたことや、天皇、財界の指導者の訴追を行わなかったことは、日本の戦争責任の解明に問題を残した。1956年に昭和史論争が論壇をにぎわしたが、そこでは侵略戦争に加担した国民の戦争責任の問題が提起された。
太平洋戦争における日本の戦争責任の問題は、戦争の指導体制の実態をどうみるかと密接にかかわっている。日中戦争以来、戦争の拡大化とともに、軍部や革新官僚を中心として総力戦体制が構築されていった。それを第二次世界大戦におけるファシズム陣営の一翼を担ったものとして、国際的にファシズム体制とみるのであるが、国内的には天皇制の強化という権威主義的要素が強く、ドイツのナチズムやイタリアのファシズムとの共通性と差違をどう認識するかが問題になっている。また太平洋戦争の開戦も終戦も天皇の臨席する御前会議の決定によるものであり、総力戦体制は東条内閣の下で軍部独裁の性格を強めたが、陸軍と海軍の間でも、統帥と国務の間でも、分裂は最後まで克服されず、日本の戦争指導体制の実態は多元的であり、侵略戦争の遂行にあたって個々の人物や勢力の役割や責任を特定しにくいことも事実である。
[荒井信一]
太平洋戦争の人的被害についての正確な数字はわからない。日本側では一般国民を含め250万人前後が死亡または行方不明になったと考えられている。日本の侵略を受けたアジア諸国での死者は1800万人に上り、日本でもアジア諸国でも死者の比率はおおよそ30人に1人と考えられる。最大の被害を受けた中国では軍人・ゲリラの死者321万人、一般市民の死者1000万人以上とされている。
日本の敗北は、アジアの各地域において植民地体制崩壊のきっかけとなった。ベトナム、インドネシアは敗戦直後に独立を宣言した。フランス、オランダはこれを認めなかったが、いずれも激しい独立戦争ののち独立を承認させた。ビルマ(ミャンマー)でも戦争中の反日抵抗組織が完全独立を要求して、1948年に独立を獲得した。インドでは、戦時中に日本軍が組織した「インド国民軍」に対する軍事裁判がきっかけとなって反英運動が発展し、1947年にはパキスタン、インドが二つの自治領の形で事実上独立し、セイロン(スリランカ)も翌年イギリス連邦内の一国として独立した。マラヤは1948年2月自治州の連邦(マレーシア)となり、フィリピンは1946年7月共和国として独立したが、これら諸国では戦争中の抗日武装勢力は抑圧された。
東アジアでは、中国は戦勝国であったが、戦争終結とともに、国民政府と共産党との関係が深刻化し、1946年には内戦に発展した。朝鮮は38度線を境に米ソ両軍によって占領されたが、米ソ関係の悪化とともに、連合国の信託統治を経て独立へというコースは実現せず、1948年にはアメリカ占領地域に韓国、ソ連占領地域に北朝鮮がつくられて、分割国家の悲劇を生んだ。
日本はカイロ宣言によって、主権を本州、九州、四国、北海道とその周辺の諸小島に限られ、連合国軍の占領下に置かれた。沖縄および奄美(あまみ)諸島は直接米軍の軍政下に置かれたが、それ以外の本土に対しては、天皇以下日本政府の機構を通じて占領政策を行う間接統治の方針がとられた。しかし米ソ対立が発展し、中国革命が進展するにつれて、占領政策は日本の経済復興や再軍備を図り、日本を極東における反共の防壁とすることをねらうものとなった。そして朝鮮戦争の勃発(1950年6月)を契機に、日本の再軍備を促すとともに、ソ連などの社会主義国や、中国その他アジア諸国の反対を押し切って、1951年(昭和26)9月サンフランシスコ講和条約を成立させた。しかし、太平洋戦争に多くの犠牲を払った国民の平和意識は成長し、一方的な講和に対する反対は国内でも強く、またその後の再軍備の進展や、そのための憲法改正を阻む大きな要因となった。この国民意識の変革こそ、太平洋戦争の結果としてもっとも重視されるべきであろう。
[荒井信一]
『歴史学研究会編『太平洋戦争史』全6巻(1971~73・青木書店)』▽『日本国際政治学会太平洋戦争原因部会編『太平洋戦争への道』全8巻(1963・朝日新聞社)』▽『児島襄著『太平洋戦争』上下(中公新書)』▽『本多公栄著『ぼくらの太平洋戦争』(1973・鳩の森書房)』▽『木坂順一郎著『昭和の歴史7 太平洋戦争』(1982・小学館)』
19世紀末、アタカマ砂漠の硝石地帯をめぐって戦われた、チリと、ペルー・ボリビア両国との戦争。チリ、ペルー、ボリビアの間ではスペインからの独立以来、国境紛争が続いていたが、1879年4月ボリビアがチリの硝石輸出会社に課税を強化したのに対抗して、チリ軍は海岸部のアントファガスタ(ボリビア領)を占領するとともに、ボリビアと秘密同盟を結んでいたペルーに宣戦布告した。チリの真のねらいはアントファガスタ、タラパカ(ペルー領)の硝石資源獲得にあった。80年5月のタクナの戦いでペルー・ボリビア同盟軍に決定的打撃を与えたチリ軍は12月ペルーに上陸、翌年1月リマに入城した。83年10月、ペルー、チリ間でアンコン条約が結ばれ、ボリビアは海岸部全域を失い海への出口を閉ざされた。またペルーはタラパカをチリに譲渡し、タクナ、アリカについては、10年後に国民投票を実施しその帰属を決定するまでチリの占領下に置かれることになった。しかし予定どおり国民投票が実施されなかったためアメリカが仲介に入り、1929年アリカはチリが、タクナはペルーが領有することで合意が成立した。ボリビアの海への出口については、1904年の対チリ条約で鉄道建設の権利が得られ、ペルー国境沿いのチリ領内に中立地帯を設ける案が長期にわたり検討されたが、うまくいかず、ボリビアとチリの関係は悪化している。
[後藤政子]
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日本が日中戦争を行いながら武力南進策をとったことに起因する,米・英・中・ソ・英連邦諸国など連合国との戦争。当時の日本での呼称は大東亜戦争。日本は,中国の抗戦意思を挫折させるため,1940年(昭和15)援蒋ルート遮断を目的に仏印進駐を実行。さらに,フランスの降伏に代表されるドイツ勝利の報で南方植民地へ侵攻を始めた。同年9月27日の日独伊三国同盟締結はアメリカとの対立を深め,アメリカは,41年7月25日の在米日本資産凍結,8月1日の石油の全面禁輸によって南進阻止をはかった。41年12月8日,宣戦布告の手交前になされた真珠湾攻撃によって戦争勃発。日本とアメリカは,反対の陣営に立って第2次大戦にも参入することになった。緒戦は日本が優勢で42年半ばには支配領域が最大になったが,ミッドウェー海戦での敗北後,補給線が続かず制空権・制海権維持のための地上基地の不足によって連合国軍の反攻にあった。米海軍は中部太平洋から島づたいに北上し,米陸軍はニューギニア・フィリピンから進攻した。この間,日本は汪兆銘(おうちょうめい)政権や,連合国の植民地だった地域を大東亜共栄圏とよんだが,実態は日本への資源供給地としての位置づけにすぎなかった。輸送船団の崩壊,本土空襲,国民の戦意低下,原爆投下,ソ連参戦がポツダム宣言受諾を決意させた。45年9月2日降伏文書調印。
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①〔1879~83〕la guerra del Pacífico 1879~83年の硝石(しょうせき)資源をめぐるペルー,ボリビア対チリの戦争。ペルーとボリビアにまたがるアタカマ砂漠は,肥料,火薬原料である硝石の生産地だった。この地域は国境線が未画定であり,硝石の採掘はイギリス資本に後押しされたチリの企業があたっていたが,チリ企業への課税強化に端を発して3国が開戦した。海軍力に勝るチリの勝利に終わり,ペルーはタラパカ,アリカ両県を失い,ボリビアはアントファガスタ県を失って内陸国となった。
②〔1941~45〕第二次世界大戦
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…1945年8月15日正午,天皇みずからが太平洋戦争の終結を国民に告げるために,円盤録音によって行った終戦詔書のラジオ放送。この放送は,前日8月14日の御前会議において,天皇みずからの最後決定により実施となったもので,録音は同日深夜,宮内省の天皇の政務室で行われた。…
…〈ぜいたくは敵だ〉〈欲しがりません,勝つまでは〉という標語で国民は耐乏生活を強制され,すべてを犠牲にして戦争協力を強いられたのである。
[太平洋戦争への道]
日中戦争の軍事的解決のめどがなくなり,戦争経済の困難も加わって,日本が内外ともに行き詰まっているとき,ヨーロッパに新しい情勢が展開した。1939年9月,第2次世界大戦がはじまったのである。…
…東条英機内閣が決定した太平洋戦争の呼称。開戦2日後の1941年12月10日,大本営政府連絡会議は,この戦争を〈支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す〉との決定をおこない,12日内閣情報局は戦争目的が〈大東亜新秩序建設〉にあるとの説明を発表した。…
…世界有数の銅山チュキカマタ鉱山もこの地域にある。アタカマ砂漠の北半分は,かつてボリビア領であったが,1883‐84年のボリビア・ペルーとチリとの戦争(太平洋戦争と呼ばれる)の結果,チリ領となった。この戦争も硝石の採掘に関する利害の対立によって生じたものであり,アタカマ砂漠の鉱産資源開発が盛んになったのも,1880年代からである。…
…しかし88年の国民投票で軍事政権は不信任され,89年の大統領・国会議員選挙を経て,90年にチリは民政に復帰した。【吉田 秀穂】
【経済】
チリでは中央集権的な寡頭政治による政治的安定が早くから確立しており,経済的にも,はじめは小麦の輸出,次いで銅,チリ硝石の輸出(1879‐83年の太平洋戦争における勝利により硝石地帯の領有確定)により,早くから繁栄がみられた。しかし1929年の世界恐慌はこのような一次産品輸出経済に強い打撃を与えた。…
※「太平洋戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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